001010 経験と言葉。


 先日、西日本で大きな地震がありました。僕はこのニュースを東京で、知りました。研究室の先輩と昼食を食べているときに、ワイドショーで。

 瞬間、「5年前」が頭をよぎりました。闇の中の炎と煙の映像が、浮かびました。当時僕が住んでいた岡山での揺れはそれほどに大きなものではありませんでした(比較して、ということです)。ですが、あの朝飛び起きて経験した人生で最も大きな揺れと、その後テレビを通して見ることとなった前述のような情景とが重なって、表現しがたい感情にとらわれました。1回目の夜に連続して起こった余震に、自分の身体の振れが重なって始終揺れているような錯覚に陥ったこと、いつも軽妙にしゃべっていたラジオのDJが被害を悲壮に伝えていたこと、これらを思い出しました。そう、瞬間に。

 とりあえずは平静を保ち「だいじょうぶですかねえ」などと先輩に語りかけていましたが、「5年前」が体に残したものを再確認することとなりました。今回被害は少なく、実家の方もなんてことはなかったのですが、やはり実際に電話が通じるまでは少しの不安に包まれていました。


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 思い出したことがあります。上京してきた当初、新しくできた関東地方出身の友人と、この地震について語ったとき、そのとらえかたの温度差に愕然としたこと。憤慨さえ沸いてきたこと。そりゃあ東京にいたジャーナリストや大臣が、失言をかますはずだわな、と感じました。やはり経験したものじゃないとわからないものなんだよね、と思いました。

 ですが今回、翻って自分の経験を周りの人と比較してみました。死に瀕した人がいます。少しの揺れに心が騒いでどうしようもなくなってしまう人がいます。その人たちを前に、僕の経験はとても弱いものです。この僕が語る言葉は、彼らの苦しみ哀しみを反映しないんじゃない?実のところ僕は、少しも理解していないんじゃない?こう考えてしまいました。そして、自分の経験について語る言葉を見失ってしまいました。

 僕が陥ったジレンマを換言すると、こうなります。

 経験したものにしかわからない「心のありさま」に歩み寄ろうとする行為はむなしいものなのでしょうか?


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 ここで、立場を変えてみます。僕自身を「経験者」の立場に置いてみます。

 掲示板にちらりと書きましたが、昔から身体の調子を崩すことが多く、病院によく通っていました。長期に渡るものではありませんでしたが、入院も何度か経験しました。今思い返すに、心によるもの、身によるもの、両面があったわけですが。検査だの点滴だのでベッドに伏せていた時間。そのときの思考感情。これを僕の「経験」だとしてみましょう。これは、他人には理解し得ないものでしょうか。そうではないと思います。

 入院している人へのお見舞いに際し、「(私って)超健康体だから、病気してる人の気持ちって、微塵もわからない」こう言った人がいました。しかしながらその人は、相手の身になってその気持ちを理解しようと努め、結果「もどかしさ」を感じました。確かに同一の感情を抱くことはできないかもしれません。経験がないんだから。だけど相手と自分を重ねて見ようとした時点で、経験の有無の溝は埋められているんじゃない?こう思います。同一ではないけれども同等の感情レベルに到達することはできると思います。こういう能力が、人には備わっている。ここで敢えて僕の経験に拠る思いを述べますが、こういう心でお見舞いに来てくれたこと、それだけで充分なんです。


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 たしかに。経験したものじゃないとわからない感情というものはあります。これはしようがない。ですが、そこであきらめることなく、相手方の気持ちに歩み寄ろうとした段階で、語る言葉を紡ごうと努力した段階で、経験は補完されるんではないかと思います。いや、そうであって欲しい、という願望。そしてそうありたいな、と。残念ながらこの能力には有無、大小があるのは事実ですが。経験の無さを恥じる必要は、ないですよね。

 ですから僕は、「5年前」に大なる被害を被った人たちの気持ちを汲み取ろうと努めますし、自分の言葉で語ります。これは一つの象徴。「もどかしさ」に到達するようでなければ、心に接近できません。

 経験に拠ってしかものを語ることができないんだったら、小説家なんて存在しませんね。埋めるだけの想像・創造ができることが、素晴らしいんですね。「もどかしさ」を出発点に言葉を紡ぐ行為が、文章を書くということでしょうか。

This essay is inspired by pooh,takka & masapan.


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