000301 京都。


 ――行き当たりばったり。

 が、僕の信条である。いや、信条というか普段考えなしに動いてるから結果的に行き当たりばったりと言われてもしょうがないことになっちまう、といったほうが正しいのか。いずれにしても困ったヤツである。で、その行き当たりばったりもここに極まれり、ということになってしまった。−なぜか金閣、である。

 春休み。やたらとヒマヒマな僕は帰省することにした。例によって青春18きっぷを用いてののんびり帰省である(片道13時間)。ヒマと体力が有り余ってるからこそ出来る芸当、と言える。これだけの時間を宙ぶらりんにしておくわけもなく、しっかりと文庫本5冊を携帯していた。村上春樹4冊と北村薫1冊。お供として村上春樹を選んだのは、当時の自身の精神状態にピッタリなのではないかと思ったからである(実際そうだった)。北村薫は待望していた新刊である。それが、『冬のオペラ』であった。

 3月1日、本日解禁の青春18きっぷを改札にて意気揚々と差し出す。午前4時40分。ここまで気合の入った18きっぷユーザーもいないだろうが、その用途は「帰省」といういたって地味なものである。何の野望もない。ただただ安く帰省できればそれでよし。この時点での僕はストレートに乗り継いでさっさと家に帰る、ということしか考えていなかった。

 名古屋を通過するまでは眠りこけていた。前日徹夜だったのだから無理もない(とは言っても僕の生活リズムは何をして「徹夜」と称すのかが曖昧なくらいに不規則であるのだが)。不自然な姿勢で寝ていたもんだから首が痛くてしょうがない。もう寝るのも限界かな、ということで読書に移行することにした。そこでまず取り出したのが、『冬のオペラ』。

 北村薫は、日常の謎と、そこに潜む人の心の陰と陽を描く達人である。人が殺される、犯人を探す、という定型にはまらないミステリを生み出し、ミステリの魅力を改めて教えてくれた作家で、僕も昨年来どっぷりと浸かっている。この中編集もその期待に違うものではなく、ゆれる電車と首の痛みと格闘しながらも猛烈な速度でページを捲っていった。そして中編3編目、表題作「冬のオペラ」を読了した。

 その無駄のない筆致、さわやかな読後感に酔ったのは毎度のことだったが、今作において格別に僕の心を打つものがあった。京都の情景描写のすばらしさ、である。主人公の目と言葉を通して語られる冬の京都の風景は、白く輝いていた。雪の白、花の白が鮮やかに描かれていた。見たい、と思った。そこで、はたと思い至って時刻表を開いてみた。

 京都着 13:44

 電車は近江八幡を過ぎたあたり。あと30分ほどで到着する。心は決まった。「そうだ、京都行こう」である。まさに「行き当たりばったり」、なんと単純。しかし作品世界から思い描かれる風景、言い換えれば一流の作家の目を通した風景と、僕自身が直に見る風景の差異はどのようなものなのか、僕自身の目には京都がどのように映り、どのような言葉が生まれるのか、抗しがたい魅力に突き動かされて、春まだ浅い京都に途中下車することに決めた。

 京都駅。4年前に受験で訪れたときには改築中だったが、このたびその完成形を見ることとなった。・・・アホである。浮いている。要塞を思わせる威風堂々たる外観。前衛建築と考えれば建物自体は悪いものではない。問題はこれを京都のド真中に配する美的センスである。世界遺産にも登録された京都の町並みにあまりにも似つかわしくない。こんな批判をいまさらしてもしょうがないとは思うのだけれどね。

 さて、ここで主人公の足取りを追ってみるというちょいと小粋なことをやってみようじゃないかと考え、文庫本を取り出しページを捲ってみた。どうやら嵯峨線に乗り換え、花園へ向かえばいいようである。ガイドブックも地図もなしに観光に乗り出すのもいいもんだね(というか僕の場合いつもそうだ)。

 花園駅。ここもまた近年改築が行われた様子で、やたらと小奇麗である、東京郊外のニュータウン付近の駅を思わせる。機能的だけれども殺風景な駅舎(という単語も不似合いだが)にまた少し期待を裏切られた気分になった(旅行者の勝手な見解としてだけど)。主人公はここで、風花に出会う。

 名前もやさしい花園の駅のホームに降り立つと、白いものがすうっと目の前に流れた。出来過ぎた話だが、駅に合わせたように−風花だった。見上げれば、微かに日の差す空から次々と小さな点が舞い降りてくる。

 残念ながら現実にはこのような素敵な光景には出会わず、したがってなんの文学的表現も思いつかなかった。無から有を生み出すほどの想像力にも欠けていた。ここに作家と僕との隔たりがあるのだろうな。

 主人公を追って妙心寺へ。広い敷地のなかの、「松と土塀に囲まれた道」をぷらぷらと歩く。やや寒いのだがコートを着て散策しているとじわりと汗ばんでくる。思えば今年に入って春を感じたのはこの時が初めてであった。知らず入り込んだ庭の一角にししおどしがあり、ちょっとした感慨を覚えてナゾに写真を撮ってみる。このときそんなことをしている自分を第三者的に見下ろし、そして思った。

 「・・・なんでおれ、京都にいるんだろう」

 ・・・まあ、深く考えないことにしよう。

 (主人公と同様に)妙心寺を抜けて、さて、と考える。やはりもうちょっと足を伸ばして鹿苑寺間で足を伸ばしてみよう、そして主人公は修学旅行で行ったことがある、という理由で敬遠した龍安寺と仁和寺にも寄ってみよう、と、とりあえず(そしてめずらしく)プランをたててみた。歩くと結構な距離である。荷物が重く肩に痛い。実は作中、主人公もロッカーに預けられなかったバッグの重さに辟易しているのである。こんなささやかな共通点が、なんだかうれしかったり。

 鹿苑寺、といえば金閣。僕にとって見れば初である。修学旅行で京都に来ることがなかったのだよね。ちょっとばかりウキウキしてみたが、拝観料400円ということで水を差された。「む、金、とるのかよ」。貧乏旅行を決め込んでいたのだが、ここでケチってもしょうがないのでしぶしぶ払うことにする。それだけのものは見せてくれるんだろうな、コノヤロウ、と、およそ場に似つかわしくない意気込みで入場した。

 「・・・金色にも程がある(桂小枝で)」

 この一言に尽きる。金閣、おそるべし。ほんとにきんきらきんである。それでいて悪趣味の域には収まらないだけの壮麗さは感じさせる。周囲の自然の美に精一杯対抗しようと試みた姿にも思えた。これさえ見られればあとは用はねえ、こちとら急ぎなんでえ、とばかりに残りは足早に駆け抜けた。滞在時間は20分にも満たなかったのではないか。まったくナメている。

 しかし、抹茶羊羹色の池は、まことにスケールが大きい。実際以上に大きく感じられる。島の一つ一つがふうっとふくれて人間の住んでいる異郷に見えたりする。なるほど、これだけの背景と張り合おうとすると、建つ建物は《金閣》になるのかもしれない。

 それにしても目に付いたのは鹿苑寺のすぐ隣にそびえ立つ(というには貧相だったが)ラブホテルであった。こんなところまで来てイタしたいのか、それともこんなところだからこそイタしたくなるのか、深遠なるテーマの振りをして少しばかり考えてみたが、結局、まあ、どっちでもいいや、ふんっ、と結論づけて脇を通り過ぎた。

 続く龍安寺、仁和寺も超高速で駆け抜ける。龍安寺石庭を見ては「おお、枯山水だぜ、わーいわーい」、仁和寺を巡っては、「む、法師だね。やっほーやっほー」とまったく乱暴な観光である。無知もいいところでこれでは冒涜である。将来文化的に成熟してから、予備知識を持ってもう一度訪れないといけないね、と思う。

 再び京都駅。滞在時間はなんだかんだで3時間であった。ずうっと歩きっぱなしで少々疲れた。電車に乗り込み、長旅の続き。目的であったところの、僕の目に京都はどう映ったのかというと、はたして文学的表現は僕からはちいっとも生まれてこなかった。しかしこうしてやたら饒舌な日記が書けてしまった以上、何らかの言葉が生まれたとはいえるのだろう。それだけでも意義はあったよね、と思った3月のよく晴れた日。


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