■ 2001年2月
. | 010226 ちょいと背伸びして書いてみます。 |
某掲示板において、読書の意味についてのひとつの見解が示されておりました。 曰く、 「読書は量を誇るべきではない」
なかなか極端で断定的な見解ですが、この投書に対する答えは結局管理人さんの返答にあった、「読み方は人それぞれ、十人十色」という言葉に集約されます。「所詮読書」なんですから各人楽しめればいいわけです。これ、いかにも僕らしいまとめですね。と、最初にまとめの言葉を書いておきます。 だからやがて芥川は創作に疲れる。自分のなかにないものを、作家はいつまでも紡ぎ出すことはできない。 養老 孟司『身体の文学史』
個人的経験に基づいてしか、物語は語れません(001010)。他者の経験に迫り、物語を紡ぐという段において拠り所となるのは、"自身が見聞きした"他者の経験ということになります。残虐非道な殺人鬼の物語を書く作者がそのような経験を経てきたかといえばそうではなく、様々な媒体によって情報として伝えられた反社会的存在としてのそれを自身の中で消化し、エッセンスを言葉という媒体に再変換して表現として昇華させているわけです。これはすべての表現において言えることです。 この作業において有効となるのが「多くの本を読んでおくこと」となるでしょう。多くの本から経験を吸収し、表現を学んで自己の文章に反映させていけばいいでしょう。そもそも<誰の真似でもない文章を書く>ことは可能でしょうか? それ自体にそれほどの意味はあるでしょうか? それを他者が「マネだ」「二番煎じだ」だと揶揄することはあるかもしれないけれども、「自立する」過程として通る道ではないでしょうか?(ここでは意図してそれをおこないマーケティングにおける成功を狙うという、純粋な表現から離れた次元の話はしないことにします) ただし「本を読むこと」は「表現すること」の十分条件であっても必要条件ではありません。「音楽を聴くこと」や「映画を見ること」や「人と話をすること」もまた、表現に活きてくるからです。本を一冊も読んだことがない作家がいたっていいわけです。その意味では冒頭の「量を誇るべきではない」という見かたは正しい。だけどいずれにしても新しい表現を作り出す際に、他者の表現を知らずにいることは、冬の寒空に素っ裸でいることに気が付かないくらいに恥ずかしいことだと思います(この比喩もまた先人が産み出したものですし)。 個人とは、しょせんは個人に過ぎない。そんなものをいくら剥いたところで、たかだか脳ミソ一つしか、出てきはしない。 養老 孟司『身体の文学史』
個人が創造できる物語なんてたかが知れています。過去のすべてを参照として利用することは現在にいる表現者が持っているアドバンテージです。森博嗣がそのHP、浮遊工作室ミステリィ制作部の2月20日の近況報告で言っていますが、「昔の作品がライバルになる」わけです。「今現在存在する作品だけで、個人が一生楽しむのに充分な量が揃ってい」る、とは僕も思います。そんななかで新しい作品を産み、かつ認知されるために個人の力量だけで立ち向かうことは、いかにも装備が弱いのです。芥川龍之介が『今昔物語』や『宇治拾遺物語』に題材を採ってこれらを心理劇に変換したり、殊能将之が過去の本格ミステリィの手法を熟知しその王道の隙を衝くことで新しい形を確立したりしたように、過去の作品群を知り発展させることによって新しい作品を産み出すことは創造と呼ぶにふさわしいものです。この意味で「新しい文章を書く」ことと「多くの文章に触れる」こととの間に相関関係は存在します。 僕自身について言えば、僕の文章の文体、文法の基となっている(と自覚している)作家は椎名誠であり、清水義範であり、原田宗典であり、森博嗣です。最初はその模倣であり、それを重ねることによってだんだんと自分の色が出てくるようになった、と思います(000317)。僕はまたさらに他者の言葉を利用します。ときおり日記の中で小説、エッセイ、歌詞の一説を引用しますが、それは僕自身が達することができない表現思考がそこにあるからであり、これらの言葉が基になって僕自身の考えが生まれたんだよ、ということを示して敬意を表したいからです。 本を読み、映画を見、音楽を聴き、人の話を聞く。 これらを放棄することは非常にもったいないことです。加えて最近はWeb上で手軽に、素人が書く文章に触れることができるようになりました。「これだけの文章を書く素人がいる」と知ることができるようになったのならば、それを奮起の材料とすることもまた、ありです。 蛇足:一見、オリジナルを確立しているように思われる表現者もいます。しかし自身の表現に安住してしまってはそこで止まってしまいます。福田和也『作家の値打ち』の中でたびたび出てきた言葉ですが、そんな表現者が陥るのは「自己模倣」ではないでしょうか。独りよがりな展開に陶酔して世界が完結してしまう。前作の焼き直しに陥ってしまう。そんな作品は退屈です。表現者は常に謙虚でなければなりません。常に他者と比較し、更なる創造をする努力を怠ってはならない。それほどの厳しさが表現者には求められると思います。 This essay is inspired by take2 and maruma.
2001年02月26日 |
. | 010224 これをネタとして使わずになんとせん。 |
ある朝、グレゴール・ザムザがなにか気掛かりな夢から眼をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な毒虫に変わっているのを発見した。 フランツ・カフカ 『変身』/高橋義孝 訳
ザムザは、毒虫になっていました。僕は、ムチウチになっていました。 なんのこっちゃ。 いえ朝にね、起きたんですよ。学校行く支度して、歯磨きして、髪をセット(申し訳程度)している途中に、背中に、ビリリッッッ、という激痛が走りました。動けなくなりましたね。誇張じゃなくて。布団に横になり、いろいろと体勢を変えてみましたが、痛みが和らぐ体勢というのがありません。首から肩、背中の上半分にかけて、ビリビリビリビリという痛みが休みなく全力疾走しています。こりゃいかん、と、研究室に電話しました。「あ、あの、背中が痛くて、動けないんで、遅刻します」 なかなか情けないです。ザムザは毒虫になった自分自身を冷静に受け止めていましたが、僕はそれどころじゃありません。 布団の上に仰向けになって痛みと格闘すること3時間。何度か夢の中に落ちましたが、痛みは絶えず襲ってきます。回復する兆候がないのでこのまま寝ていてもしゃあない、と判断して、どうにかこうにか立ち上がり、研究室に向かいました。やっとかなおえん実験があったもんでのう(@岡山)。研究室までの道のりも、研究室での動作も、かなりツライ。先輩には、「おまえの動き、コミカルだぞ」と言われましたし。いや、そんな悠長なもんじゃなくてだな。 最低限の実験だけ終わらせてから研究室をあとにし、病院に向かいました。まず生協の学生健康保険組合の内科で診てもらったのですが、そこでははっきりとした診断が下せずに近所の整形外科を紹介され、そちらへ移動。この行程もエライことでしたが。「整形外科」 初体験です。肩はいいから目と鼻と口をよろしく(いや、やっぱり肩を診てくれ)。で、診察。レントゲンもとってもらい、それを見た外科医のお言葉。 「う〜ん、首の筋肉が緊張していますね。頚椎捻挫ですかねえ」 要するに「寝違え」のレベルアップヴァージョンということでしょうか。それにしては朝起きてからしばらくは平気だったんだが。鎮痛の薬と湿布を処方されて、診察終了。病院の診察なんて概してあっけないもんです。が、今回はオマケが。 コルセット。 首を固定する、アレです。これ、ちょっとうれしかったです(んだそりゃ)。一度は経験したいと思っていました。装着して、首を楽にして頭の重さをこれにあずける。おお、少し楽になった気分(気分だけ)。これ着けて、颯爽と街に出ましたね。「ほれほれ、なんか重症っぽいだろ」と。無様極まりない、という現実には目をつぶります。 家に帰って、いつもの習慣で、まずパソコンを起ち上げました。そのときに、思いました。 「一日に何時間でもやってる、これが原因かもしれない・・・」 その痛みにもめげずに、日記を書いてメールを書いてる自分に乾杯(いや、早く寝ろ)。 2001年02月24日 |
. | 010221 親父。 |
え〜、長いです。最長です。別ページに掲載しました。約6000字、原稿用紙15枚。ので、読んでくださるのならば時間のあるときに、よろしく、どうぞ。 >>>■
2001年02月21日 |
. | 010219 小さな石鹸はカタカタ鳴らなかった。 |
戦闘に行ってきました。 まちがえました。 銭湯に行ってきました。 ありがちな変換ミスですね。と、分析してるヒマはありません。本題に入ります。銭湯に、行ってきました。僕の部屋、風呂はついてますから普段行くことはないんですけれども。今日はなんとなくそういう気分。だったので、ボディソープにシャンプーリンス、タオルバスタオルを用意して、てくてくと銭湯に向かいました。徒歩3分。 僕の家は神田川沿いにあります。窓の下・・・ではないけれども、窓から見えます。銭湯も近い。まさしくかぐや姫「神田川」と同じロケーション。三畳一間でもないけれど。"洗い髪が芯まで 冷えて" ええ、こんなシチュエーションに、憧れますさ。待たせたいさ。"冷たいねって 言ったのよ" ああ、言ってみたいさ。"ただ 貴方のやさしさが 怖かった" かっこいいな、こんちきしょう。 ・・・ごめんなさい、壊れました。え〜、銭湯です。下足入れやロッカーの鍵を手首にくくりつけると、銭湯に来たのだっ、ていう感じになります。衣服を脱いで、いざ出陣(丸腰なんだけど)。僕、オールヌード。これはセクシー(想像しないほうがいいです)。夜10時を回っていましたが、けっこう人多いです。年齢層も幅広い。そんな裸のお付き合い(だから想像しないでってば)。じろじろ。・・・あ、負けてる(ナニ見てるんだ)。少し熱めの湯と、広々とした浴槽。これ、最高に気持ちいいんですね。漢方の湯というのもあって、こちらも味わってみました。うれしかったので3回も入りなおしましたし(子供の所業)。やりすぎてのぼせて、しばらく気持ち悪くなりましたけれども(言わんこっちゃない)。ほかほか湯上り。身体を拭いて、トランクス穿いて(Ranaさん、トランクス派であったことがここに発覚)、ふと横を見ると、ありました。 体重計。 銭湯に来た理由のひとつ、体重測定。僕の部屋、体重計がありません。体重を量るのって実家に帰ったときと年度始めの健康診断のときくらいです。一人暮らし始めて以来、特に体重に気を配ったことはなく、それでも特に大きな変動はなかったので安穏としていたのですが、つい最近気になる言葉を耳にしました。他でもない、原田美保子さんから。 「らなさん、顔、むくんでるわよ。体調悪いの?」 ぐ。べ、別に体調悪いという事実、ないんスけど。も、もしや、太ったのか? そういや体育の授業(「ウエイト・トレーニング」。なんでそんなストイックな授業とってんの、キミ)終わった昨年暮れ以来、運動らしい運動しなくなったからなあ。それに家と研究室の往復の毎日で、たまに派手に酒飲んでるからなあ。考えてみりゃ太らないほうがおかしいんだよな。と、めったやたらと不安になりまして、事実確認をしようと思っておったのですよ。で、今まさに、その機会来たれり。どきどき(しずしずと体重計に乗る)。 ん? おお、なんだ、変わってないじゃん。ベスト体重だよ(自分で決めてる)。やっほーやっほー。ふ、口ほどにもない(なにが)。おれを見くびってもらっちゃ困るぜ(間違ってる)。おおっと、油断は禁物。今のライフスタイル、身体に悪いことこの上ないと思われます。元々太りやすい体質なんだから。少なくとも食生活は改善しよう。メーヤウにもっと行こう、うん。最近メーヤウ行く回数減ってるからね。顔むくんでたのもきっとそのせいだよ。銭湯なんか行かないでメーヤウに行くべきだったんだね、おれはね。おお、この感動的な結論。気分がいいからここで終わります。起承転結だとか流れだとか知ったこっちゃありません。それでは。 2001年02月19日 |
. | 010217 受験だ受験だ。 |
受験シーズンです。どこもかしこも受験であふれかえっています。受験大安売り。道を歩けば受験にぶつかる。石を投げれば受験に命中。受験過密状態。泰山鳴動して受験一匹。そこのけそこのけ受験が通る。受験は広いな大きいな。えーとえーと、誰か止めて。 受験期間ということで、大学は受験生および関係者以外立ち入り禁止、ということになっています。が、実験のある学生たちには入構許可証が発行され、普段と変わらず大学構内に入ることができます。ありがたやありがたや(ありがたくない)。学校に入れなくなった4年生が仕方なく留学や卒業旅行に出かけるこの最後の春休みにも、落ち着いて実験に没頭できるというのは、うれしいことです(うれしくない)。しかし私立大学、休み長すぎ(恩恵に授かれなくなった途端に不平)。 そういうわけで、大学構内は受験生でごった返しています。僕は特権を利用してその受験生たちに混ざって構内を闊歩することができます。いやあ、みんな、若いね。若い若い。普通に考えて5つも年下なんだからね、そりゃあ違うさ。肌ツヤもいいさ。試験の合間に階段に座り込んで参考書読んじゃってるよ。がんばってるね。希望に満ち満ちてるね。きらきらだね。でもあと4年もすれば目の前にいるこの白衣着た人みたくくたびれちゃうからね、よく見とくんだよ。こうなっちゃだめだよ。あ、でも、私服で歩いていたときに学生寮の勧誘の人に、「受験生の方ですかあ?」なんて聞かれちゃったよ。これ、ちょっとうれしかったね。かたっぱしから声かけまくってるっぽいけど、うれしかったさ。 受験ていうのはお祭りみたいな雰囲気があって、楽しかったですね。単身見知らぬ土地に乗り込んでホテルをとって会場までのルート調べて下見して。翌朝早起きして颯爽と戦地に赴いてヘロヘロになって新幹線で自宅に帰る。すべてが新鮮で、今なお記憶に残っています。僕は受験で東京・大阪・京都・神戸を訪れましたが、観光気分でした。気分どころじゃなく、観光してました。東京ドームと水道橋場外馬券売り場、なんばグランド花月、京都タワー、異人館。受験前日に最後の追い込みできるような性格なら苦労はしません。あんまり楽しかったから2年越しでやっちゃったよ、受験(それはダメだろう)。 と、自身の思い出に浸りながら受験生を眺めていたのですが(ヒマ人)、気が付いたことがありました。昨日の受験生と今日の受験生、「色」が違います。この色の違いをもたらしているものは一体なんだろう? と少し考え、わかりました。「男女比」です。昨日は、男女比100:1でした。今日は半々、もしくは女性がやや多い気がします。昨日の色が全面的にくすんだ黒・白・青だったのに対し、今日は色とりどり。ビビッドです。え〜、確認するまでもないかと思われたのですが、研究室に戻って試験日程を調べてみました。 「16日:理工学部、17日:第一文学部」 ・・・やはりか。悲しいかな予想通りだよ。ああ、悲しいよ。たとえば政経学部と法学部ならばね、その受験生に色の差なんておそらくないんですよ。しかしながら理工学部と文学部。これを対比するとその差は歴然です。比べること自体が間違ってます。このときばかりは、こう思いましたね。 「やっぱり文学部にしとけばよかった」 心の底から。 2001年02月17日 |
. | 010212 『優しくって少し ばか』 原田 宗典 |
僕は二十歳。けれど、それが人生の一番美しい年齢だなんて、誰にも言わせやしない。 P・ニザン
本を再読することは、めったにありません。再読する時間があるくらいなら新しい本に手を伸ばします。どんなに心動かされた作品でも、再び読み返すということは稀です。これまでにだってせいぜい数冊。僕の場合はそんな読書スタイルでした。ですからこの作品も、僕に多大な影響を与えた作品であったのですが、再び開くということはありませんでした。当時読んだ文庫本は実家の本棚。しかし先日、古本屋でその単行本を目にし、その安さのために思わず購入しました。買ったからには少し読んでみるかな、という気になります。軽い気持ちで開きました。そして、没頭しました。 作品の解説を少しします。『優しくって少し ばか』。六編の物語が収められたこの短編集には、ある"男"と"女"の物語が綴られます。「おまえと暮らせない」という名でまとめられてすばる文学賞に入選した三編(「海へ行こう、と男は」 「ポール・ニザンを残して」 「テーブルの上の過去」)に加えた三編(「優しくって少し ばか」 「西洋風林檎ワイン煮」 「雑司ヶ谷へ」)いずれにおいても、"男"と"女"の会話が中心に据えられて物語が展開していきます。主たる視点は"男"寄りであり(「海へ行こう、と男は」においては"女"寄りであるが)、その視点は時に著者自身に重なる気配を見せます。"女"の怖さに、不気味さに、不可解さに、"男"はうろたえます。"男"はその"男"であるがゆえの不完全さのために"女"を恐れます。道化ます。振る舞いの滑稽さはコントの要素をはらんでいます。逆に"女"もまた自身"女"であるがゆえの不完全さで"男"を苛め、遊び、傷つけ、そして傷つきます。本書は、そんな不完全な二人の物語です。不完全だから、物語が生まれます。 この作品を最初に読んだのは高校2年のとき、今から7年前。16歳です。当時の僕にとっては"女"はおろか"男"だって不可解の対象だったわけで、作品中で繰り広げられる会話を"男"の視点に拠って読み解くことすらもできず、会話そのものがミステリィでした。艶かしい会話も、匂いのある会話も、身近には置き換えられませんでした。"男"と"女"の不可解。これ自体に魅力を感じ、読んでいたのだと思います。 7年を経て今。23歳。少しは"男"というものがわかってきました。近づいてきました。登場人物たちの年齢は今の僕の年齢に程近いことでしょう。そして著者がこの作品を発表した年齢(25歳)もまた、今の僕に近づきました(僕が勝手に近づいたんですが)。今の僕は、"男"の視点から会話を読み解くことができます。しかしながら"女"というものは無論不可解なままなのですから、作中の"男"と同じく"女"の挙動に驚いたり恐怖したりすることになります。"女"の不可解を身近に感じつつ読むことができるようになったんですね。 著者は、男です。その視点で、"女"というものの不可解を描いています。そこが滑稽さや、恐怖を生み出しています。読者である僕もまた、男です。その視点で、この作品を読みます。つまり"男"というフィルタを2重に通して、作中の"女"を見つめているわけです。そうすると対象としての"女"はよりボヤけ、得体の知れないものになり、恐怖は増幅します。ここまで繰り返して用いてきた"恐怖"という単語。これはなにかしら身を脅かす対象あっての恐怖ではなく、わからないこと、見えないことに対する恐怖ですね。これまた繰り返し用いてきた"不可解"に対する恐怖です。別に身の毛がよだつとかそういうものじゃない。なんとなく胃の中にズシリと沈滞しているような、そんな恐怖。これは日常において異性に対しておぼえる違和感や差異が結晶化したものかもしれません。ここで僕が思うのは、この作品は女に読まれたとき、果たしてどのような感想を抱かれるのだろうか? ということです。"男"が描く不可解な"女"像に、読者としての女は自己を投影できるのでしょうか。僕が感じたのと同質の恐怖を、抱くのでしょうか。あるいは恐怖とは違う別の感情を抱くのでしょうか。 タイトルの「優しくって少し ばか」は"男"というものを象徴した言葉、だと思います。あるいは、"男"というものの理想の形。"女"に対して徹底的にばかになる。と同時に徹底的に優しくもなれる。理解できるわけがない、のだったら、開き直ったが勝ち、でしょう。 小説家(あえてこう呼称します)、原田宗典の正真正銘の原点。本棚の隅に眠っているこの作品を、もう一度引っぱり出して読んでみてはどうでしょう? 時を越えて再び同じ作品に浸ることの愉しさを、僕は知ってしまいました。 いつのまにか、"ポール・ニザン"の年齢も飛び越していましたね。 2001年02月12日 |
. | 010211 夢。 |
2001年02月11日 |
. | 010208 切ないとこんなことやっちゃいます。 |
やあみんな、元気かい? おれは元気だよ。多分。おそらく。仮にも。信憑性15%。低い、こりゃまた低い。最近重かったり暗かったり真面目だったりする日記ばかりで肩がこったのでここらへんで息抜きしたいと思ってこんな書き出しにしてみたのさ。でも元々テンション低いんだからムリがあるっぽいね、まいったまいった。ほんとはまいってないけど、まいった。こんなときはミニモニ。の「春夏秋冬だいすっき!」でも聴いてみよう。・・・ダメだ、余計にテンション下がった。バカ唄の使用法って難しいね。聴いて元気になるときもあれば、逆にブルーになるときもある。今日は後者だったみたい。やれやれ。そういえば「やれやれ」なんて実際に言ってるヤツ見たことないね。村上春樹の世界だけみたい。でもおれ、ときどき言ってるかもな。村上春樹の小説に出演させてくれ。「やれやれ」要員として。今ならお安くしときますよ。ところでドリームキャスト、安くなったね。一万円切ったんだってさ。買ってみる? だけどおれ、ゲームやんないから、インテリアになる可能性大だね。おもしろいソフトがあるかどうかっていう以前の問題だね。それにドリキャスなんてインテリアに向かないね。むしろ浮くね、部屋の中で。だって白いから。色白。そりゃあ鈴木その子のご冥福も祈ろうってもんだ。今、「その子」の「子」ってひょっとしたらひらがなだったかも、って思ってヤフーで調べちゃったよ。そしたら株式会社ソノコの公式ホームページに「その子」って表記されてたから、こっち採用。どっちでもいいけど。こんな風に今やなんでもネットで調べられちゃう時代。これってIT革命ってやつ。恋愛レボリューションよりは高尚なのか? いい勝負っぽいぞ。なにしろ「その子」か「そのこ」かを調べるのに使われちゃうくらいだからね。へへ、どう? 時事ネタを書いてみたぜ。おれが新聞もテレビも見ないからってバカにしちゃだめだよ。微妙に話題が古いぞ、なんて言ってもだめだよ。いちおう時代についていこうという姿勢だけは示すフリしてるんだからね。フリだけかい。いいよ、時代についてけなくってもさ。将来息子と紅白歌合戦見ながら、「なあなあ、この歌手はなんて名前だい?」「やだなあ、父さん、知らないのかい? 遅れてるにもほどがあるよ」なんてなベタな会話を交わす家庭を作るのが夢なんだからな。ふっ、思わず夢を語っちまったぜ。お前の前だけだよ、おれが夢を語るのはさ。こんなセリフいっぺんでいいから言ってみてえよ。だから、今のうちから時代遅れになる練習をしてるって寸法さ。でもね、「HERO」ってドラマが5週連続して視聴率30%を超えてるってことくらいは知ってるのさ。30%超といえば4000万人が見てるって寸法だ。寸法使いすぎ。4000万人。多いね。なんのヒネリもない感想だね。おれは1秒たりとも見たことないけどね。所詮60%は見てないわけだから、おれの方が多数派なのさ。マジョーリティ。意味なく英語化してみた。しかしおれ、ドラマ見ないね。いや、さっき言ったようにテレビ自体見ないんだけどさ。ドラマってば「古畑任三郎」の第二部以来遠ざかってるね。時任三郎と言えばリゲイン。24時間戦えますか? そんなに戦いたくない。こないだ新発見。リゲインってリ・ゲイン。英語表記するとRe-gain。なんだ、やっと意味がわかったよ。今までガンダムのモビルスーツにありそうな名前だな、としか思ってなかった。そうかそうか、そんな意味だったんだね。お父さん一本取られちゃったよ。別にリゲイン、一本取る意思なかったと思われる。おれがアホだったってわけだ。それに24時間戦うようなヤツと試合したくないもんね。さてさて、勢いだけで書くのもこの辺にしようか。ここまで読んでくれた人、ありがとう。こんな改行なしの読みにくい長文、読み終える頃には視力が0.1だけ低下している計算さ。まんまと引っかかったな。いやただ、自分のテンション上げるために書いただけってウワサさ。これに懲りずにぜったいまた来てくれよなっ。「ドラゴンボール」の孫悟空風に言ってみたから許して。お気に入りから削除しないように。また来週。 2001年02月08日 |
. | 010207 大嫌いとは言えないけれど。 |
誰だって自分を特別視したくなるものだし、 This lyric is inspired by pooh and masapan.
2001年02月07日 |
. | 010205 ちょっと色を変えてみましょうか。 |
不遜な人間でした。 じゃあ今はどうなの? と言われたらどうでしょう。高校時分までよりは改善されたと思いますが、これは自己評価の範疇でしかありませんね。他者評価によるとどうなんでしょうね。かといってこれまた絶対的基準に拠る評価じゃありませんからね、問うこと自体意味がない。だから自己評価に拠ってしか語れませんね。としたら私はやはり、不遜な人間でした。 「人との関わりに意味を見出せない」こんな思いにとらわれて、高校までを過ごしてきました。こんな理由で、登校拒否をしていました。試験を受けて自分の位置確認して満足する場所。学校って私にとってはそれくらいにしか機能していませんでした。思えば幼稚園だって同じ理由で登園拒否していましたから、根が深いものだと思います。「自分がいちばん」だから「人と接していても得るものがない」と思いこんでいました。今の私が省みるに、厚顔無恥です。ええ、まさに不遜。家にいて何をしていたかというと、漫画読んで、本読んで、絵を描いていました。当時の私にとっての外界は、そこにありました。そこで得たものは大きかったんですよ。だけどこういうことに時間を割いていた分、多くの人が経験してきたことというのを知らずに通過してきてしまったんですね。それは後になってわかったことなんですけれども。自殺のイメージも始終抱いていました。実行をとどめたのは勇気のなさと少しの未練と家族という無条件に私に関わる人々、あるいは数少ない友人の存在でした。逆に言えばそれだけしか私を生にとどめる理由はなかったということですか。それだけ世界が狭かったんです。現実の感触ある、という意味での世界が。これまた今の私が感じたことですが。こうして18年間を過ごしてきました。 転機は大学進学とそれに伴う上京でした。自分の精神状態の危険性は当時の私も自覚していましたから、家族からも、地元からも、遠く離れたいと思っていました。いろいろなものを変えたい、と思っていました。両親の庇護下における我侭であり、それは今も継続していますから、大きな口はたたけないのですが。さすがに完全に単身でいることは寂しかったので、人と少しだけ関わっていこうと動きました。そして、知ったんですね。周りは凄い人ばかりだ、ということに。クラスで、サークルで、「かなわない」と思う連中に遭遇しました。彼らに引っ張られて、置いてかれないようにしてきたこの4年間でした。そうしているうちに私も変わりました。別人です。高校時代までと大学時代、それに連続する今現在。この二つの地点における私は完全に別人です。高校時代の私は今の私の姿を想像し得なかったでしょうし、今の私は過去の私の姿を明確に思い出すことはできません。当時読んでいた本の記憶は今でも鮮明にあります。ずっと携えてきています。これは経験ではないですからね。記憶の質が違う。「思い出」と人が呼ぶ意味での過去の記憶は驚くほど少ないのです。私は友人に対して自身の過去の話をしようとしたときに、話せることがほとんどありません。クラスメイトの顔も名前も、友達として関係を持った数少ない人々以外はまるで記憶にありません。今の私はそれを知って愕然とします。 言い訳をしましょう。自己がしっかり形成されたから、他者を見る余裕ができたのでしょう。少年期は自分を形作ることで精一杯ですからね。自分がいちばんだと思い込むことは、自信がないことの裏返しです。大学で人と接してその凄さに最初は驚嘆しましたし自身の経験の少なさに消沈しましたが、やがて自分もいい意味で人と同様に振る舞えることを知り、さらに自分にしか持ち得ないこともまたあることを知り、そこで生まれた余裕によって他者の凄さを認められるようになった、のだと思います。 もうひとつの転機がありました。2年ほど前に触れたネットを通じて出会った人々。性別も年齢も職業もその歩んできた道も現況もてんでばらばらな人々が集う場所。ここで私は多くの凄い人々に出会いました。人の才能に、それが凝縮された形で触れることができる世界です。多くの才能に触れました。ここにいたって私は、自分と違うものを持っている人を、そのすべてを、認め、憧れ、自分に反映させました。幸いにも色濃いお付き合いをさせていただいている人も多くいます。それは発展してすべての人を認めようと努めることにつながりました。この姿勢でいると人と関わることがこの上なく楽しくなりました。大切なことに思われました。率先して人と接するようになり、その場を作ろうとするようになりました。これまた過去の私には想像だにし得ないでしょうね。ああ、でも今の私の行動原理の基となっているのは高校時代に読んだ本たちから学んだ精神ですから、この点において過去の私と現在の私は融合している、と言えますかね。さらにはネットの世界において情報の媒介者となるのが当時から身近に触れてきた活字であることもまた、現在の私がやはり過去からの同一線上に存在するものだということを確認させてくれます。今の私は、人の能力や才能を察知することに関しては自信があります。それを認められます。と同時に認めて欲しいと思うから、自己を表現し、発揮する努力をするようになりました。 おそらくは。高校時代までだって私の周りには凄い人がたくさんいたのでしょう。当時の私はその凄さを見ることができなかった。目をつぶっていた。今の私はそれを「もったいない」と認識できます。これは後悔ではありません。過去の私と今の私、どちらが好きかと問われれば躊躇なく今、と答えます。しかしその今は過去の私あって存在するものですから。正しい道を歩んできたとは思わない。いや、人生に間違った道なんてきっとない。けれども不遜が改善され人の凄さを認めることができるようになった今の私は、ちょっとだけいい方向に流れたな、と思います。 人を認めることができない人間が、どうして人に認められるでしょう。 もちろん、事実を基にしたフィクションです。その度合いはいつにも増して高いです。誇張もあります。虚構もあります。その線引きは曖昧ですけれどもね。 2001年02月05日 |