■ 2001年10月

011028 小説・物語 その2。――北村薫『盤上の敵』


 その1はこちら

 今、物語によって慰めを得たり、安らかな心を得たいという方には、このお話は不向きです――

北村薫 『盤上の敵』ノベルス版のための前書きより

 北村薫は、『盤上の敵』という小説を書きました。悪意溢れ、理不尽幅を利かせる物語です。苦い読後感が残る、そんな小説です。北村薫の作品群の中では異色と言っていいでしょう。より広く読まれる媒体であるところのノベルス化に際し、彼がその冒頭に前書きとして付した文章が、上記のものです。講演会にて、彼は説明しました。

 「これはとても珍しいんですけど、今回は「書かせて下さい」って言って、頭の所に。出版社は嫌がるんですけどね、「買わないで下さい」って書いて。うーん、あらかじめお断りしておきたいなって」

 また、こうも言っています。

 「だから、自分でもなんかね、読み返すのが辛かったりするんですけど」

 作家本人までもがこんな気持ちになる物語を、しかし彼は書かなくてはなりませんでした。世に送り出さなければなりませんでした。産み出すときの辛さはより激しいものだったでしょう。なぜこんな物語を、書かなければならなかったのでしょうか。再び、『盤上の敵』の前書きから、言葉を借ります。

 しかし、物語というのは作者ですら、自由に形を変えられるものではないのです。全て、必然から生まれるといっていいでしょう。

 物語は太古の昔からあって浮遊していて、それを掴み取って掬い取って言葉を与えて小説に加工するのが作家というものだと、僕は認識しています。物語と読者との間を媒介する者と言えます。物語が作家に訴えかける。作家はその要請に応えて筆を持つ。そういうものではないでしょうか。これを“必然”と、北村薫は表現しました。その必然に従って、『盤上の敵』は生まれました。

 作家は、物語を伝えようとします。伝えるために、小説という手段を選びました。選んだからには、その中で手段を選ぶ必要はありません。殺される人が配置され、陵辱される人が配置されます。これは本当に伝えたいことを浮かび上がらせるための手段で、“必然”ですから(じゃあどこまで許されるのか? が問題となりますが、ここでは追求しません。『BATTLE ROYALE』の項で少し触れています)

 『盤上の敵』以前の作品においては悪意は背後に密やかに隠され、善意を引き立たせていました。ひるがえって『盤上の敵』においては剥き出しの悪意が提示されました。だからこそかえって救いを、安らぎを、善意を、希求したくなるという効果を生んでいます。北村薫も、「この物語は自分が描くからこそ意味がある」と自認していたのではないでしょうか。善意を描きたいからこそ、まんま善意を描かずに、悪意を描いたのです。

 「伝えるべきこと」と「表現するべきこと」との間の関係性について語られた次の言葉が印象的でした。

 「それはそのやっぱ、あからさまには書かないところなんですよね。書いちゃおしまいだよって所があって――わかる人にはわかるように書いてある、つもり、なんです」

 書いちゃおしまい

 伝えたいけど、そのまま言うことは出来ないその1参照)。言葉を紡ぎ重ねなきゃならないのに、いちばんに言いたいことは言えない。作家って、もどかしい仕事だと、思います。

 次回は、物語の背後にあるもののお話です。


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011024 福田明日香に似てると言わてれる人もいるってのに。


 僕は有名人に似てると言われたことがない。

 金城武や山崎まさよしに似てると言われたことがあるが、これは自分史からは抹消されている(この顛末については010401の日記を参照ください)

 猿股さんには「知り合いの緒川くんに似てる」と言われたことがあるし、あらこさんには「パチスロ店で見かける常連客に似てる」と言われたし、また、ぴろさんには「池袋の交差点で信号待ちの向こう岸にいた人が似てた」と言われた。

 ……誰。

 あ、猿股さんには、「らなたん、ウォンバットに似てる」とも言われたんだった。ちょっと待て、人じゃないじゃん。有袋類じゃん。

 僕だって、「おれってさぁ〜、××××に似てるって言われたことあンだよねぇ〜」って言ってみたい。いや、言うようなシチュエーションには置かれないだろうけれども。

 しかし。

 このたびtakkaさんが、こう言っているのを耳にした。

 密かに、石澤常光(@新日本プロレス)に似ていると僕は思っている。

 と。

 有力証言である。だが、格闘技に明るくない僕は石沢と言われても顔が出てこない。名前は聞いたことがあるな、くらいのもんである。バリバリの有名人ではないあたり、信憑性は高いのだが。新日であるところもシブい。僕に似ているからにはイカすナイスガイなんだろう、きっと。

 検索してみた。

 これが石澤常光だ!

 …(判断はみなさまにお任せします)


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011023 手紙。


 沈黙を金とし黙して語らず言葉を発することを畏れていた僕が言葉の魅力に気づき、発表の場を求め、広く表現すること自体に興味を覚えたのは、ある人物の文章を読んで衝撃を受けたからであった。

 彼の文章は他を圧倒し場を支配し空気を変えた。言葉ってこんなに凄いものだったんだな、と気づいた。憧れた。嫉妬した。挑戦しようと思った。だから、自分でも書いてみた。それは今に続く。

 最初は真似してみた。跳ね返された。小技を弄してみた。情けなくなった。なんとかして呪縛から逃れようと努めてきたが、今、自分の文章の端々に滲み出る彼からの影響に苦笑する。彼の言葉たちに出会っていなかったら今僕はこの場所にいない。

 僕の文章を読んでくれる人がいて好きだと言ってくれる人がいて動いてくれた人がいてそれを実感したときたまらなくうれしくなるのは、僕の文章の背後にある彼の文章もまた同時に誉められているのだと解釈するからなのだろう。僕が。

 もっとうれしかったのが彼が僕の文章を誉めてくれたときで、うらやましいとまで言ってくれたのであった。僕の文章は彼の文章の模造品でしかないのに。彼の影響下でしか、結局僕は文章が書けていないのに。彼に宛ててしか、僕は文章が書けないのに。

 彼とは今はもう遠く離れていて連絡は取れないし何をしているのかもわからない。しかし本当に悲しいのはもう彼の産み出す文章が読めなくなってしまったことで、記憶の片隅にある昔の文章を反芻し、慰める。

 自分には絶対に書けない文章だなということを深奥では気づいていたからこそ余計に憧れたのだとも思う。誉めそやすと彼は照れたがそれでもなおかつ僕は賛辞し続けた。もっと読みたかったから。彼から言葉を発表する場を奪った幾つかの出来事を恨む気持ちはあるが僕に恨む資格はないことも知ってる。

 今の僕の言葉は当時の彼の言葉の光に隠れる。届かない。追いかける。ずっと。この先僕はどう振れるのか、想像もできない。とにかく僕は言葉を綴り続ける。それしかできなくなってしまって、それしかなくなってしまった。いつか彼の目に止まることを想像し期待しつつ。そういえば彼はいつかという言葉が嫌いだったな。でも使ってしまった。

 感謝の言葉を送る。今までに何回も送り、かつ心の中でもつぶやいたけど、もう一回。

 ありがとう。

 元気ですか?

 そう、今は、今です。今日は、今日でね。


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011022 ケータイメールは、お好きですか?


 携帯電話は祈りの道具です。
 「誰かと繋がりたい」という狂おしいほどの祈りです。
 そして、あなたは携帯電話をもっている限り
 「誰かと繋がれる」と確信していませんか?
 そうです。あなたはすでに、世界と繋がっています。

田口ランディ『モザイク』

 うーむ。

 携帯メールを打つ速度が、

 日増しに上がっている。

 パチパチパチパチ パチパチパチパチ。

 これまでカナ20文字しか送信できなかったのが急に全角かな1,000字にまで大増量だからさあ大変。最初はチマチマとしか打てなかったのが、楽しさに負けて毎日毎日パチパチパチパチ。そら上達も早いわな。

 上達の速度を実感できるのである。これはすごい。「しあわせのくつ」を履いてるのか、おれは(Ranaはレベルが上がった!)

----------キリトリセン(タッチの境界線)----------

 携帯電話を機種交換して2ヶ月ばかり経ちます。

 で、ケータイメールとやらができるようになったのですが。

 街中で、電車の中で、人がメールを打ってる光景を、好奇の目で見ていた僕もいざ自分が手にしてみるとなるほど楽しくてついつい電話に手が伸びてしまうんですね。学校でもバイト中でも。着信メールがあったらうれしくて、仕事中にでも確認してしまってね。

 だけど人と会ってるときにまでも気になってついつい電話を開いて覗き込んでしまったり、さらには「ちょっと待って」と言って返信までもしてしまったりしている自分に気づいて少し気味悪くなったりもして。

 以前渋谷を歩いてて、テレビでお馴染みの所謂「女子高生」の集団が、全員自分の携帯電話で話したりメール打ったりしながらGメンよろしく道幅いっぱいに広がって歩いている光景を見て圧倒されつつもあまりの珍妙さに「う〜む」と唸った、そのときの思いがよみがえってきて手が止まったんです。あらま、自分も同じだと。これはちょっと違うんじゃないかと。

 すぐ隣にいる人と話さないで、携帯電話のモニタに向かって話しかけるのに一所懸命で、その光景を見て何も感じないのだとすればそれはやはり麻痺と呼べるんじゃないかと。

 会話すべき相手は、どこにいますか?

 「確かに携帯メールを打ってる子って、一心不乱にお祈りしているみたいに見えるよなあ」

田口ランディ『モザイク』


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011021 小説・物語 その1。


 このエッセイは、10月13日の北村薫講演会、10月20日の阿刀田高講演会で聞いたお話を下敷きにしています。

 人はなぜ小説を書くのでしょう。書きたくなるのでしょう。

 書くからには、伝えたいことがあるはずです。ならば単に説明すればいいわけです。論説文、解説文を書きましょう。評論文を書きましょう。随筆としてテーマ、環境を身近に持ってきて語るのもいいでしょう。なにも物語に仮託して小説という形式に加工しなくてもことは足りるはずです。なぜ、小説という七面倒くさい手段を用いることにどうしようもなく魅かれるのでしょう。

 それは、「説明できないこと、説明すべきでないことを伝えたいから」ではないでしょうか。

 説明する

 ということは、両刃の剣です。わかりやすく伝えるためには、平易な言葉を用い、言葉を削ぎ落とし、簡潔明瞭な文章を書くことに努めなければなりません。学術誌に掲載される論文は、先端的かつハイレベルな内容のものになればなるほど、ページ数は少なくなります。ワトソン・クリックがDNAの分子らせんモデルを発表した論文は、ほんの1ページを占めるに過ぎないものでした。それでいて、伝えるという目的は過不足なく達成されています。説明に成功し、言葉が機能しています。

 しかしながら個人が抱える感覚的な事柄を伝えようとするとき、言葉は途端に使いにくくなります。それは、ある感覚に100%マッチした言葉なんて、存在しないからです。

 例えば。

 昨日、楽しかったことがありました。今日、楽しかったことがありました。昨日の「楽しさ」と今日の「楽しさ」は、確実に質を異にするものでしょう。それは本人だけが知っています。しかし「昨日はどんなことがありましたか? 今日はどうでしたか?」と訊かれたときに、「昨日は、楽しかったです。今日も、楽しかったです」と答えたらどうでしょうか。答えた本人としてはこれでこと足りているとしても、受け手には伝わりません。「え? どう楽しかったの?」と説明を求められたら、答えに窮します。だって楽しかったんだからね。これ以上の言葉はないからね。だけど伝わってないみたいだ。だからといって説明しなければならないんでしょうか? 興趣が削がれます。これはもどかしい。

 この場合、最初に「楽しかった」と言ってしまったのがまずかったです。「楽しかった」という98%マッチの言葉を使ってしまったら、その他の言葉が使えなくなります。だけど実は大事なのは残りの2%で、知りたいのはこの2%です。この2%に個人を反映する感覚が含まれ、ここに個人が見えます。ただし、これを説明することはできない。それは「楽しかった」と言ってしまうのと同じことで、肝心なところを伝えられない、という結果を生んでしまいますから。説明は野暮、という言葉があります。語るに落ちる、という言葉もあります。説明することで失われるものって、多いんです。

 では、感覚を伝えるには、どうすればいいのでしょう。

 それは、「説明しないこと」です。

 ある日、散歩しました。このときの感覚を伝えるためには、

 歩いた

 と言ってしまわないことです。説明しないことです。過ぎ行く風景を描写し、晴れ渡った空を描き、歩幅を描き、踏みしめる土やアスファルトの感触を描き、したたる汗を描き、においを描きます。この文章から全体として伝わってくるものが、感覚です。じんわりと。歩いた当人の感覚が浸透してきて、実際に歩いているかのように思わせられたら、伝えることに成功した、と言えるでしょう。これを「文学的表現」と言う人もいます。核心の周縁部分を拾い集めて、核心を浮かび上がらせる、そんな作業です。

 この行為の積み重ねが、小説を書くということです(と想像します)。自分すらも作中登場人物に置き換えてしまいます。言いたいことを伝えるために、物語を利用します。ひどく困難で遠回りなことに思えるけど、こうでもしないと感覚は伝えられません。

 だから人は、小説を書きます。

 今日は導入です。続きはまたいつか(え? 明言しないの? それ卑怯)。


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011020 東京コーヒー。


 小中と、登校拒否だったんですけど。

 幼稚園も登園拒否してましたから、年季入ってます。そんなに深刻なものではなくて、気が向いたときだけ学校行ってた、と言い方を変えてみた方が印象がいいでしょうか。印象もへったくれもなさそうですが。気分がすぐれなかったらその日は祝日決定おめでとう、という。テストは好きだったから、テストの日だけは休まなかったという。逆に無理やり陽性に仕立て上げられた学校行事の空気にはついていけなかったので、参加しなかったという。欠席日数を計算しつつ、進級できる範囲内で休んでいたという。うわ、なんてダークなんだ。

 こんな屈折した子供でも、特に攻撃対象を求めることなくのんびりのほほんと過ごすことができました。このへんのところ、自分の立場というのをわきまえていたきらいがあります。子供なんてなにかしらの問題点(と判断される部分)を備えていてしかるべきであって、この意味では健全だった、とみなすこともできましょう。もっともらしくまとめてみました。無理やりな結論です。

 こういう、「あのころおれは…」的に斜に構えて語るのは、ネタに詰まったときの窮余の策だというのが定説ですが、別にそういうことではないので、ご安心召されよ。

 ここまで書いてきて、なにに心を配っているかというと、変に陰気な方向に走らないようにしよう、ということなのです。これで視線が内へ内へと篭っていくとそれこそ才気走った中学生みたいな文章になってしまいます。要注意。でも難しいんですね。それはなぜかと言うと、

 登校拒否

 この単語につきまとう陰性な印象の所為かと思われます。登校という、義務めいたものを拒否している、というのがなんとも印象が悪いです。これはいけません。下手に問題を深刻化しないようしましょう。子供は、「自分は登校拒否してるんだ」というレッテル自体に罪悪感を抱いて、余計に悩みを募らせることになり、思考は負のスパイラルに陥っていきます。たいしたことじゃないのに。

 心を痛めていた僕は「登校拒否」に置き換わり得る単語の探索に日夜執心していたのですが(ウソ)、ここに伊集院光が深夜ラジオにて素晴らしい語を産み、提唱しているのを知りました。その単語とは、

 スクールエスケーパー。

 カッコいい。

 横文字になってしまいました。

 なにせエスケーパーです。スナイパーと互角に渡り合えるくらいカッコいいです。スクールカウンセラーと同門対決させるのも見ものです。特殊技能を備えた職業かと思わせるほどの勢いがあります。タクシードライバー、MACオペレーター、フライトアテンダント、システムアドミニストレーター、ゴーストバスター、スクールエスケーパー。溶け込んでます。違和感がありません。伊集院光、最高のセンスです。さすが僕の人生の師(言い過ぎ)。これからこの語を世に広めるべく働きかけていきましょうか。全国の登校拒否児、いや、スクールエスケーパーズに光を。

 手始めに冒頭の一行を言い直してみることにします。

 小中と、スクールエスケーパーだったんですけど。

 うっとり。


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011019 もろやんのミステリな日常。


 大学時代の友人もろやんは、現在『動物のお医者さん』で有名な北の方の大学の大学院に籍を置き、現代日本文学の研究とかこつけてミステリを読み漁り、しかもそのミステリを研究対象にしてしまっているというヤクザな男である。趣味にしか生きられない困った男である。「大学院生」というカッコいい肩書きがあるからかろうじて許されているようなもんだ。先日彼の実家に遊びに行って、もろやん父、もろやん母にお会いし、しばし歓談していたのだが、もろやんが席を外している間にお2人とも、「あいつはなぁ…」「あの子はねえ…」とため息混じりにこぼしておられた。まったくしょうがないヤツだ。これで将来金を稼げなかったらほんとに親不孝もんである(ここまでの文章、すべて自分の耳にも痛いんですけど)

 このもろやん、ミステリ好きが嵩じて自分だけで楽しむには飽き足らず、魅力を広く知らしめようと、大学において人を集めミステリについて語る時間を設けよう、と託卵だ。もとい、企んだ。ついては集客のために大学構内に貼るチラシを制作してくれないかね、らなたんくん。との指令を受け、以来開催の度ごとにチラシ制作の任にあたっている。陰謀の片棒を担ぐことになったわけだが、こういう仕事は大好きなので快く引き受けた次第である。


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 「ミステリを読む」

 と名付けられたこの読書会、回を重ねて今回で4回目である。先日、このチラシ制作を終えてもろやんの元に送ったばかりなのだが、開催1週間前の依頼であり、時間がなかったこともあって「忙しければ前のヤツのテキスト部分だけを替えた使い回しでいいよ」と言われていたが、使い回しだなんてそんなことしたら自分が許せないこと請け合いだったので、当然新規に制作した。素材は、以下のとおり。

  • ミステリを読む 第四回
  • 扱う作品は、宮部みゆき『龍は眠る』
  • 文学部426教室にて、16時30分より

 こういう素材を与えられたときに頭の中にぱっと浮かぶ完成形のイメージというのがあって、あとは手描きでなりディスプレイ上でなり、このイメージを再現する作業をするだけなので実はそんなに時間はかからなかったりする。今までいろんな縁でチラシとか表紙とかのデザインをやってきて、その経験から学んだことだが、あれこれ考えた末の他の候補は得てして最初のイメージに勝てないもので、結局これに落ち着くのである。ねるとんで言うところの第一印象いいもん同士がくっついちゃうのと同じ道理である(違う。そして、古い)

 今回も、もろやんから口頭で素材を伝えられたときにすでに頭の中では「宮部みやべミヤベ…あ、これ使えるな」「知名度が高いから前面に押し出したらよさそう」「イメージカラーは赤だな。あとほんわかした感じを出すためにピンクを使おう」と、いくつか構想がぼんやりと漂っている。前述の「忙しければ…」というもろやんの気遣いの言葉なんざ、聞いちゃいない。このイメージを逃がさないように時間をやり過ごし、帰宅したらすぐにパソコンに向かい、出力作業を開始した。この作業に没頭しているときが、最高に楽しい。時間も忘れる。

 で、できたのがこれ。

 ミステリを読む 第四回

 と、チラシを見ていただければおわかりの通り、この発表、実は今日なのである。果たして按配はいかばかりか。


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 過去のチラシライブラリ。

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 ミステリを読む 第一回

 初めて手がけたので、正直言えば勝手がわからなかった。初回ということもあって信頼性と真面目さをアピールしようと思ってNHK教育風味に。明朝体と紺系のカラーで落ち着きを演出。今見ると、ちょっとどうかという部分もある。

 フォントは、MS 明朝。

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 ミステリを読む 第二回

 案の定「もうちょいポップでよろしく」との要請があったので、タッチを変えてみた。大正デモクラシーチックなフォントを前面に押し出す。古き良きミステリを懐古させる雰囲気作りを狙ってみたけど成果はどうなんだか。

 フォントは、DFG麗雅宋。

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 ミステリを読む 第三回

 3ヶ月連続の制作ということでリズムをつかんでいたこともあり、さっさっさっと作ってしまったという感じ(今となってはね)。ここらで敷居を低くしてみようと思ってやわらかいフォントを使ってみた。無難なデザインと言えよう。おとなしい、という言い方もできるけど。

 フォントは、DFG太丸ゴシック体。

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 ミステリを読む 第四回

 フォントは、DFG隷書体。

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 制作していていつも悩むのが、「ミステリを読む」という素朴直球、飾りのないタイトルをどう人目を引くように加工するかであって、結局それに尽きるのである。難題ではあるが楽しい仕事なので、今後も機会があればやらせていただきたい。まあ、その前に修論書きたまえ>もろやん


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011018 ついに来やがったか、この日が。


 プルルルル…。

 (ガチャッ)「はい、もしもし」

 「あ、Kくーん? あんなー、Iじゃけど」

 「おー、I、久しぶりじゃが。どしたん?(突如岡山弁に切り替え)

 「おれなー、結婚するから」

 …がふっ。

 そうか、結婚するか。ついにこの日が来たね。来ちまったね。おれの友達の中じゃ第一号だよ、おめえ。そうだよな、おれたちゃもう24だもんな。まっとうに就職してたら社会人2年目だよ。高校卒業即就職の連中はもう6年目だね。高卒ルーキーも一軍に定着するってもんだ。生活も収入も安定して、結婚もできるさ。いい頃合だね。「ねえ、そろそろ結婚しようか?」「…うん」なんてな会話があったんだね。きー。きっとさ、これを皮切りにさ、「結婚決まりましたイエイ」報告がぽつりぽつりと飛び込んでくることになるんだよ。そしておれはずっとこの報告を聞き続ける立場に甘んじることになるんだよ。取り残されるね。マラソンで言ったらただ一人極端に後方を走っていて第3中継車すらも画を拾ってくれないくらい後ろだね。そしてひっそりとリタイアして救護車に拾われるね。ピーポーピーポーパープーパープ(ドップラー効果)。ああそうさ、目に見えるようだよ、ベイベー。ケッコン? そりゃ新種の香辛料かい? カリーに混ぜろ。ケッコン毛だらけ、猫灰だらけ。烏骨鶏の親戚ということでよろしく。やさぐれてるね。ひどいやさぐれっぷりだね。あーっはっはっは(笑っとけ笑っとけ)。ちゅかその前に就職考えろってね。あ、やばい、この話題はご法度だ。旗色悪し。とりあえず逃げとくか。ダッダッダ(Ranaはにげだした!)

 …げほげほ(勢いで書きすぎてダメージ大)

 「結婚式来年の4月やからさー、来てくれん?」

 「おーおーおー、行く行く」

 「ほじゃ、招待状送るけんよー、よろしくなー」(ガチャッ)

 …あ。

 そういえば驚いてばかりいて言うのを忘れてたんだけど、Iくん、おめでとう。


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011013 ここ数ヶ月更新が滞っている理由。



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 あう。


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 ちっ…。

 ちっ、ちっ、ちがうんだ。怠惰ぶっこいてるわけじゃないんだ。まあ待て、まあ待て。言い訳を聞いてくれ。

 7月より、『はらだしき村』(原田宗典オフィシャルサイト・[Links]参照)の制作に携わっておりまして。

 一日のうち、ホームページ制作、更新作業に充てられる時間というのは限られてきます。今まで日記書きに費やしてきた時間を『はらだしき村』制作作業にシフト。自分のホームページの更新が滞るのは自明の理ってもんです。自明の理。自明の理。自明の理(ゴリ押しキャンペーン実施中)。どうです? この言い訳。納得していただけましたか? 理路整然、森羅万象、天網恢恢、粗にして野だが卑ではない(リズムだけで並べてみました)。あ、納得していただけたようですね。ありがとう(ゴリ押しキャンペーン自己完結)。

 企画会議、メールを介しておこなわれるディスカッション、テキスト編集、サイトデザイン等々…。課題が山積し、日々があわただしく過ぎてゆきました。自らの将来に生かそうと思わばこそ、取り組みの姿勢も自然真摯になります。会議の席であれだけ積極的に発言する僕の姿を、一体だれが想像し得るでしょうか。自分でも信じられません(え?)。このくらいの意欲を大学の方でも発揮しとけってんだ(ムリでした)。


003/007


 自分が創ったものが、これから多くの人の眼前にさらされるのだ、ということにかつてない興奮を覚えつつ。

 無論原田宗典の存在がありきだということを承知の上で。氏の表現の場に力を提供できたことに至上の喜びを感じつつ。


004/007


 あっ、もういっこデータがありました。


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 どうやら僕、ゼミよりも学会よりも卒業研究よりも気合入れてるらしい。


007/007

011001 傷。


きっと、誰かを傷つけてる。
それが怖かったら、
しゃべれないし動けない。
それが怖かったから、
しゃべれなかったし動けなかった。
だけど傷は避けられない。
刃を内に向けてたって、
背で幾度も斬りつければ同じこと。
刃を鞘に収めてたって、
鞘で幾度も打ちすえれば同じこと。
ただ座しているだけ、ただそれだけでも
傷を負わせることがあることを知るから、
しゃべれるようになり動けるようになる。
諦観せざるをえない。
傍観しててはいけない。
それは自分が傷つくことを避けるための盾で。

きっと、誰もが刃を持ってる。
持つ刃の形状を認識し、
その切っ先の行方を認識し、
負わせる傷の深さを認識する。
できることはそれくらいで。


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