000510 原田宗典。


 先日深夜、例のごとく学校でパソコンに向かっていたわけですな。と、そこに、友人から電話。「麻雀やってたら電車なくなっちゃった」とな。ふむふむなるほど、日本語に直せば「だからおまえんち泊まらせろよ、この野郎」ということですね。で、2名さまが突如、我が家に収容ということになりました。うち学校から近いからね、毎度のことなんですけど。こうして転がり込まれるのって、迷惑ならずうれしかったりするもんです。

 そこで当然(なのか?)、呑みに入ります。ツマミは肉です、肉。カルビ、ホルモン、レバー、砂ギモと、大量に買い込み、片っ端から焼いていきました。レタスなんかも用意して、巻いちゃったりというこしゃくな食べ方もしてみたりして。・・・ちょっと待て、今、深夜2時だぞ。

 酒が程よく入ったところで、語りに突入です。大だらはが終わって間がなかったこともあって、僕はその模様を興奮気味に話しました。「原田宗典来たんだぜ〜」「あ、これ、いっしょに撮った写真ね」「生原稿もらったんだぞ、ほれほれ、あそこに飾ってあるの」とね。・・・でもね、なんか、反応薄かったの(涙)。ファンじゃない人、知らない人にとってみれば、そういうものなのかねえ、と、ちょっと肩透かしをくらったところに、こう聞かれました。「原田宗典の作品って、どういう感じ?どこが好き?」

 ・・・僕はそこで、はた、と答に窮したんです。ううん、好きは好き、大好きなんだけど、どう表現したもんかなあ?と。言ってみれば「なんとなく」なんだけど、それじゃ答えにならないし。僕は何かに対して、感覚的に好悪の判断を下したあと、あんまり深く考えないんですね。「なんとなく好き」「なんとなく嫌い」のレベルに留まっているわけです。だからそこで「どうして好き?」「どうして嫌い?」と聞かれたときの説明はめっぽう苦手です。自分の好きなものについて、「どこが好き」「どこが面白い」ということを語る言葉を持たないのはさみしいものです。

 だから、試みてみます。悔しいから。作家・原田宗典を、僕がどうして好きなのかの説明を、してみたいと思います。なんて無謀な。


001/003


 ・・・「もどかしさ」がある、と言った友人がいました。原田作品を読んだ印象として。「答えの出ない問題を前にもがいている」と。これを聞いたとき、「あ、うまいこと言いやがったな、ちくしょう」と思ったんですね。そう、「もがいている」んです。エッセイにおける原田さん自身も、小説における主人公も。そして僕は、その「もどかしさ」が好きなのだな、と気がつきました。

 誰だって、自分の弱点をさらけ出すのには抵抗があります。そんな中、弱さ、コンプレックスをセンスよく笑いに転化できる人にまれに出会うことがあります。かなわねえな、と思うんですね。自分が、そうありたいと思いながらもできないことだから。原田さんのエッセイこそがまさしく、その転化が高い次元で成功しているのですね。弱点をはじけさせたとき、突き抜けたとき、それは笑えるエッセイになります。

 ここでその転化の方向を変えてみると、小説としての結実をみることになります。原田さんの小説の主人公は(初期の自伝的小説においては特に)、みんな、もがいています。行き止まりで。一直線に。「他のことに目を向ければいいのに」と声をかけたくもなったりするでしょう。でもね、それがわかっちゃいるのに、ままならず、もがき続けてしまうのが人間でしょう。限りなくバカなんだから。そこが素敵なんだから。

 さらに転化が完全に自己から離れ、エンタテイメントとしての小説の追求に向かったとき、『スメル男』、『平成トム・ソーヤー』に代表される純粋な娯楽小説が完成します。ですがこれらにおいてもやはり悩む人間は描かれていますね。原田作品が共感を得られやすい理由の一つは、ここでしょう。「これは私」「私もそう」。だれだって悩むんですから。逆にいえば原田作品に反発を覚えるとすれば、その部分もまた、ここなのだと思います。「もどかしさ」に我慢できなくなってしまって。自分を見ているようで。

 エッセイ、小説、いずれにおいても根底にあるのはそんな人間の弱さを大きなふところをもって見つめている作者、原田さんのあたたかな視線です。原田さん自身が自分の弱さを自覚し、冷静な目でそれをとらえているから、周りの人に対して徹底的に優しくなれる(作品にする段階においての自己犠牲はおおいにあるのでしょう。こういう姿勢で常にいることはツライし、疲れる。鬱にもなる。・・・勝手な見解ですけど)。読者はその優しさを全作品から感じとることができる。原田宗典が、作品とともに作家自身ひっくるめて読者に愛される稀有な存在である理由はここにあるのではないでしょうか。そして僕が原田宗典を好きな理由は、まさにそこです。


002/003


 ・・・僕が原田宗典に出会ったのはかれこれ7年前、高校1年のときです。そのときはそれこそ、ただ単に読み、笑い、感動していました。そしてそこで止まっていました。もちろんそれでもいいんです。ですけど、時を経て今こうして、少しだけ語る言葉が出てきた、それはやはりちょっとうれしいです。

 もっとも僕は、なにごとに対しても、好きなものは好き、説明は不要、というのが基本スタンスです。説明ができないからこその開き直りなんですけどね。

This article is inspired by K.M, K.I & moroyan.


003/003

戻る