宇多田ヒカルは、新曲「誰かの願いが叶うころ」のタイトル表記について、「『ころ』とひらがなにするか、『頃』と漢字にするか、迷った」という趣旨のことを、自身の日記で書いています(これはもう、宇多田ヒカル自身の文章を読んでいだだくのが一番よいでしょう)。 >>> 『Hikki's WEB SITE』 の、 「Message from Hikki」 4月15日(木)04時01分 文章上で「ひらがな←→漢字」の置換をおこなうことを、編集の用語では「開く・閉じる」と言います。「漢字→ひらがな」が「開く」、「ひらがな→漢字」が「閉じる」です。どちらかと言うと「開く」の方が使用頻度が高いようです。編集現場では「開くか、閉じるか」の選択に悩まされることが、多くあります。 開いたところで、はたまた閉じたところで、文意は変わらないのですから、開くも閉じるも、その采配は著者や編集者に委ねられます。一般的には、ひらがな、漢字のもつ特性を考えながら、文章の雰囲気をやわらかく、やさしくしたい場合は開き、その逆の場合は閉じるようにします。「見る」「言う」「聞く」「事」「中」「時」を、「みる」「いう」「きく」「こと」「なか」「とき」と置き換えるのが、よくあるケースです。過去に僕自身が遭遇したケースを、実作上の例として紹介してみます。 ※
『はらだしき村』に解説を書いたときのことです。僕はそのタイトルを はらだしき村は僕らをのせて としたのですが、最終的にこのタイトルに決する前の時点で、僕の前には4つの選択肢がありました。それは、 A.はらだしき村は僕らをのせて B.はらだしき村は僕らを乗せて C.はらだしき村はぼくらをのせて D.はらだしき村はぼくらを乗せて という4つ。「僕ら」 or 「ぼくら」、「乗せて」 or 「のせて」という、2×2=4通りです。 「ぼくら」ではなくて「僕ら」、「乗せて」ではなくて「のせて」を選択した理由は、なんだったでしょう。それぞれについて、書いた当時の僕の考えを思い出しながら、まずは消去法の観点から見てみます。 ・「ぼくら」としなかった理由 直前に、助詞「は」が存在するため、「ぼくら」とひらがな表記にすると、「はぼくらを」という、ひらがなのブロックが生じてしまいます。「はぼくらを」というのは、ぱっと見では意味をとりづらい。それに「はぼ」の部分が、字面としてあんまりよろしくない気がしました。助詞「は」が「ぼくらを」に連結してしまうことで生じるこうした違和感を、「僕」と漢字表記することによって軽減したいと思いました。 ・「乗せて」としなかった理由 「乗」という漢字は、「搭乗」を想起させて、乗る対象物がメカニカルなイメージになります。文中で僕は、「村」に対して「浮遊物」としてのイメージ、ふわふわと漂うイメージを重ねており、メカニカルでは具合が悪いので、「乗せて」は却下。字面としてもやわらかくなりますので、「のせて」とひらがな表記しました。「の」って、丸いし。 と、以上の理由から「ぼくらを乗せて」ではなくて「僕らをのせて」を、僕は選択したわけです。 さらにもうひとつ、積極的に後者を採用する理由も、ありました。 はらだしき村は僕らをのせて の一字一字を、「ひらがな→○」「漢字→●」で置換してみます。 ○○○○○●○●○○○○○ 「は」を基点として、左右対称になります(文庫本では天地対称)。こいつはキレイ。案Aを採用する決め手となりました。ちなみに「はらだしき村」は固有名詞だということと、助詞「は」の後に読点を打てば意味がとりやすいということで、 E.「はらだしき村」は、僕らをのせて という案も考えられ、文章としてはこれがもっとも正解に近いように思われますが、あえて「 」や読点を抜かしたのは、「○○○○○●○●○○○○○」の形のキレイさを優先させたからに他なりません。「はらだしきむらはぼくらをのせて」と、一息で読んでもらいたいという意図もありました。タイトルをつけるのが下手だし、普段あまり注意を払わない僕ですが、このときばかりは熟慮したのです。だって文庫本の解説だもの。 ※
こういうのって、正解がない選択肢のなかで、いかに自分が満足できるものを見つけることができるかが勝負ですから、読む立場からすれば「どっちゃでもいい」ことに艱難辛苦している場合も多々あるんだと思います。けど、あーでもないこーでもないと頭を抱えた末に生まれた選択は、「これしかない」と納得させられるだけの説得力を備えていることも、たしかです。まずは自己満足すること。話はそれからです。 |