010427 名前。


 「うむ。この世で一番短い呪とは、名だ」

夢枕 獏 『陰陽師』

 小学2年生のときに、担任の先生が宿題を出しました。「自分の『名前』に、どんな意味があるのか、どんな意味が込められているのか」を調べてきなさい、というものでした。

 この宿題には、漢和辞典を引く練習をさせようとの魂胆があったのでしょう。国語の教科書に出てくる新出漢字を一字一字覚えていく時期です。漢和辞典の引き方も習いました。漢字を覚え始めた子供がまず何に興味を持つか。それはやはり自分の名前ということになります。発展途上の運動神経を総動員させて、自分の名前をがんばって漢字で書いてみます。大人が利き手じゃないほうの手で書いたほうがまだマシだと思えるような出来でも、子供は「ねえねえ見て見て、漢字で書けるんだよ。えらい?」と満面の笑みで周囲の大人に見せびらかします。

 ですから自分の名前に用いられている漢字が教科書に出てきて、新出漢字として紹介されようものなら大騒ぎです。先生もそのへんのところは心得ていますから、「はい、これは○○くんの字だね」などと言いながら板書し、その○○くんをより一層喜ばせることになります。僕の名前の漢字が教科書で初お目見えしたのは小学校も6年になってからのことでしたので、残念ながらそんなかわいい喜び方はできませんでしたが。


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 話を戻します。この宿題は、「帰りの会」のときに毎日二人ずつ前に出て発表することになっていましたから、きちんと調べてこなくては恥をかきます。そこでとりあえず漢和辞典を引いてみますが、「漢字にはいろんな意味あるんだな」ということはわかっても、それぞれの説明文が漠然としか理解できないために、幼い頭は混乱します。助けを求めて、親に訊くことになります。

 母は漢字自体の持つ意味に照らして、僕の名前に「込められた」意味を教えてくれました。当時の僕が驚くほど複層的な意味があったと記憶しています。しかし今、そのひとつひとつを思い出すことはできません。あらためて訊くのも恥ずかしいものがあるので確認できないのですが、ひとつだけ、印象に残っていて、今でも思い出せる言葉があります。

 「他人の気持ちがわかる人間になって欲しい」

 母はそう言いました。漢字本来の意味からは離れています。両親が自身で解釈し、新たに生みだして僕の名前に込めた意味です。しかし、この言葉を聞いたときから、僕は自分の名前に、その字に、この新しい意味を付帯させることとなりました。そしてそれはそのまま自分の行動にも反映されることになります。もちろん普段は意識なんてしていません。でも、なにかしらことに向かい合ったときに、「そうあろう」と振る舞っている自分がいることを自覚します。「そうあろう」とした結果成功しているかどうかはともかくとして。この性質は先天的なものでしょうか。それとも名前の意味を知ったことからくる後天的なものでしょうか。どちらでもいいことなのですが、後者だとしたらそれこそ、「名前」という「呪」に縛られていることになります。


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 と、母が説明をしているのを横目に見ていた父が口を挟みました。

 「最初はな、『遼一』って名付けるつもりだったんだぞ」

 父は司馬遼太郎の著作の愛読者でしたから、長男である僕に、一字を拝借して名付けたかったのです。それが実現しなかった理由は、当時の法制度にあります。「遼」という字は僕が生まれた当時、「名前として用いることのできない漢字」だったのです。そこで言ってみれば「第2候補」であったところの現在の名に落ち着いたわけです。僕は「遼一」になり損なった、ということです。

 聞いた当時は「ふうん」で片付けたことだったでしょうが、後々になって「遼一」になり損なった自分というものを考えたときに、不思議な感覚があります。もしも「遼一」であったならば。これまで生きてきた全ての状況において、僕は「遼一」と名乗り、また、こう呼ばれるのです。テストの答案用紙に「遼一」と記す自分。親に、友達に、恋人に、「遼一」と呼ばれる自分。些細なことのようで、まったく想像できません。想像できないこと自体が、今の僕が今の名前の人物以外の何者でもないことを証明しています。


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 人は誰しも、名前を持ちます。ということは名付けた人が存在するということです。それは多くの場合親であり、あるいはそうでない場合もあるのでしょうが、いずれにせよなにかしら未来に向けての意味が込められていると思うのです。名付けられたとき、その名前はあたたかな光を放っています。凶悪犯罪が報道され、逮捕された容疑者の名前が発表されたときに、その名が皮肉を帯びていることはよくあります。そして名付けた人の存在に思いが至ったときに胸に沈澱する感情。親殺し、子殺しのときはもっと陰鬱です。名付けた、名付けられたその瞬間に、悲惨な未来の予感は微塵もなかったはずです。

 さて、小2の僕は自分の名前がなんだか意味深げだったことを喜び、無事に発表を終えました。いや僕のみならず、発表者みんながどこか誇らしげに自分の名前の意味、由来を語っていたと思います。姓名判断において画数だとかで性格や運勢を占うことは眉唾ですが、名前そのものには人の心を動かす力が確実に潜んでいます。名字と合わせるとやたら画数が多いしややっこしいしで、書くのがめんどくさいと思っていた当時の僕も、自分の名前は悪くないな、と思い直したのです。


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