010419 無知。


 好きな芸能人は誰ですか? と訊かれることがよくある(ウソ。ない)。そんなとき、僕はこう答える(ウソ。答えたことない)

 上岡龍太郎かな?

 「探偵!ナイトスクープ」の元局長で、「パペポTV」で笑福亭鶴瓶と最強タッグを組んでいた氏である。残念ながら現在は芸能活動を休止している。膨大な知識量とそれを披露する立て板に水のごとき弁舌。口ベタな僕は憧れもした。そして何より、その知識を最終的には笑いに転化させるところがすごい。知識の披瀝だけだったら高圧的で嫌味に終わるところを、笑いに転化して大衆に引きずりおろす。あまたいる芸人の中でこのスタイルで笑いをとることができる人はそういない。そのスタイルがかっこよかった。

 その上岡龍太郎は「パペポTV」において鶴瓶に、「ほんまアンタ、モノよう知ってまんなあ」と言われて、こう返した。

 「いやいや、僕はねえ、博識や博識やとよう言われますけどね、ちがうんですよ。自分の知っとることしか話しとらんです。自分のようわからんことに関してはなんもコメントしません。それで『知っとる』と思われるんは、当たり前です。知っとることしか表に出しとらんのですから」

 そうなのだ。結局のところ人は、自分の知れる世界でしか勝負できない。上岡龍太郎は自分の知ってることだけを話して知らないことは隠蔽するという手法でもって芸能界における地位を確立した。これは技術であり、能力である。立花隆だとか荒俣宏だとか京極夏彦だとか、「知の巨人」と呼ばれる人だって、知ってることよりは知らないことのほうが多いのである。それほどに世界は大きい。


001/003


 では、モノをたくさん知ってたらいいのか? というと多分そうではない。

 大学で生物学や中国語を学んできたが、これらに関して僕は語る言葉をもたない。先輩や友人に疑問や意見として述べることはあっても、公の場で語れるレベルではないと自覚している。なまじっか少し踏み込んでいるだけに、中途半端な知識のまんまで揚々と語ることがためらわれる。知識が邪魔しているわけだ。逆に美術であるとか文学であるとかスポーツであるとか、自分が無責任に興味を持っている分野についてはけっこう気軽に語れたりする。知らないから喋れる、ということがあるのだ。これは上岡龍太郎の手法とは反するものである。知らないからこそ見えるものがあるし、生まれる発想があるし、生まれるアプローチがある。ものごとには王道、わき道、邪道があって、そのいずれにも価値がある。話が逸れたか。

 さらに政治、経済、法律に関してはお手上げである。現行の選挙制度がどんなもんだか答えられないし、為替変動の仕組みはわからないし、身近な法律・条例・法令もなにも理解していない。社会に出たことがない僕は世間知らずである。世間知らずであることは知っている。また、映画はほとんど観ないのでこれに関しても何も語れない。語らない。ここにおいては僕は上岡龍太郎の手法を適用している。


002/003


 僕が通っている大学には多種多様な学部学科があって、サークルを通じてそれぞれの分野で学んでいる人間と接する機会を持てた。時には雑談が政治経済、法律の議論に発展することもある。僕にとってはちんぷんかんぷんな単語が宙を飛び交うから、ただ穏やかな笑みをたたえて聞き役に徹する。下手に口を挟んだら恥をかくことは自明なので、いっしょうけんめい理解しようと努め、理解できたところに関してのみ「なるほどね」などと相槌を打つ。と同時に、「今の自分には必要のない知識だから知らなくてもいいのだ」と言い聞かせ、「もしも必要に迫られたら知ろうとするだろうし、知ろうとすればわかるだろう」と思っている。こう思えば今現在知らないことは別に恥ずかしくはない。前掲した「知の巨人」たちだって、知らなかったから知ろうとして、その結果モノになったのだ。開き直った無知は強いのである。

 知らないということは、知る余地があるということである。

 知らないから、ダメなのではなく、知らないから、強いのである。そして、知らないことを知っていることが、強いのである。

 「わからない」は、思索のスタート地点である。

橋本 治 『「わからない」という方法』

 長くなったので続きは明日。


003/003

戻る