000914 文章。


 世の中には、平易に書く天才というものが存在する。子規がそうだし、漱石がそうだ。時代を下って、大衆文学に目を向ければ、岡本綺堂や、江戸川乱歩や、横溝正史が、平易に書く天才である。

殊能 将之 『美濃牛』

 Web上を散策していると、すごい文章の書き手に出会うことがあります。素人が、無償で発信している言葉たちに、その世界に、強烈に殴られることがあります。僕が好みとするところの文章には2種類ありまして(中学校英訳的言い回し)、一つは、たとえ文法話法がでたらめでも、その文章全体から書き手の世界観、センス、心意気が理屈抜きで突き刺さってくる文章。もう一つは、平易な単語が並べられていて簡潔にして書き手の心が素直に自分の心に染み渡る文章。例えるに、前者が桑田佳祐椎名林檎の歌詞であり、後者が槇原敬之吉田美和の歌詞のようなもんでしょうか(自分の趣味に走っている)

 僕には、前者のような文章は逆立ちしたって書けません。ですから、このような文章の書き手を見つけると、惚れます。すぐに。プロには書けないものです。計算して同様な文章をものするプロは存在するでしょうけど。意図せずして説明不可能な勢いのある文章を書くことができる、これは一つの才能です。感情・感触・情景が直で伝わってくる文章。小細工のない文章。読み手はなすがままに書き手の心に押し切られてしまう、そんな文章に出会うとうれしくなります。計算・意図なしの、素人の、それこそ素の才能があちらこちらにあふれているネットという世界は、この点においても価値があります。


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 僕は文章を書くとき、後者のような文章が書きたいな、という姿勢でいます。イメージとしては、(現在高校生の)妹に連立方程式の解法を教えるように。難しいことを難しく語ること、簡単なことを小難しく語ること、これらはけっこう楽だけど、難しいことを簡単な言葉で語れるようにありたいな、と思っています。僕が小学生のころに図書室で借りて読んでいた江戸川乱歩や、中高生のころに親の書棚から引っ張り出して淫靡な気分で読んでいた横溝正史は、当時の僕にしても理解し、楽しめるものでありました。ですがこれらはたとえ今現在、あるいは何十年の時を経て読んだとしてもその魅力は色あせていないでしょうし、むしろ作品から感じるところは深くなっていることでしょう。これは、これら作品が平易な言葉で語られていながらも高度な世界を成し、かつ高級なエンタテイメントとして完成しているからです。友人に難しいことを易しい言葉で語ることに長けているヤツがいて、そいつの弁舌にはいつも憧れるのですが、僕はそのような話術は持ち合わせていません。そのかわりに比較的得意とする文章を書く、という作業においてこの理想に近付きたいな、と思っています。


002/003


負の感情はね、
書くことで発散になります。
整理され、落ちつきます。
でもね、
書かれた文章に染みついてしまったその感情は、
置き去りにしたつもりのその感情は、
忘れたころに、
自分に跳ね返ってきます。
傷つくのは自分だけでしょうか?
そうでないこともあります。
のどに刺さった小骨のように、
しくしくと心を痛めつけます。
そんな役目を担わされてしまった文章は、
ちょっとかわいそうじゃない?
ふと、思うこと。


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