020811 マグリットの青と言葉。


止まった手のひら ふるえてるの 躊躇して
この空の 青の青さに 心細くなる

YEN TOWN BAND 『Swallowtail Butterfly 〜あいのうた〜』


 その昔、「青い絵」について語ったことがありました。昔も昔、2年と4ヵ月も前のことです(000331)。内容にしても文章にしても赤面ものなので、今になって触れるのはためらいがあるのですが、恥ずかしがってもしょうがありません。この中で僕は、「青は、使いにくい」「青を見事に使い切った名画というのは少ない」とかヌカしています。わかったようなことを言って悦に入るのは今も昔も変わりませんが、それにしてもこの背伸びの仕方は若気の至りでは片付けられません。

 でもまあ当時の思いというのは決して偽りではなく、「青い絵」に対する思い入れは強いものがあります。青は無論好きな色だし、自分でもよく使います。では記憶のはじめにある「青い絵」ってなんだろう? と考えてみたときに、思い当たるのはこの絵です。

大家族(The great family)

 おそらくは中学校の美術の教科書で見かけたのでしょう(この絵と『ピレネーの城(The castle in the Pyrenees)』が特に有名かと思われます)。この不思議な絵を描いたのは誰だろう? と思い、マグリットという名を知ることとなりました。シュルレアリスムの画家ですね。日本でも人気のある画家なので、僕が説明を差し挟むこともありませんが。

 そのマグリットが、日本にやってきました(「マグリット展」)

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自然の最初の意志は、美しいとか崇高いとか、絵のようだとかいう人間の最初の感情を完全に果たすように地球の表面をつくるつもりであったのだけれど、今まで知られた様々の地質的変動――形状や色彩の配置の変動――によってこの意思がくじかれたのである。そしてふたたびこれらを修正し、整えることに、芸術の真の意義があるのだ。
エドガー・アラン・ポー 「アルンハイムの地所」


 いつか見たい、と思っていたものが目の前に現れたときの心の動きというのは、言葉では表現できません。僕にとってそれは、『アルンハイムの領地(The domain of Arnheim)』という作品でした。展覧会場の中盤あたりで出くわしたこの絵。ポスターでも用いられているので、今日拝むことができるのはわかっていましたが、それでもちょっと不意を衝かれました。そして固まりました。見入りました。

 美術教師が「この絵好きなんだよお」と言って示した絵の中のひとつに、この絵はありました。高校のときです。青の綺麗さに、惚れました。一面の青色が与えるやさしいイメージ。でも描かれるのはゴツゴツとした岩の山肌で、山頂は猛禽の頭部の形をしています。やさしいけれども激しい、この取り合わせは強烈なイメージを刻みました。これまでに出会った「青い絵」の中で、もっとも好きなものだと言えます。『大家族』とこの『アルンハイムの領地』、別々に出会った「青い絵」の作者がともにマグリットであったのはまったくの偶然なのですが、だからこそマグリットは僕にとって特別な画家であるという地位を今まで保ちつづけているわけです。

 そんな経緯があってついに機会を得た「マグリット展」で、目にすることができた『アルンハイムの領地』です。実物の青は、当然のことですが画集の青とはまた違い、そして原寸で飛び込んでくる絵の広がりは想像していた以上のものでした。彼の作品との最初の出会いやこの絵との最初の出会いの瞬間の衝撃がフラッシュバックされ、そして通り過ぎていきました。素晴らしいものに出会ったときや憧れの人に出会ったときの、鳥肌が立って「ぶるっ」と震えるあの感覚。何度経験してもいいものです。しばし立ちつくして見入ったあと、一度は絵の前を離れましたが、二度、三度と引き返し、また絵の前に戻りましたからね。

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絵の題名は説明でないし、絵は題名の図解ではない。
題名と絵のつながりは詩的なものである。

ルネ・マグリット


 それでは、もうひとつの側面から、マグリットに迫ってみましょう。

 「絵を描く」ということは、すなわち、「言葉は使わない」ということを意味します。画家は、絵においてすべてを語りきらなければなりません。表現において「言葉を使わない」ことをあえて選択するということ、それが「絵を描く」という表現手段なのです。

 ですがその画家が言葉を使うことを許される機会が、一度だけあります。題名です。題名において画家は、たったの一言、言葉を発することができます。題名によって絵に少しの方向性を与えて、鑑賞者を正しく自己のイメージに誘う画家もいるでしょうし、絵と題名の合算によるイメージの膨らみを企図する画家もいるでしょう。ただの一言とはいえ、言葉は大きな力を持ちます。極端な話、逆に題名が絵を殺すことだってあり得るのです。

 マグリットは、「題名で遊ぶ」ことでもよく知られた画家です。絵とまったく関連性のない(と思われる)単語を題名にしたり、絵と完全に反発する属性の単語を題名にしたり、あるいは題名をつけることを他人に委ねたり。この展覧会でも「なんでこの絵がこの題名なの?」と首を傾げる絵が多数ありました。しかしそれがまたミスマッチの妙を生んでいるから不思議です。この絵の題名が『世界大戦(The great war)』で、この絵の題名が『呪い(The curse)』です。わけわかりません。けれど、このわけわかんなさが「?」を生んで、絵そのものの「?」との相乗効果で鑑賞者は「???」になってしまいます。すっかりマグリットの罠にハマっています。

 そんな不思議な画家、マグリットですが、技法そのものはいたって堅実です。作品を部分部分で見れば、それはもう現実をまんま切り取った描写で、現実を堅実に描いています。「シュルレアリスム」の「レアリスム」の部分です。しかしその切り取った現実の組み合わせ方が「シュル」だから、マグリットはマグリットでありました。作品の(部分部分での)堅実さに沿って、マグリットは性格もまた堅実実直であったといいます。作品に対する姿勢や、表現に対する考え方も、真摯であったことを示す彼の言葉が多く残っています。果てしなく誠実であった画家、マグリットは、その誠実さゆえに、夢を描くことができたのかもしれません。

 僕は、僕の夢がひとつかなった、そんな日でした。

絵を見たり音楽を聴いたりしたってさ、それで動かされるって結局、そこに自分を見つけるからじゃないのかなあ。小さい頃の自分を見つけて懐かしかったりする。今の自分を見ることだってある。それから、未来の自分。十年、二十年先の未来もあるだろうし、何万年先の未来もある。到底、手なんか届かない自分をさ、微かに感じたり、逆に生まれるまえからずうっと、ずうっと前の自分を感じたり。そういうことを考えたら、人間って死ぬもんじゃないって気になるね。
北村薫 『六の宮の姫君』

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