010226 読書。


 某掲示板において、読書の意味についてのひとつの見解が示されておりました。

 曰く、

 「読書は量を誇るべきではない」
 「文筆業で自立するために色々な作家の色々な文章を読んでいるのだとすればそれは間違っている」
 「<誰の真似でもない文章を書く>ということと、<色々な文章に触れる>ということとは、全く相関関係のない事柄」

 なかなか極端で断定的な見解ですが、この投書に対する答えは結局管理人さんの返答にあった、「読み方は人それぞれ、十人十色」という言葉に集約されます。「所詮読書」なんですから各人楽しめればいいわけです。これ、いかにも僕らしいまとめですね。と、最初にまとめの言葉を書いておきます。

 だからやがて芥川は創作に疲れる。自分のなかにないものを、作家はいつまでも紡ぎ出すことはできない。

養老 孟司 『身体の文学史』


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 個人的経験に基づいてしか、物語は語れません(001010)。他者の経験に迫り、物語を紡ぐという段において拠り所となるのは、"自身が見聞きした"他者の経験ということになります。残虐非道な殺人鬼の物語を書く作者がそのような経験を経てきたかといえばそうではなく、様々な媒体によって情報として伝えられた反社会的存在としてのそれを自身の中で消化し、エッセンスを言葉という媒体に再変換して表現として昇華させているわけです。これはすべての表現において言えることです。

 この作業において有効となるのが「多くの本を読んでおくこと」となるでしょう。多くの本から経験を吸収し、表現を学んで自己の文章に反映させていけばいいでしょう。そもそも<誰の真似でもない文章を書く>ことは可能でしょうか? それ自体にそれほどの意味はあるでしょうか? それを他者が「マネだ」「二番煎じだ」だと揶揄することはあるかもしれないけれども、「自立する」過程として通る道ではないでしょうか?(ここでは意図してそれをおこないマーケティングにおける成功を狙うという、純粋な表現から離れた次元の話はしないことにします)

 ただし「本を読むこと」は「表現すること」の十分条件であっても必要条件ではありません。「音楽を聴くこと」や「映画を見ること」や「人と話をすること」もまた、表現に活きてくるからです。本を一冊も読んだことがない作家がいたっていいわけです。その意味では冒頭の「量を誇るべきではない」という見かたは正しい。だけどいずれにしても新しい表現を作り出す際に、他者の表現を知らずにいることは、冬の寒空に素っ裸でいることに気が付かないくらいに恥ずかしいことだと思います(この比喩もまた先人が産み出したものですし)

 個人とは、しょせんは個人に過ぎない。そんなものをいくら剥いたところで、たかだか脳ミソ一つしか、出てきはしない。

養老 孟司 『身体の文学史』


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 個人が創造できる物語なんてたかが知れています。過去のすべてを参照として利用することは現在にいる表現者が持っているアドバンテージです。森博嗣がそのHP、浮遊工作室ミステリィ制作部の2月20日の近況報告で言っていますが、「昔の作品がライバルになる」わけです。「今現在存在する作品だけで、個人が一生楽しむのに充分な量が揃ってい」る、とは僕も思います。そんななかで新しい作品を産み、かつ認知されるために個人の力量だけで立ち向かうことは、いかにも装備が弱いのです。芥川龍之介が『今昔物語』や『宇治拾遺物語』に題材を採ってこれらを心理劇に変換したり、殊能将之が過去の本格ミステリィの手法を熟知しその王道の隙を衝くことで新しい形を確立したりしたように、過去の作品群を知り発展させることによって新しい作品を産み出すことは創造と呼ぶにふさわしいものです。この意味で「新しい文章を書く」ことと「多くの文章に触れる」こととの間に相関関係は存在します。

 僕自身について言えば、僕の文章の文体、文法の基となっている(と自覚している)作家は椎名誠であり、清水義範であり、原田宗典であり、森博嗣です。最初はその模倣であり、それを重ねることによってだんだんと自分の色が出てくるようになった、と思います(000317)。僕はまたさらに他者の言葉を利用します。ときおり日記の中で小説、エッセイ、歌詞の一説を引用しますが、それは僕自身が達することができない表現思考がそこにあるからであり、これらの言葉が基になって僕自身の考えが生まれたんだよ、ということを示して敬意を表したいからです。

 本を読み、映画を見、音楽を聴き、人の話を聞く。

 これらを放棄することは非常にもったいないことです。加えて最近はWeb上で手軽に、素人が書く文章に触れることができるようになりました。「これだけの文章を書く素人がいる」と知ることができるようになったのならば、それを奮起の材料とすることもまた、ありです。

 蛇足:一見、オリジナルを確立しているように思われる表現者もいます。しかし自身の表現に安住してしまってはそこで止まってしまいます。福田和也『作家の値打ち』の中でたびたび出てきた言葉ですが、そんな表現者が陥るのは「自己模倣」ではないでしょうか。独りよがりな展開に陶酔して世界が完結してしまう。前作の焼き直しに陥ってしまう。そんな作品は退屈です。表現者は常に謙虚でなければなりません。常に他者と比較し、更なる創造をする努力を怠ってはならない。それほどの厳しさが表現者には求められると思います。

This essay is inspired by take2 and maruma.


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