011021 小説・物語 その1。


 このエッセイは、10月13日の北村薫講演会、10月20日の阿刀田高講演会で聞いたお話を下敷きにしています。

 人はなぜ小説を書くのでしょう。書きたくなるのでしょう。

 書くからには、伝えたいことがあるはずです。ならば単に説明すればいいわけです。論説文、解説文を書きましょう。評論文を書きましょう。随筆としてテーマ、環境を身近に持ってきて語るのもいいでしょう。なにも物語に仮託して小説という形式に加工しなくてもことは足りるはずです。なぜ、小説という七面倒くさい手段を用いることにどうしようもなく魅かれるのでしょう。

 それは、「説明できないこと、説明すべきでないことを伝えたいから」ではないでしょうか。

 説明する

 ということは、両刃の剣です。わかりやすく伝えるためには、平易な言葉を用い、言葉を削ぎ落とし、簡潔明瞭な文章を書くことに努めなければなりません。学術誌に掲載される論文は、先端的かつハイレベルな内容のものになればなるほど、ページ数は少なくなります。ワトソン・クリックがDNAの分子らせんモデルを発表した論文は、ほんの1ページを占めるに過ぎないものでした。それでいて、伝えるという目的は過不足なく達成されています。説明に成功し、言葉が機能しています。

 しかしながら個人が抱える感覚的な事柄を伝えようとするとき、言葉は途端に使いにくくなります。それは、ある感覚に100%マッチした言葉なんて、存在しないからです。

 例えば。

 昨日、楽しかったことがありました。今日、楽しかったことがありました。昨日の「楽しさ」と今日の「楽しさ」は、確実に質を異にするものでしょう。それは本人だけが知っています。しかし「昨日はどんなことがありましたか? 今日はどうでしたか?」と訊かれたときに、「昨日は、楽しかったです。今日も、楽しかったです」と答えたらどうでしょうか。答えた本人としてはこれでこと足りているとしても、受け手には伝わりません。「え? どう楽しかったの?」と説明を求められたら、答えに窮します。だって楽しかったんだからね。これ以上の言葉はないからね。だけど伝わってないみたいだ。だからといって説明しなければならないんでしょうか? 興趣が削がれます。これはもどかしい。

 この場合、最初に「楽しかった」と言ってしまったのがまずかったです。「楽しかった」という98%マッチの言葉を使ってしまったら、その他の言葉が使えなくなります。だけど実は大事なのは残りの2%で、知りたいのはこの2%です。この2%に個人を反映する感覚が含まれ、ここに個人が見えます。ただし、これを説明することはできない。それは「楽しかった」と言ってしまうのと同じことで、肝心なところを伝えられない、という結果を生んでしまいますから。説明は野暮、という言葉があります。語るに落ちる、という言葉もあります。説明することで失われるものって、多いんです。

 では、感覚を伝えるには、どうすればいいのでしょう。

 それは、「説明しないこと」です。

 ある日、散歩しました。このときの感覚を伝えるためには、

 歩いた

 と言ってしまわないことです。説明しないことです。過ぎ行く風景を描写し、晴れ渡った空を描き、歩幅を描き、踏みしめる土やアスファルトの感触を描き、したたる汗を描き、においを描きます。この文章から全体として伝わってくるものが、感覚です。じんわりと。歩いた当人の感覚が浸透してきて、実際に歩いているかのように思わせられたら、伝えることに成功した、と言えるでしょう。これを「文学的表現」と言う人もいます。核心の周縁部分を拾い集めて、核心を浮かび上がらせる、そんな作業です。

 この行為の積み重ねが、小説を書くということです(と想像します)。自分すらも作中登場人物に置き換えてしまいます。言いたいことを伝えるために、物語を利用します。ひどく困難で遠回りなことに思えるけど、こうでもしないと感覚は伝えられません。

 だから人は、小説を書きます。

 今日は導入です。続きはまたいつか(え? 明言しないの? それ卑怯)。

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