020807 押韻。


ちょっとぐらいの汚れ物ならば
残さずに全部食べてやる
Oh darlin 君は誰
真実を握りしめる

Mr.Children 『名もなき詩』


 詩が読めません。

 なにが苦手って、情緒を解さない僕は、詩を味わうことがなかなかできません。想像力もへなちょこなので、17文字や31文字、あるいは計算ずくで散りばめられた言葉の断片からイメージを膨らませて、作者の意図するところを汲んだり、読み手の特権としての自由気ままな解釈に泳ぐことができません。また、感情の吐露としての作詩は、僕にはできないだけにその反発としてのくすぐったさを覚えてしまいます。お兄さん赤面。

 詩を読むことができない僕は、読むことができる人、感動できる人、汲み取る能力がある人を、素直にうらやましく思います。僕が素通りするものの前で、その人はたしかに立ち止まり、なにかを得ているのです。歌詞を読んでもあんまりピンとこず、人の評価や感想を聞いてやっとその巧みさや美しさを知ることになるのは、やや情けないです。もう少し趣深い人間になりたいものです。毛深いのはもういいです。

 そんな僕ですが、詩の手技のひとつとして、昔から好きだったものがあります。

“韻を踏む”

 これです。つまり、押韻。五言絶句や七言律詩など、漢詩における押韻が学校教育で触れ、親しみのある押韻ということになるでしょうが、僕はここに魅力を感じました。

口語自由詩に慣れきってしまった現代日本人は、詩の形式性に対する意識がきわめて希薄になってしまった。欧米人にとっては自明のことなのに……。
殊能将之 『鏡の中は日曜日』


 詩を読むのが苦手な僕が、なぜ押韻については面白いと思ったか。それは、ここに「遊び」の心意気を感じたからです。ただ言葉を並べるのではない、ただ感情を吐露するのではない。「詩」という「形」に言葉を押し込めるにあたって、少しの趣向を凝らしています。それによって構造美が生まれ、リズムがよくなります。言葉が単なる情報伝達の道具ではないことに気づきます。いわば、「遊び道具」です。こういう遊びは自分でもやってみたくなるので、やってみちゃったりしたのが昨日の日記です(020806)。そうなのです。

俳句はシラブルが五七五になっていればいいんでしょう? 幼稚な詩ですね。アクセントと脚韻で味わう中国語の詩とは比べものになりません。

殊能将之 『黒い仏』


 と、日本の詩を否定しているかのような引用をしてみましたが、これには異論を唱えます。たしかに日本の詩は押韻に対する意識が希薄ですが、それはそもそも日本語というものが音節構造が単純な言語で、韻を踏んでも面白味に欠けるということと、日本の詩が選択した「俳句」と「短歌」という形式が、押韻を発達させにくい構造をしている、ということが理由となります。脚韻を成立させようとしても、「脚」が一本、ないし二本なんですから。押韻の発達する土壌ではなかったということです。むしろ日本の詩の粋は、五・七・五という「形」、五・七・五・七・七という「形」をつくったことにあるのであり、韻律のなさゆえに劣っているという物言いはナンセンスでしょう。

ずっと友だち だが時は経ち 変わりゆく街の中で 共に育ち
この街から力溜め 一からの スタートを切った君に 幸あれ
ずっと友だち だが時は経ち 離れた街と町で 別々の道
選んだり Random された人生を 共に生きてる君に 幸あれ

ケツメイシ 『トモダチ』


 押韻が育たなかった日本の詩ですが、最近の歌詞に目を向ければ、「おれたちゃ韻踏むことに命かけてんだぜ、ベイベー」といったような歌詞が数多く見られます。韻を踏むことによって生まれるリズムや語感のよさは、旋律との相性がいいのですね。そしてなによりその工程が楽しい。韻を踏ませようと四苦八苦して、ぴったりハマったときの気持よさ。肯定的な意味での「言葉遊び」、そこにあるのは形が生む美しさです。「形式ばる」ということは必ずしも否定されるべきものではないのです。形式は、表現の幅を広げこそすれ、狭めることはありません。

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