001108 虚構と現実。
「僕の日記はフィクションとしてお読みください」
ともろやんに言いました。もろやんは、こう答えました。
「文学研究者たるもの、日記がノンフィクションだなんてまるで思ってないですぜ」
おおおっ、そうかっ、と思いましたね。文学研究者(リフレインすることでもろやんを照れ臭くさせてみる)の言で、「日記=フィクション」という、一般と異にする論に心強い補強がなされました。
日記なんてノンフィクションの最たるもんじゃないの?と思われるかもしれません。が、この議論の前に、「フィクション・ノンフィクションの境界(あるいはその定義)」ということを考えてみなければなりません。もっとも簡単に、「ノンフィクション=事実」「フィクション=事実じゃないもの・虚構」としてみましょう。まず、小説。これはフィクション。文句なし。作者の構築した世界(=虚構)を通してなにものかを語る行為。ですから、どんなに詳細に描かれた歴史小説も(詳細に描かれているからこそ)フィクションであり、巻末に「この物語は、史実を元にしたフィクションです」という但し書きがつくのです。そして、伝記。これはどうでしょう。一見ノンフィクション。しかあしっ(この気合いに意味はありません)、作者による脚色や情報の取捨が介在する時点で、事実から離れますよね。ので、これもフィクションと位置付けられます。ここまでをフィクションとするのに抵抗はありません。それでは、日記はどうでしょうか。ここでの日記は完全なプライベートなものではなく、たとえばHP上で公開することを意図して書かれた、パブリックな要素のあるものとします。このような日記において書かれている事柄は、果たして事実のみでしょうか。そうではないでしょう。事実(書き手にとっての真実)は加工されます。強調、隠蔽。多弁な日記になればなるほど顕著に。表層に現れた情報は、断片的なものであり、ひどく不確かなものになります。つまり、自己によって書かれた自己の伝記、と考えることができます。ですから、こう言えます。日記は、フィクションである。
論をかなりはしょってしまいましたが、もろやんによるぐうたら雑記館の中の『破線のマリス』の書評において実に切れ味鋭く書かれているのでぜひご一読下さい。
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