■ 2001年3月

. 010330 瀬戸内より愛を込めて<込めるな

 てなわけで、また実家にいます。実家に帰りすぎ。ホームシック疑惑浮上。それは否定の方向でよろしく哀愁。自分で浮上させといて勝手に沈没。

 実家にいると、過去と向き合わなければなりません。

 過去と向き合う。

 深刻ぶってみました。が、なんてこたありません。過去に生産した恥ずかしい品々と向き合わなければならない、ということです。部屋は基本的に住んでいた当時のまんまで保存されていますから、探せば探すだけ「イタい」品物に出遭うことになります。今の家にいたのは中2から高校を経て、浪人していた1年を含む6年間です。男の子がいちばん「イタく」なる時期です。自意識過剰で背伸びして、せいいっぱいがんばってかっこつけて、勘違いする時期。こんな時期に遺してきた品々というのは今になってみるともはやネタです。ネタ。たった4年しか経っていないにもかかわらず、自分の手によるものとは思えない作文、絵、イラストが発掘されてきます。あああっ、なんと詩もありました。ぽっ(両手を頬にあてて赤面しています)。今のように恥ずかしさを自覚して敢えて書いているのではなく、大真面目に書いているのがポイントですね。さすが中学2年生。

 この詩を始めとしてつっこみどころ満載のネタがごろごろとしていて、すべてを取り上げてみたいのですが、ネタは小出しに。これがコツです(なんの)。今後シリーズ化するかもしれないしね(そうなの?)。では、連載第一回目の今回は、無難な方面から攻めてみましょう(連載になったらしい)

 マイ・ベスト・アルバム。

 これ、作ったことのある人、正直に手を挙げてみましょう。いや、その前にここで言う「マイ・ベスト・アルバム」を定義してみます。

 前提条件:あなたは、10代ですか?

 Step 1. まず、お気に入りの曲をレンタルしてカセットテープに録音します。この時点での選曲の基準は、「流行っているから」とか「カラオケで唄うから」とか、動機として希薄なものでもかまいません。

 Step 2. 次に、その中からさらに曲をセレクトし、編集しなおして一本のテープにまとめます。一曲一曲に思い出が伴っていると、より好ましいですね。真面目に選曲すればするほど、のちの恥ずかしさが増幅することうけあいです。

 Step 3. これであなたのオリジナルベストアルバムが完成です。おめでとうございます。

 補足:この作業は、カセットテープで編集というところがミソなのです。今のようにMDやCDで簡単に編集作業ができるようになってしまうと、その意味も半減してしまいますね。

 つまり、「二段階の選曲を経てきた珠玉のお気に入りソング集(10代のときに作成)」、これがここで言うところの「マイ・ベスト・アルバム」です。ほれほれ、思い当たる人、多いでしょう? そして自分が収録した曲を思い出してみてください。懐かしさとともに恥ずかしさが込み上げてきませんか? 甘酸っぱい思い出に浸ったりしませんか? おそるべし、「マイ・ベスト・アルバム」。

 僕が17歳のときに作った「マイ・ベスト・アルバム」もね、ありましたよ。収録曲をざっと挙げてみます。

「colorado bulldog」 MR.BIG
「SOLE SURVIVOR」 HELLOWEEN
「YOU'RE ALL I WANNA DO」 CHEAP TRICK
「when we DANCE」 STING
「Keep The Faith」 BON JOVI
「Eat The Rich」 AEROSMITH
「DON'T TURN AROUND」 ACE OF BASE
 他、全20曲。

 うっ、意外にもつっこみどころがない(残念)。なんと、洋楽です。どうしちゃってたんだ。僕が洋楽を聴いてたっていう事実自体がオチか。どうやら当時好きだった女の子に付き合って洋楽かぶれになってた模様。洋楽を積極的に聴いていたのはあとにも先にもこの時期2年間だけでした。男を動かす最大の原動力は女だって説もわが身に照らすと否定できません。えーと、書いているうちに切なくなってきました。いじらしいぜ、自分。

 そしてそのタイトルが、

 「K-1 Selection Vol.1」

 あっ、これ、恥ずかしい。「K-1」というのは、自分の名前を加工したものです。わざわざラベル作って貼っています。マメです。「Selection」などと英表記しているあたりが若いです。当時の自分、なかなか微妙なセンスです。そして、最後につっこみ。

 おまえ、Vol.2も作るつもりだったのか。

2001年03月30日


. 010323 風景。

男は、待ちます。
不安。
せわしなく周囲を見渡します。
繰り返し時計を見ます。
姿を見つけ、安堵します。
喜びを抑えて、迎えます。
今、来たとこ。
ねえ、どこに行く?

女は、急ぎます。
焦燥。
電車の中で足踏みします。
繰り返し時計を見ます。
姿を見つけ、駆け出します。
謝罪の混じった微笑を向けます。
ごめんね。待った?
ねえ、どこに行く?

男は、電話をかけます。
高揚。
父親が出たらどうしよう。
母親が出たらどうしよう。
取りついでもらえるだろうか。
ゆっくりと、ダイヤルを回します。
なにを話そう?

女は、電話を待ちます。
待望。
父親に取らせないように。
母親に取らせないように。
家中に響く大きなベルが鳴るのを待ちます。
電話の前で。
なにを話そう?

男は、手紙を書きます。
難儀。
残したい言葉があったから。
机に向かいうんうん唸って、
考えに考えて、最初の一行を書きます。
せいいっぱいきれいな字で、書きます。
こんにちは、お元気ですか?

女は、手紙を受け取ります。
歓喜。
テーブルの上の封筒に、その差出人の名に。
自分の部屋にこもって、
丁寧に丁寧に、封を切ります。
ゆっくりと、便箋を広げます。
はい、元気です。


時は、移ります。
待ち合わせの緊張は緩み、
電話の意味は軽くなり、
メールは手紙よりも早くあっけなく言葉を飛ばします。
こんな風景は確実に減っています。
寂しいでしょうか。
寂しいですね。
だけど。
そこに人がいて、
想いがあれば、
また新しい風景が生まれます。
新しい想いの交差が生まれます。
そして。
新しい想いの描写が生まれます。
寂しくないですね。

2001年03月23日


. 010322 『チーズはどこへ消えた?』
      スペンサー・ジョンソン/門田 美鈴

 赤川次郎、もしくはベストセラー。

 母の読書嗜好です。大変わかりやすいです。母の本棚には赤川次郎の著作が網羅されていますし、毎年のブックチャートをにぎわした本がにぎやかに並んでいます。実家に帰ったときに、僕もこれらの本に手を伸ばすことがあります。このたびの帰省において母の本棚を物色していて目に止まったのが、『チーズはどこへ消えた?』でした。1999年度全米ビジネス書ベストセラー第1位というあおりで邦訳され、日本においてもベストセラーになっています。作品の軸は、ひとつのシンプルな寓話。全体を通しても1時間足らずで読めます。ちりばめられているのは、人生についての示唆。焦点を絞って言えば、変化にどう対応すべきか? という問いに対する答え。実にわかりやすく象徴化されていますから、その言わんとするところはすぐに理解できます。「アナタの人生は確実に変わる!」とまで広告にうたわれています。僕が読み始めたのは「売れている」本に対する興味からのみでしたが。

 教訓や説教、ご高説を誰かからたまわるときに、受け手がその言葉を受け取ることができない、ということはままあります。難解さのために理解できなかったり、プライドのために素直に聞くことができなかったり。この溝を埋めるために、対象の単純化がおこなわれます。単純化のための有効な手段が、物語化です。起承転結のある物語に教訓を託し、読者が汲み取ってくれることを期待する。これに成功したのが故事であり、童話です。この作品もまた、現代の童話たるべく生み出されたのでしょう。セールスという面で成功したこの作品を賛辞することはたやすいです。事実重要な示唆に富んでいますし、それらは納得できるものです。しかし僕には読み終えたときになにかしらの違和感がありました。

 「教訓を得なければならない」という観念のもとで読む物語は魅力に乏しい。

 この作品は、「教訓を授けよう」という意図が顕わになりすぎています。教訓を授けるための道具として物語が用いられていることが、あからさまなのです。これはまさに作者が意図するところであり、宣伝文句にも「単純なストーリーに託して、状況の変化にいかに対応すべきかを説き」などと書かれているからには、読者は教訓を得ることを期待して読み進めます。ですがこれは物語の読まれ方として正しくないのではないでしょうか。違和感の正体です。物語は物語として物語のために存在していて欲しい、と僕は思っています。物語まずありきで、読者は秘められた意味に気づく。秘めてあったわけではないかもしれない。あるいは気づかないかもしれない。読者の読みは作者も予期せぬところに飛躍するかもしれない。人の数だけ読み方があって、汲み取る意味も様々になる。この意外性こそが物語の携える大きな魅力なのです。作者があらかじめ意味を規定してしまった物語からはこの意味以上のものは生まれません。イソップやグリムの童話が歴史に耐えたのは、すばらしい教訓が秘められていたからではなく、物語としての完成度の高さ故です。

 単純に作られた物語は、そのわかりやすさ故に人口に膾炙するのも早いです。これが善意で作られたものならば幸運です。この作品はもちろん善意から、教訓を単純化し、物語として提出しています。しかし中には悪意に満ちたものもあります。思想の一本化のために物語を利用することは現在のマスコミの常套手段です。マスコミの作った単純明快な物語を鵜呑みにして自身の価値判断を放棄してしまってはいないでしょうか? 物語に素直に感動できる純粋さは尊いですが、潜んでいるかもしれない悪意に気づくだけの冷静さも備えていなければなりません。ずばり教訓でまとめてみました。

 情報は、繰り返し誇張され、潤色され、歪曲されながら報道されるうちに、どんどん形を変えていく。その速度はエイズウイルス以上である。そして、最終的に生き残るのは、ウイルスとまったく同様に、生き残りやすい形質を備えたものである。つまり、より人々の意識に刻み込まれやすい、センセーショナルで、恐怖という根元的な感情に直結しやすい『物語』である。

〜貴志 祐介『天使の囀り』

 少し前に、「絵本ブーム」というのがありました。「大人向けの」「大人にも読んで欲しい」という宣伝文句を付された絵本が書店に平積みになっていました。立ち読みした僕は、本文のものと同質の違和感をおぼえていました。「感動しなければならない」という観念にとらわれる物語もまた、歪んだ読まれ方をしてしまいます。「感動させよう」という作者の意図が透けて見えた時点で、いかに涙すべき物語だとしても、興趣はそがれます。それにやはり絵本は、子供のものです。大人が絵本の世界にひととき立ち返ることもあっていいでしょう。しかし「大人のための」絵本などというのは子供をなめてかかった文句だと思うのですが。

2001年03月22日


. 010317 瀬戸内からのおたより その3。

 原田宗典のエッセイにも登場するとおり、岡山弁は年寄りくさい。僕は中学2年から岡山に越してきて、この方言に触れた。

 「のうのう、明日なんして遊ぶ?」

 「ん? カラオケはどうじゃろか」

 「カラオケはこん前もしたがな。わしゃあボーリングのほうがええと思うんじゃが」

 「そうけ、じゃあそんでもええかのう」

 「じゃろ? ほじゃ、他の連中にも声かけとくがな」

 「おお、よろしゅうたのむで」

 出てくる単語はハイカラ(そうか?)だが、会話そのものはおじいちゃん農作業ひと休み然としている。多感で純粋で純朴で純真でピュア(言い過ぎ)だった僕はこの方言になじむことができなかった。それどころかどこか毛嫌いしていたので、転校当初はあえて標準語を使っていた。おかげで「標準語を話す転校生」というキャラクタが定着してしまった。これはこれで利用価値があったのだが(あざとい)。

 だがそこは子供の順応性。本人の好き嫌い関係なく、次第に岡山弁に侵されていくこととなる。半年もすれば自然に岡山弁を使えるようになった。しかし(もいっかい逆接)、ひとつだけ譲れないところがあった。一人称である。

 岡山弁、一人称が「わい」もしくは「わし」なのである。これは勘弁して欲しかった。これだけは頑として用いなかった。岡山にいた6年間、「おれ」で通すこととなる。「わし」なんて言ってしまうと一気に30くらい老けてしまうように思えたのだ。他所から来た者だからこそ抱く感覚なのだろうが。

 こんな岡山弁も、女の子が使うと妙につややかになる。元々僕は「女性が話す関西弁フェチ」なのだが(そうなのか)、岡山弁もなかなかどうしてよろしかった。なかでも極めつけは、これである。

 「○○くん、おえ〜ん」

 「おえん」=「いけない」「ダメ」という意である。こんな風に言われたらほんとにいけないことをしている気になって余計に盛り上が・・・いやちがった、従順に従うことになる。これまた原田氏のエッセイに書かれていた通りである。これをはじめとして女の子の用いる岡山弁は色っぽい。色っぽいなんて表現いまどきすんのか、と思ったけど使ってみた。こういう風に感じるのもまた、他所者だったからなのかも知れない。

 あ、すいません、少しウソ。「○○くん、おえ〜ん」なんてね、言われたこと、ない。つまりは言われるようなシチュエーションに陥ったことがない。原田氏の記述読んで、「おれも言われてえ、言われてえ」とか思ったもんだ。でも野望かなわず。

 くそう。

2001年03月17日


. 010316 瀬戸内からのおたより その2。

 結婚式である(従姉の)。結婚式に出席しなければならない(従姉の)。結婚式(従姉の)というからには身なりをキチンとするべきである。ので、散髪に行ってきた。昔からかかりつけの美容室である。東京の美容室もいいが、やはり通い慣れたところのほうが落ち着く。だが、この散髪というものが苦手である。まず、

 「今日はどのようにいたしましょうか?」

 この聞き方がよくない。自分の理想とするところの髪型を言葉で的確に表現できたら苦労しないというものだ。ここ2年くらい短髪で固定している僕は、こう注文する。

 「ええと、短めで。仕上げはラフに立たせる感じでお願いします」

 実にファジーである。「ええと」で「短め」で「ラフ」なのだ。指示しているようで実は何も指示していない。美容師さんの感覚と僕の感覚との間に差異があることは承知の上であり、実際仕上がりが当初のイメージとピタリと重なったことは皆無である。しかしそもそも注文がファジーなのだから、仕上がりもファジーとなるのがしかるべき結果であり、「あ、いいですね」と、そこそこ納得することになる。美容師さんとの軋轢も生まれない。ファジー万歳。

 また、こんな決まり文句もある。

 「どこかかゆいところはございませんか?」

 この問いに答えた客は果たしているのか。そしてお望みどおりのポイントを掻いてくれるのか。謎である。かゆいところを示すいい表現があったら教えていただきたい。頭を将棋盤に見立てて、「3七歩成付近を掻いてください」とでも言ったらいいのか。あ、「歩成」は余計か。それに相手が囲碁盤を思い描いたらその時点でアウトだ。意思の疎通って難しい。だから結局こう答えることになる。

 「いえ、ないです」

 ほんとはちょっとかゆいのに。

 さて、今日もまたこの2つの問いを曖昧に乗り切った。曖昧だが乗り切ったという事実で安堵した。だが、まだ甘かった。シャンプーを洗い流す段になって、美容師はこう問うた。

 「流し足りないところはございませんか?」

 知らん、それは知らんぞ。だいいち、見えん。気配で察しろというのか。それはムリってもんだ。そんなもんあなたのほうで判断してください。それでもプロか。あ、これは言い過ぎだった。失礼。煩悶したまま、またこう答えなければならない。

 「いえ、ないです」

 煮え切らない。

 そうなのだ。散髪に行くといつもこうして言いたいことが言い切れなくって悶々としてしまうのだ。だから苦手なのだ。だが仕上がりの姿を見て口元に満足げな笑みをたたえてうなずいてみせなければならない。美容師さんに対する配慮である。おれって大人。大人な振る舞いを要求される場所、それが美容室。やや短くなりすぎた気もするが大目に見てあげよう。だって大人だから。

 それでは、結婚式に行ってきます(従姉の)

2001年03月16日


. 010315 瀬戸内からのおたより その1。

 いかん。

 実家に帰ると、どうしてもダラけてしまう。普段からしてダラけているのだから、それはもう大変なことになる。今日一日を振り返ってみよう。

起きる>メシを食う>漫画を読む>寝る>
起きる>漫画を読む>メシを食う>漫画を読む>現在に至る

 すばらしい一日。引きこもりもさもありなん、という生活。なにしろメシがオートマチックで出てくる。これが幸せである。一人暮らしだったら、「買い出しに行く」あるいは「料理する」とかいうプロセスを経ないとメシにありつけないわけで、そうすると余儀なく活動しなくてはならない。この活動に付随して例えば友達に会ったり、本屋に寄ったりと人間的文化的活動も生まれてくるというものだ。ところが、なにもせずともメシに、それも自分の口にあったものにありつけるとなれば、もはや動く気がなくなってしまう。そらゴロゴロと漫画を読むしそのうちに寝てしまうってもんだよ。ものすごい自己弁護だな、しかし。

 いかんいかん、こんなことをしているヒマはないのであった。来週は東京に戻って早々、研究室でのゼミ発表があるのだ。このゼミで紹介する論文はもちろん持ってきたし、参考文献だって揃えてある。おれを甘く見てもらっちゃ困るぜ。ちゃんと勉強の準備はしてきてあるのだよ、ふっふっふ。ん? どこのどいつだ、「準備だけだろ、どうせ」なんて言ってるのは。ああ、その通りだよ。そしてこのまま一度も勉強せずに持ち帰る可能性が大であることを予感しているよ、今からな。なにしろ実家に帰ってきて今までに成したことといえば、

 「SLAM DUNK」(全31巻)読破。

 ・・・湘北高校バスケットボール部、最高。

 あ、まだあった。

 「彼氏彼女の事情」(第10巻)

 も読んだんだった。最新刊ね。これ、おもしろいんだけど最近サイドストーリーばっかでちっともメインが進行しないなあ、なんて批評もしたんだった。「花とゆめ」もまとめ読みしたし、充足した一日だったと言えなくもない(言い聞かせようとしている)。あ、断っておくがこれは妹のもんなので。兄であるおれも好んで読んでいるけど、買っているのは妹なんで。そこんとこよろしく。

 うむ、書いているうちにテンションが上がってきた。ダラけてなんかいなかったような気がする。そんな一日の締めには、やはり名作「動物のお医者さん」を読みながら眠りにつくとしよう、そうしよう。ちなみにこれはおれ自身が買い揃えたものである。まいったか。

 で、勉強はいつするの?

2001年03月15日


. 010308 娘が冬に産まれたら美雪と名付けようと思ってたりする。

 モーニング娘。

 直球の書き出しです。モーニング娘。ネタに頼るのもいい加減にしろってんだ。旬なネタを用い過ぎると後になって読み返したときに読むに耐えないものになっている恐れあり。それは某県知事の作品がいい例。いや待て待て、そんなに時を経て読み返されることなんてないんだろうから別にいいのか。そもそも日記なんだし。と、自己完結したところで先に進みます。何に言及したいのかというと、そのネーミングセンスです。

 モーニング娘。

 また改行してみました。しつこいですが我慢してください。ブレイクした今でこそ、その顔、曲、名前に触れない日はないということになってしまいましたが(これを前提条件としています。苦情受け付けません)、最初にこの名前を聞いたときの巷の反応はいかがだったでしょうか。ナインティナインの矢部よろしく「はぁっ?」 というリアクションだったかと記憶しています。僕もそうでした。なにしろ「モーニング」 で「娘」 で「。」 です。かっこわるいです。それがどうでしょう、3年を経て、誰もがなんの疑問もなく「モーニング娘。」 と口にしています。「モームス」 とまで略されてしまう現状を、誰が予測したでしょうか。今でこそ大きい顔をしてLOVEについて語ってらっしゃるつんくさんだって、ここまでは予測していなかったのではないでしょうか。しかしながらこの名前が非常にインパクトの大きいものであったということは確かです。この名前だったからこそ、常軌を逸した売り出し方ができたし、事実売れました。

 くれぐれも言っておきますが以上は前置きです。決して中澤さんの脱退が残念でしょうがない、ということを伝えたいわけではありません。へええ、加護さんはわがまま放題なんだね、ということを伝えたいわけでもありません。言いたいのは、かように名前というのは大きな意味を持ってくる、ということです。名前がすべてではないけれども、名前の及ぼす影響は大きいものがあります。

 ここでHPの名前について考えてみます。個人HPが乱立している現在、そこには多くの名前があります。その名前はHP全体の雰囲気を作り上げますし、作成者の姿も浮き上がらせます。例を挙げてみます。

 思考飛行旋回希望(休止)

 びわこさんのHPです。このタイトル、好きなんですよね。漢字自体から受ける印象のよさはもちろんのこと、口に出して「シコウヒコウセンカイキボウ」 と言ってみてもリズムがいいですし、意味があるんだかないんだかよくわかんないミステリィさも素敵です。ここにびわこさんの言語センスのよさが凝縮されていると言っても過言ではありません。褒めてみましたからなんかください。

 phosphorescence(移転)

 ぷーさんのHPです。英語(外国語)のタイトルというのはかっこよさげでありながら実はダサくなってしまう、という危険性があるのですが、これは成功例です。一見したところの意味の不明さと、読んでみたときの響きの綺麗さが不思議なやわらかさを醸し出しています。太宰の作品からその名を採った、という由来も素敵です。褒めてみましたからなんかください。

 ぐうたら雑記館

 大学の友人もろやんのHPです。「ぐうたら」 な「雑記館」。「ぐうたら」 とは自身を揶揄した言い回しで、実際はかなり律儀に更新されているのですが、こうして先手を打っておけばたとえ更新が滞っていたとしても「だってぐうたらなんだもん」 と開き直ることができます。文句も言えません。うまいやり方です。さすがに善人ぶらせたら右に出る者はいないと評判のもろやん。褒めてないかもしんないけどなんかください。

 さて、ここで問題となるのが、

 Rana's HOME PAGE

 そのまんまです。僕、つまり、RanaのHPだから、Rana's HOME PAGE。名前にこだわっている風でありながら自身はこの芸のなさ。一気に説得力がなくなりました。まあ待ってください。実はこれには理由があります。あのですな、僕は、飽きっぽいのですよ。

 だからなに。

 まあ聞きなさい。飽きっぽいから、どんなにかっこいい、あるいは面白い、深い、シュールな、タイトルをつけたとしてもいずれ「変えたい」 と思うに決まってるのです。リニューアルだったらいつでもできるだろうけども、タイトルばかりはそうそう変えられない。だったら最初からそれは放棄して、無味なタイトルにしといた方がいいんじゃないかと。また、凝ったタイトルにした場合に、トップページのデザインの変更時に少しの制限がかかることは避けられない。これも怖かったんですね。

 ・・・というのは、嘘です。

 ごめんなさい。ほんとは、ほんとに、なんも考えてなかったんです。そもそも(仮)タイトルのつもりで、いずれ名付けるつもりだったんです。そんな仮設段階で公開したのですが、来てくださる方は少しずつ増えていきました。早いうちにリンクもしていただきました。そうすると、もう、あえて変えることが面倒になってしまったんですな。僕は、飽きっぽいのと同時に、めんどくさがりですから。はっはっは。

 ・・・と、こんな適当な人も中にはいますが、タイトルはまさにHPの顔となるものです。作成者がどんな思いで名付けたのかを知ること、または想像することは、それこそ子供の名前に込めた親の思いを手繰るのと同じく、興味深く、楽しいことです。こんな感じのまとめでよろしいでしょうか。

2001年03月08日


. 010305 これが卒業旅行とかいうやつになります。

 別荘に行ってきました。

 あん? 今、なんつった?

 いや、だから、別荘に行ってきました。

 ベッソウ?

 そう、別荘。馴染みの薄い単語だから理解するのに時間を要するようです。気を取り直して再確認。この土日に、別荘に行ってきました。

 「おれんちで別荘買ったからさあ、遊びに来ない?」

 彼は言いました。クラスの友人の一人です。このセリフ、なんなんでしょう。「別荘買ったからさあ」 スネ夫くんか、おまえは。彼の家が山梨県八ヶ岳のリゾート地に、別荘を購入したらしいのです。この春休み、成績発表が終わって卒業が確定したお祝いに、クラスの仲のいい連中で一泊の温泉旅行に行こうじゃないかという提案でした。僕含め皆大学院進学が決定していますので、春休みとはいえ研究室で実験をせねばならず、それほど長期の旅行に出かけることはできません。では、この小旅行を卒業旅行ということにしてしまいましょうか。この機を逃したら今度はいつ集まれるかわからないので、一も二もなく承諾しました。それにしても、別荘。そんなものがこの世に実在するとは。

 まず、別荘を提供してくれる友人の家に集合します。彼の家に上がりこんだ瞬間、耳に優美な調べが飛び込んできました。

 クラシックが流れている。

 誰の、なんという曲なのかは当然(ここ、悲しいところ)、わかりません。ただ、「クラシックだ」 ということはわかります。そんな音楽が日常に流れている家。さすがに別荘を買う家は違います。支度を済ませ、車で出発。2時間強、意外にも早く目的の別荘に到着しました(お察しのとおり展開をはしょっています)。雪まだ残る八ヶ岳。それを眼前にした林の中に、別荘がありました。

 ・・・別荘以外のなにものでもない。

 そんな印象。ログハウス、という単語から想起される家屋をイメージしてください。それです、ズバリそれなんです、この別荘。ジス・イズ・別荘です。中に入ります。と、真っ先に目に飛び込んできたものは、

 だ、暖炉だ。

 暖炉。少しのヒネリもなく、それはそこにありました。更に、上を見やりますと、

 うぉぉっ、て、天井にプロペラがぶら下がっとるっ

 あまりに王道な展開に笑っちゃいました。これが「金田一少年の事件簿」だったらメンバーの誰かが不可解な死を遂げる、そんな空間です。階段、台所、トイレ、風呂、テラス。すべてにおいて一分のスキもなく「おれは別荘だ。文句あっか」 という自信がみなぎっています。参りました。降参です。

 暖炉に火をつけ、部屋が暖まってきたころに宴会の開始です。最初はきょろきょろと周囲に目をやり落ち着きませんでしたが、座し、酒を呑み、語らっていくと、そんな座りの悪さは解消されました。4年も付き合ってきた連中だからいろんなことを忌憚なく話せるわけですな。気持ちのよい語らい。ありとあらゆるよしなしごとを語り尽くし、いつの間にか深夜も2時を過ぎてそろそろ就寝かな? という雰囲気が漂いだしたとき、オーナーの息子は言いました。

 「カノンを流そうか」

 「かのん?」 なんじゃそいつは。流すというからには音楽なんだろうな。そして多分クラシックなんだろうな、バンド名じゃなさそうだし。呆けた顔をしている僕に向かって、彼は「パッヘルベルのカノンだよ。ぜってえ聴いたこと、あっから」 と言ってリモコンのプレイボタンを押しました。「あ、これか・・・」 マヌケなツラで僕はつぶやきました。たしかに聴いたこと、あります。なるほど、これがカノンか。もったいぶった名前付けやがって。で、パッヘルベルってどんなヤツなの? と思って今調べてみたら、某サイトの紹介文に、こう書いてありました。「残っているのがこの一曲だけという、歴史に残る一発屋」 そうか、でも一曲だけでも残ってよかったねえ、パッヘル(親しみを込めて略称で呼んでみた)。そのカノン(憶えたての単語)が階下から流れてくる中で枕を並べて就寝。僕の人生でこのような状況があり得るとは。現実味がありません。昔からオールナイトニッポンを聴きながら眠りに落ちていたこのおれが。出世したものだ(してない)

 翌日。昼過ぎに起き出して温泉入ってほうとう食べて、夜に東京着。紙面を使い果たしてしまったので、めちゃくちゃ乱暴にまとめます。楽しかったんですけど(これまた乱暴な感想)。今日の日記で言いたいことは、「別荘を持っている友達を持つべし」 てなことですから、これでいいのです。読み返してみると全面的に展開が乱暴です。風邪で頭痛いから許してください。おまけに胃痛も激しいです。首もまだ痛いです。その影響か手先に痺れがあります。身体の節々に違和感あるし。もう水分とって寝ることにします。満身創痍な僕に励ましのお便りを。ではまた。

 本日の日記はブルジョワジーな語を高貴なで彩らせていただきました。

2001年03月05日


. 010301 もう少し日記を短くしようキャンペーン。

 遠い昔のお話。それはおれがまだクシなんてものを携帯していたくらいに遠い昔。

 そう、その昔はクシを常備していた、そんな高校生。このおれが。髪のセットがめんどいからって短髪にして、これ幸いとばかりに起きたまんまの頭で寝癖なにするものぞと学校に行くこのおれが。当時はやや長髪だったときている。サラサラヘア。ほんのり茶色。V6の坂本くんと同じような。たとえ方が微妙。わかってもらえるのか。そして休み時間のたびにトイレに行ってクシを通していた、そんな高校時代。なんて恥ずかしいんだ。しかも学ランの下に赤シャツ着て、第一ボタンを外してそれをチラリと見せることがオシャレだと思っていたし。うああああっ、やめてくれ。許してくれ。そんなに鏡見る時間があったんなら髪や服見ないでもっと現実見ろってんだ。だけどそれができないのが高校生。現実から目をそらし、自分の信じるオシャレの道を突き進む。

 もっとさかのぼってみよう。中学時代。校則でおれは坊主だった。これはオシャレのしようがない。これ、イヤだったね。だっておれ、後頭部に小さいハゲあるし。幼少のころにケガしたときの傷跡。これさらすことになるから、イヤだったさ。

 「そう、おれ、昔、坊主だったんだよ」

 「きゃはは、なにそれ、おもしろーい」

 「なんだよ、笑うなよ」

 「だって・・・、あははははー」

 「もう、笑うなっつってるのに、このやろー」

 ・・・やめよう、空しくなってきた。坊主頭は一年だけで、転校して髪型フリーの学校に変わったから、うれしくってはしゃいじゃったんだね。だから反動で長髪にしちゃったんだね。うん、「しちゃった」この表現、まさしく。若気の至り。この表現も、まさしく。そもそも頭おっきいんだから、長髪にしたらすっごい重たいことになるのにね。そんなことにも気づかないでかっこいいって思ってたんだね。ああ、思ってたさ。髪のかきあげ方とか研究しちゃったりね。無闇にかきあげてたね。誰も見てなくても。いや、もし見てたとしても、目、そらされてたね。この可能性、大。あ、なんかお兄ちゃん、涙出てきたよ。うん、前置きが長くなっちまったね。さあ、本題に入ろうか。

 ・・・。

 ええっと、なんのお話をしようと思ってたんだか忘れたんで、今日は、やめ。

2001年03月01日



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