「傲慢たるより、卑屈たれ」
孔子の言葉だったかな・・・、と親父はあとに続けた。親父は最近、宮城谷昌光の中国歴史小説がお好みらしい。その中に出てきた言葉だそうだ。どんな文脈で親父のこの言葉が飛び出てきたのかは忘れてしまったが。おれが、「周りがすごい連中ばかりでね、それが刺激になってるよ」 とか話したときだったか。 その宮城谷昌光がらみで少しの余話がある。宮城谷の小説を、親父は読み終わった端からおれの元に送り届けてくる。おもしろいぞ、おまえもどうだ? というわけだ。おれも読んでみたいな、とは思うけれども自分の好きな作家の新作を読むことに手一杯で、なかなか手が回らないでいて、本棚の後列に鎮座ましましている。読むことができるのはいつになるやら。思い返すと、小学生だか中学生のときだかに、おれは親父の本棚にあった司馬遼太郎とか西村京太郎とかを夢中になって読んだものだった。おれの読書歴のスタートだって結局のところ親父だったことになる。ここまで影響受けてんのもなんだかな、とやや複雑な気持ちにもなる。そうすると今、親父に薦められている宮城谷になんとなく手が伸びないのは、ここまできて薦めに従うのも悔しい、そんな反発があるのかもしれない。だがこの反発もまた影響下にあることの証明でしかないんだな。
なんだかなあ。
そう、孔子の言葉だ。傲慢も卑屈も、どちらも敬遠されがちな性質だけれども、どちらも欠いてはならないものでもあるな。耳あたりのよい言葉で置き換えると、自信と謙虚。そのうち、人を伸ばす上でより必要となるのが、卑屈さ、ということか。「すごい」「負けた」「自分はまだまだ」こう思うことが反発を生むのだから。傲慢に溺れるだけでは進歩はない、ということだな。卑屈に溺れる危険性だってあるんだがね。なんだかまた話が逸れたような気がする。要するに親父と話しているとどの方向へ思考が飛んでいくかわからない、だから楽しい、ってことだ。
ビールを飲みながら、飯を食いながら、いろいろな話をしていく。例によって研究室で実験することの意味だとか大学院に進学することの意味だとかがおれは見えなくなっている。定期的にかかる病。そんなことを親父にこぼす。
「大学院? そんなん、おれは論理的思考の鍛錬の場だと割り切ってたよ」
こうあっさり一蹴されると楽になるんだな。「意味」がなくてもいいじゃないか、と頭でわかっていても、どうしてもこだわってしまう。「ふん、おれだって大学院で実験しながら、<なんの意味があるんだ?>って悩み通しだったよ。悩みがない研究者なんてあるものか。悩みがなかったら、そらあ研究者じゃない。だからおれは、さっき言ったように割り切ってた。実験自体に意味を見出すんじゃなくて、その過程での思考の鍛錬だと思っていた。それは学生だからこそできるものだからな」 いちばん身近な人がおんなじ経験を経てきたことへの安心感。情けないけれども、おれはそれに浸る。
こんな風にすっかり親父にやられているおれだが、なんとか食らいついていこうとはしている。だけど、決定的に負けたことがあった。親父、今のおれと同じ歳のときに、おれの母親となった人に、プロポーズしたんだそうだ。こればっかりはおれはマネをしようとしたところで不可能な雰囲気、大。完敗だな。いや、勝った負けたじゃないんだが。
離れて生活するようになって、親父と会話する機会は、かえって増えた。あ、息子としてじゃなくて、ひとりの大人として見て、接してくれている。話してくれている。と感じて、おれはうれしくなる。しかし同時に向こうがおれの方に歩み寄ってくれて、目線を同じにしてくれていることもまた、感じる。大学入って、ハタチを過ぎて、少しは近づけたかなと思ったけれど、やっぱり遠いんだな、と実感する。ああ、この人の息子でよかったな、と思う。こんな思いを抱いていることは、もちろん、言えないままに。
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