000817 意味。


「犀川先生なら、どう答えられますか?学生が、数学は何の役に立つのか、ときいてきたら」

「何故、役に立たなくちゃあいけないのかって、きき返す。だいたい、役に立たないもののほうが楽しいじゃないか。音楽だって、芸術だって、何の役にも立たない。最も役に立たないということが、数学が一番人間的で純粋な学問である証拠です。人間だけが役に立たないことを考えるんですからね。そもそも、僕たちは何かの役に立っていますか?」

森 博嗣 『冷たい密室と博士たち』

 ぷーさんのHP、phosphorescenceの、7月10日の日記に対するレス(今ごろかい)。

 人生に意味なんてない、と考えています。

 すべての行為に意味があり、自分が何かの役に立たなければならないのだ、とする考えは、正しいです。圧倒的に。だけど僕は少し違和感を覚えるのです。

意味がなくても、いいんじゃないかな?
役に立たなくてもいいんじゃないかな?
こう考えることで視界が開けることもあるんじゃないかな?

 この「意味」にとらわれて身動きができなくなったのが、春先の自分自身でした。研究室の配属が決まり、さあこれから研究漬けの日々になるぞ、というその時期に、「はて、これからおれがやってく研究に果たして意味があるのかな?」という方向に思考が陥ってしまったのです。

 敢えて批判的な言い方をしてみれば、閉ざされた空間での遊び、それが(大学における)研究です。社会に対する貢献だとか利益だとかと無関係に興味のおもむくままに自己の満足の為にできる研究。そんな遊びに意味を見出そうとした段階で迷路に迷い込むことは目に見えていたのですが。就職という選択肢が見え隠れする中での焦りがこのような悩みを引き連れてきてしまったのですね。


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 意味がなくてもいいのだ、いやむしろ意味がないからこそ素晴らしいのだ、という結論に回帰するまでに随分と時間を要しました。企業の研究となると利益を追求しなければなりませんし、即効性のある結果が求められます。その点大学ならばいい意味で世間からズレた、研究のための研究、ができるわけです。こっちの方が性に合ってるかな、修行もできるかな、というのは大学院進学を決めた理由のひとつでもあります。

 と、研究研究とカッコよさげに言ってはいるものの、学部の4年、そして大学院修士過程の2年でできることなんてたかが知れています。ほんの入り口でしかないでしょう。その入り口さえ覗きもしないうちに論ずるなんておこがましいやね、と、乱暴ですがこう考えることで楽になれました。


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 さて、話を「人生の意味」に戻してみましょう。おりしも原田宗典氏が東京・岡山でおこなった舞台のテーマが「人生について」でした。これを観たときに感じたこととも関連してくるのですが、人生は千差で万別です。意味を考える間もなく意味なく奪われる人生もあります。本人が意味なんか考えてなくったって多くの人々に大きな影響を与える人生もあります。これらに画一的な意味なんてかぶせられるわけがない。だったら、意味なんてないって考えた方が、よっぽど楽で前向きだと思うのですがどうでしょう。

 ある程度の普遍性を持った「人生の意味」を提示し、それが支持される、というのが宗教家でしょうか。意味を他者から与えられて安心する、という心理はわかりますけれども、その普遍性ゆえに「え?」という印象を抱いてしまいます(参照;http://member.nifty.ne.jp/t_asakura/)。

 もうちょっと言うならば。

人生の意味は、
「ある」という前提で見つけようとするものではなく、
「ない」という前提で各人が作ろうとするものなのではないかと。

 現在進行形の人生の意味を模索することは、ともすれば深みにハマってしまうもの。だからまあ僕はふだんお気楽能天気に生活してるんですな(度が過ぎるかも知らん)。

 ああ、でも、こういうことをうだうだ考えてる時間もまた、楽しかったりするんだよね(最後に説得力なくなっちゃった)。

「僕ら研究者は、何も生産していない、無責任さだけが取り柄だからね。でも、百年、二百年さきのことを考えられるのは、僕らだけなんだよ」

森 博嗣 『すべてがFになる』

そう、研究は役に立たない。何も生産しない。それは小説も同じである。小説は役に立たない。何も生み出さない。だがどちらもそれで未来のことを考えることができる。そしてなにより、どちらも楽しい。

瀬名 秀明

This essay is inspired by pooh.


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