010420 忘却。


 膨大な知識量をストックするために必要なのは、「一旦忘れる」という収納作業なのである。

橋本 治 『「わからない」という方法』

 僕はものを知らない。それは昨日言った。と同時に、忘れっぽい。人の話を聞いてるようで翌日には忘れてしまう無礼なヤツである。「こないだ話したことだけどさァ」と言われ、「はん?」とマヌケ面を返すことがよくある。ちゃんと聞いてるつもりの事柄にしてこれだから、授業の内容なぞ推して知るべし。また、聞いたことだけでなく読んだこともすぐ忘れる。必死に読んだ論文の内容がちっとも頭に残らないのはなんとかして欲しい。なんとかしてと言っても自分のことなのでどうにもならない。小説も例外ではなく、内容をすぐ忘れてしまう。

 先日、原田宗典『スメル男』を再読した。高校生の頃に読んで感銘を受けた作品である。しかし、忘れていた。憶えていたのはストーリィの大枠だけである。このストーリィはインパクトがあるし、タイトルにも直結しているので、憶えていて不思議ではない。ディテールはきれいさっぱり忘れていた。ので、初読であるかのように読み、驚き、引き込まれた。作品自体にそれだけの力がある、と考えることもできるだろう。だけど、忘れてしまっていたのは事実である。「感動した」「面白かった」本にしてこれである。読んだのか読んでないのか判然としない本まであるのだから始末に終えない。

 多読で、しかも読んだ本の内容を逐一詳細に憶えている友人にこの話をすると、「もったいねえなあ」と言われる。そうだなあ、せっかく読んだ本の内容を端から忘れていくんじゃ意味ないかなあ、と思う。共通して読んだ本の内容について語り合おうとしても、僕は思い出せない。彼は「あの場面は」「あのセリフは」と語っている。僕は内容のみならず、心揺さぶられた場面、セリフもきれいに忘れている。これは悲しい。

 Q ワープロばかり使っていて漢字を忘れると悲しくないですか? 手紙を書くときはどうするのですか?

 ★ 何かを忘れられるのは、その分、頭を他のことに使えるわけだから嬉しい。人間は歩けるようになると、はいはいを忘れる。はいはいを忘れて悲しいですか? 手紙はワープロで書く。稀に手で書くときは、必ずワープロで下書きして、それを見ながら書く。

森 博嗣 『臨機応答・変問自在』


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 ある雑誌に、こういう記事があった。ノートパソコンを携帯していた若者が、交通事故で死んだ。ノートパソコンも壊れた。HDDは読み込み不可になってしまったが、遺族は、「息子の生前の記録を知りたい」と、どうにかしてHDDを復活させて欲しいとメーカに依頼した。そしてメーカは依頼通りに記録の大半を復活させて、彼らに渡した。技術者は言う。「例え、「ごみ箱」に入れて消去した記録、あるいは上書きしてしまった記録でも、復活させることはできる」と。消去した記録もその残影がHDには残っていて、これを読み込むことは技術を駆使すれば可能だということだ。こういう仕事を専門に請け負っている業者もあるという。

 考え方を変えてみる。パソコンのHDDも脳も同じことではないか。「忘れた」ということは、「消えた」ということではない。「あるけど、どっかにいった」のである。コンピュータで言えば、「どのフォルダに保存したのかわかんなくなった」のである。飛び込んでくる情報はあまりに膨大だから、脳のフォルダにいちいち番号や名前を振って整理していったのでは追いつかない。だから、とりあえずどっかに入れる。どこに入れたかわかんなくなる。これが「忘れる」という状態である。それが何かの拍子で表に出てきたら、人はコンピュータと違って感情があるから、エラーとして処理せずに「思い出」「郷愁」「心の傷」「既視感」とかいう名前を付ける。そして人はこのような感傷に浸ることが存外好きなのである。そういうものだ。

 大切にしたかった思い出もいつか薄れる。悲しいけれど、忘れなきゃ前に進まない。忘れたけど、どこかに残っていると思えば慰めになる。だから忘れることは決して悪いことではない。僕のような忘れっぽい人間は過去の感動に引きずられることなく現在の感動をどんどんと仕入れることができるのでお得である。なんかこじつけのような気がする。だってこじつけだからな。忘れっぽい自分の正当化である。まあいいか。


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 2回に分けてまでなにが言いたかったのかというと、結局「知らない」も「忘れる」も、人生を楽しむために必要なことなのだ、ということである。「知らない」から知ろうとする。「忘れる」から次がある。人を動かす原動力となるのなら、否定できるものではない。

 だけど、

 しかし、読んでも中身を憶えていない、それで"読んだ"と言えるのだろうか? せめて、それらが私の心の奥深くに影響を与え、潜在意識として密やかに息づいていると信じたい。

吉野朔美

 そう。じゃなかったら、むなしいよね。


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