001113 人格。


 前回の日記(「昨日の日記」とは言えないのはご愛嬌)で、「日記はフィクション」と書きました。これを書くにあたりその出発点となった自分の過去の日記を読んでいて、ときどき、「自分が書いたとは思えない」という感想を抱くことがあります。「ええことゆうとるがな」とか「おお、かっちょええのう」(内面で発する言葉は岡山弁)とか、ひとりの読者として、素直な感想を抱くわけです(手前みそ全開)。自分の断片であるはずなのですが、放たれた瞬間にやっぱり別物になってるよなあ、とあらためて感じます。ですから、ときどき日記を褒めてもらうと、照れます。どうしようもなく。「いやいや、僕を褒めないでやっておくんなせえ(なんだ、この言葉使い)」と思います。

「日記は、僕自身ではない」

からね。


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 人はそれぞれにいくつかの小さなコミュニティを持っています。そして演じられる自分というのはそのコミュニティごとに少しずつ違ってきますね。職場での自分、学校での自分。家族といるときの自分、友達といるときの自分。僕の場合には、研究室での自分、クラスの中での自分、サークルの中での自分。それぞれの場において役割、立場、そしてそれに因る発言、行動は違ってきます。すべての場において自己を貫けるような人はそんなにはいません。ある意味で妥協して、周りに合わせて、少し狭められた範囲の中において自己を主張して、存在を主張していきます。それぞれに人格は違うわけです。

 森博嗣氏が講演会で、次のようなことを述べられました。

「インタビュアの方に、「先生は二重人格でらっしゃいますよね」と言われましたが、違います。僕はそんなに単純ではありません


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 ただひとつの人格でやっていけるほどに、社会は単純ではありません。いろんな場面場面で生まれた各人格たちは、相互監視して、ときには批判もします。頭ではわかっているのに行動に移せないこと、ありますよね。これは人格を越えることができないためですし、過去の自分の行動が理解できなかったり嘆いたりするのは、人格が入れ換わっているためです。これは程度の差こそあれ誰しもが持つ「心の防御機構」です。心のチャンネルを切り替えることで結果として直接に届くダメージを緩和しているんですね。この機構の振れが大き過ぎたり、そのチャンネルの誕生時に強い心的衝撃が加えられたものであると、心理学の言葉で言うところの「解離性同一性障害」となるわけですが、これに関しては僕が誤解をしている部分もあると思われ、そんな状態のまま書き連ねることは危険なのでここで休止。「障害」に至る以前のレベルの「人格」は、「性格」と言葉を置き換えた方がいいかもしれません。

 参考文献は・・・忘れました(ダメじゃん)。

 ・・・で、見事に話が脱線しました。つまりは、僕は周囲に対応していろいろとキャラクタを換えています、ということなのですが、そんな中、ここ一年でまた新しいキャラクタが誕生しまして、コイツには幸いにしてかどうなんだか、Ranaという名前が与えられました。ネットの中での自分、です。ハンドルネームというやつですね。これが自分の本名に近いものであったなら話は少し違ってきたのかもしれませんが、このようなかけはなれた一個の名前を与えられると、それこそ「人格」の誕生に近いものを感じます。Ranaが一人歩きしている、と感じることもあります。


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 僕自身Kとします。夏目チックでいい感じ)と、Ranaとは、別物です。そう認識しています。Kは、Ranaほど社交的ではないし、多弁ではない。Ranaほど真面目に悩まないし、きれいな言葉も連ねられない。「Ranaって、けっこうがんばってるねえ」と、Kは思うわけです。で、彼がいちばん活躍しているのはこの日記においてであるのですが、ここにおいて彼は、Kをかっこよく加工してくれているんですね。無論Ranaだって僕自身ではあるんですけど、Ranaの言葉がKを勇気づけることがあったりするのだから、おもしろいもんです。そしてKの新生面にも気づかせてくれたりね。オフ会において「らなさん」と呼ばれることには慣れましたが、Ranaの所業を直接褒められると照れるのは、やはりどこかで自分との差異を感じているからなのでしょう。ハンドルネームを用いて自分を語ること、これは「客観視」の有効な手段なのかもしれません。だから僕はもろやんに、こう言いました。

「僕の日記はフィクションとしてお読みください」

 それではこの文章は誰が書いてんだか。

This essay is inspired by pooh.


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