さて、話を「人生の意味」に戻してみましょう。おりしも原田宗典氏が東京・岡山でおこなった舞台のテーマが「人生について」でした。これを観たときに感じたこととも関連してくるのですが、人生は千差で万別です。意味を考える間もなく意味なく奪われる人生もあります。本人が意味なんか考えてなくったって多くの人々に大きな影響を与える人生もあります。これらに画一的な意味なんてかぶせられるわけがない。だったら、意味なんてないって考えた方が、よっぽど楽で前向きだと思うのですがどうでしょう。 ある程度の普遍性を持った「人生の意味」を提示し、それが支持される、というのが宗教家でしょうか。意味を他者から与えられて安心する、という心理はわかりますけれども、その普遍性ゆえに「え?」という印象を抱いてしまいます(参照;http://member.nifty.ne.jp/t_asakura/)。
もうちょっと言うならば。
人生の意味は、 「ある」という前提で見つけようとするものではなく、 「ない」という前提で各人が作ろうとするものなのではないかと。
現在進行形の人生の意味を模索することは、ともすれば深みにハマってしまうもの。だからまあ僕はふだんお気楽能天気に生活してるんですな(度が過ぎるかも知らん)。
ああ、でも、こういうことをうだうだ考えてる時間もまた、楽しかったりするんだよね(最後に説得力なくなっちゃった)。
「僕ら研究者は、何も生産していない、無責任さだけが取り柄だからね。でも、百年、二百年さきのことを考えられるのは、僕らだけなんだよ」
森 博嗣 『すべてがFになる』
そう、研究は役に立たない。何も生産しない。それは小説も同じである。小説は役に立たない。何も生み出さない。だがどちらもそれで未来のことを考えることができる。そしてなにより、どちらも楽しい。
瀬名 秀明
This essay is inspired by pooh.
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