010205 不遜。


 不遜な人間でした。

 じゃあ今はどうなの? と言われたらどうでしょう。高校時分までよりは改善されたと思いますが、これは自己評価の範疇でしかありませんね。他者評価によるとどうなんでしょうね。かといってこれまた絶対的基準に拠る評価じゃありませんからね、問うこと自体意味がない。だから自己評価に拠ってしか語れませんね。としたら私はやはり、不遜な人間でした。


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 「人との関わりに意味を見出せない」こんな思いにとらわれて、高校までを過ごしてきました。こんな理由で、登校拒否をしていました。試験を受けて自分の位置確認して満足する場所。学校って私にとってはそれくらいにしか機能していませんでした。思えば幼稚園だって同じ理由で登園拒否していましたから、根が深いものだと思います。「自分がいちばん」だから「人と接していても得るものがない」と思いこんでいました。今の私が省みるに、厚顔無恥です。ええ、まさに不遜。家にいて何をしていたかというと、漫画読んで、本読んで、絵を描いていました。当時の私にとっての外界は、そこにありました。そこで得たものは大きかったんですよ。だけどこういうことに時間を割いていた分、多くの人が経験してきたことというのを知らずに通過してきてしまったんですね。それは後になってわかったことなんですけれども。自殺のイメージも始終抱いていました。実行をとどめたのは勇気のなさと少しの未練と家族という無条件に私に関わる人々、あるいは数少ない友人の存在でした。逆に言えばそれだけしか私を生にとどめる理由はなかったということですか。それだけ世界が狭かったんです。現実の感触ある、という意味での世界が。これまた今の私が感じたことですが。こうして18年間を過ごしてきました。


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 転機は大学進学とそれに伴う上京でした。自分の精神状態の危険性は当時の私も自覚していましたから、家族からも、地元からも、遠く離れたいと思っていました。いろいろなものを変えたい、と思っていました。両親の庇護下における我侭であり、それは今も継続していますから、大きな口はたたけないのですが。さすがに完全に単身でいることは寂しかったので、人と少しだけ関わっていこうと動きました。そして、知ったんですね。周りは凄い人ばかりだ、ということに。クラスで、サークルで、「かなわない」と思う連中に遭遇しました。彼らに引っ張られて、置いてかれないようにしてきたこの4年間でした。そうしているうちに私も変わりました。別人です。高校時代までと大学時代、それに連続する今現在。この二つの地点における私は完全に別人です。高校時代の私は今の私の姿を想像し得なかったでしょうし、今の私は過去の私の姿を明確に思い出すことはできません。当時読んでいた本の記憶は今でも鮮明にあります。ずっと携えてきています。これは経験ではないですからね。記憶の質が違う。「思い出」と人が呼ぶ意味での過去の記憶は驚くほど少ないのです。私は友人に対して自身の過去の話をしようとしたときに、話せることがほとんどありません。クラスメイトの顔も名前も、友達として関係を持った数少ない人々以外はまるで記憶にありません。今の私はそれを知って愕然とします。


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 言い訳をしましょう。自己がしっかり形成されたから、他者を見る余裕ができたのでしょう。少年期は自分を形作ることで精一杯ですからね。自分がいちばんだと思い込むことは、自信がないことの裏返しです。大学で人と接してその凄さに最初は驚嘆しましたし自身の経験の少なさに消沈しましたが、やがて自分もいい意味で人と同様に振る舞えることを知り、さらに自分にしか持ち得ないこともまたあることを知り、そこで生まれた余裕によって他者の凄さを認められるようになった、のだと思います。


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 もうひとつの転機がありました。2年ほど前に触れたネットを通じて出会った人々。性別も年齢も職業もその歩んできた道も現況もてんでばらばらな人々が集う場所。ここで私は多くの凄い人々に出会いました。人の才能に、それが凝縮された形で触れることができる世界です。多くの才能に触れました。ここにいたって私は、自分と違うものを持っている人を、そのすべてを、認め、憧れ、自分に反映させました。幸いにも色濃いお付き合いをさせていただいている人も多くいます。それは発展してすべての人を認めようと努めることにつながりました。この姿勢でいると人と関わることがこの上なく楽しくなりました。大切なことに思われました。率先して人と接するようになり、その場を作ろうとするようになりました。これまた過去の私には想像だにし得ないでしょうね。ああ、でも今の私の行動原理の基となっているのは高校時代に読んだ本たちから学んだ精神ですから、この点において過去の私と現在の私は融合している、と言えますかね。さらにはネットの世界において情報の媒介者となるのが当時から身近に触れてきた活字であることもまた、現在の私がやはり過去からの同一線上に存在するものだということを確認させてくれます。今の私は、人の能力や才能を察知することに関しては自信があります。それを認められます。と同時に認めて欲しいと思うから、自己を表現し、発揮する努力をするようになりました。


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 おそらくは。高校時代までだって私の周りには凄い人がたくさんいたのでしょう。当時の私はその凄さを見ることができなかった。目をつぶっていた。今の私はそれを「もったいない」と認識できます。これは後悔ではありません。過去の私と今の私、どちらが好きかと問われれば躊躇なく今、と答えます。しかしその今は過去の私あって存在するものですから。正しい道を歩んできたとは思わない。いや、人生に間違った道なんてきっとない。けれども不遜が改善され人の凄さを認めることができるようになった今の私は、ちょっとだけいい方向に流れたな、と思います。

 人を認めることができない人間が、どうして人に認められるでしょう。

 もちろん、事実を基にしたフィクションです。その度合いはいつにも増して高いです。誇張もあります。虚構もあります。その線引きは曖昧ですけれどもね。


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