ただひとつの人格でやっていけるほどに、社会は単純ではありません。いろんな場面場面で生まれた各人格たちは、相互監視して、ときには批判もします。頭ではわかっているのに行動に移せないこと、ありますよね。これは人格を越えることができないためですし、過去の自分の行動が理解できなかったり嘆いたりするのは、人格が入れ換わっているためです。これは程度の差こそあれ誰しもが持つ「心の防御機構」です。心のチャンネルを切り替えることで結果として直接に届くダメージを緩和しているんですね。この機構の振れが大き過ぎたり、そのチャンネルの誕生時に強い心的衝撃が加えられたものであると、心理学の言葉で言うところの「解離性同一性障害」となるわけですが、これに関しては僕が誤解をしている部分もあると思われ、そんな状態のまま書き連ねることは危険なのでここで休止。「障害」に至る以前のレベルの「人格」は、「性格」と言葉を置き換えた方がいいかもしれません。
参考文献は・・・忘れました(ダメじゃん)。
・・・で、見事に話が脱線しました。つまりは、僕は周囲に対応していろいろとキャラクタを換えています、ということなのですが、そんな中、ここ一年でまた新しいキャラクタが誕生しまして、コイツには幸いにしてかどうなんだか、Ranaという名前が与えられました。ネットの中での自分、です。ハンドルネームというやつですね。これが自分の本名に近いものであったなら話は少し違ってきたのかもしれませんが、このようなかけはなれた一個の名前を与えられると、それこそ「人格」の誕生に近いものを感じます。Ranaが一人歩きしている、と感じることもあります。
003/004
|