■ 2000年7月,8月
. | 000822 メタノールのせいで手が荒れております。 |
前回立ち向かったテーマがあまりに大きすぎたので、今回は気軽にいこう。 実家に帰ったときにですね、しゃもじを見ました。 ・・・ううむ、ここで止めたらシュールだな。・・・そのしゃもじの形状がちょっと変わっていたのです。表面がデコボコしていたのね。母親に聞いてみると「ごはん粒のつきにくいしゃもじ」だそうな。後日読んだ雑誌にこのしゃもじについての記事があって、なんでも昨年の末以来爆発的に売れている画期的な商品である、と。実際に使ってみるとほんとにごはん粒がつかない。おおすげぇ、と感心していると、妹が「お兄ちゃん知らなかったの?」と半ばバカにしたような目で見やがる。いや、あの、しゃもじについての最新情報が耳に届くような生活環境じゃありませんので・・・。世のしゃもじはみなこのタイプにすりかわっていたのかっ?旧態依然でやっていたのはおれだけなのかっ?と不安になって東京に帰ってから友達に聞いてみたらばみんな知らなかったらしい。おおよかった、おれだけじゃなかったのね(といってもみんな一人暮しの連中なので世の実態を反映しているとは言い難い)。えっ?ひょっとしてみんな知ってたりして・・・。知らなかった人(仲間)、手を挙げて。 あっ、こんなやつです。念のため。 転換。 視力の低下が進んできたので、メガネを新調しました。以前に買ったフレームが似合わないことこの上なかったので(じゃあなんで買ったんだか)、フレームごと。そんな似合わないメガネでしたから、あんまり積極的にかけることもなかったのですけれど。授業中とか観劇のときくらいにしか使用してきませんでした。では視力が普段の生活に支障をきたさない程度のものなのかというとそうではなく、はなはだしく悪いのです。でも、見えてる振りをしてきました(だから目つき悪くなっちゃうんだってば)。人の顔もけっこう近くに寄らないと認識できないので、向こうは気づいて手を振ってくれているのに僕のほうは寸前まで気がつかない、ということもままありました。しかし、根性で乗りきるのもそろそろ限界。コンタクトレンズにしてもよいのですが、なんかコワイのでヤメ。 で、買いました。こういうお買い物って緊張しますね。なにしろ額が額だからね。6年間も以前のメガネで粘ってた理由はただ一つ、金がなかったからです。フレーム選びに1日目を費やし、夜寝ながらあれこれ吟味し、購入したのは翌日。2日がかりです。ふむ、自分では満足できるデザインのものを購入しました。僕がこういうものを買うときのポイントのひとつは、「おもしろいかどうか」です。なんかワンポイント、「おもしろい」ポイントが入っているものを好みます。ネタになったらしめたもの。かといってあんまり奇抜だとキャラクタに合わないので、地味〜に「おもしろい」ことが重要です。ここんとこ微妙ね。 さて、買ったメガネを友人に見せびらかしていると、「(『五体不満足』の著者の)乙武さんに似てるね」と言われました(「メガネがね」という意図の発言)。おお、たしかに乙武さんのメガネ、こういうデザインだったかも(そして、鏡を改めて見てみる)。「おっ、こうして見るとメガネだけと言わず顔全体の雰囲気も乙武さんに似てるかも」。友人;「・・・・・」。あ、ごめんなさいごめんなさい。「あっ、でもさでもさ、寝起きの乙武さんの顔の掘りを全体的に浅くして、魚眼レンズで覗いてみたらこんな感じかもよ」。友人;「ま、そんくらいなら許してやろう」。・・・ありがとうございます。 いやあしかし、メガネがさまになる人っていいやねえ・・・(と、これ、takkaさんのと同じデザイン(逆ナイロールのフレーム)なのです。・・・影響されてたのかっ?)。 2000年08月22日 |
. | 000817 人の数だけ主義は存在する。 |
「犀川先生なら、どう答えられますか?学生が、数学は何の役に立つのか、ときいてきたら」 「何故、役に立たなくちゃあいけないのかって、きき返す。だいたい、役に立たないもののほうが楽しいじゃないか。音楽だって、芸術だって、何の役にも立たない。最も役に立たないということが、数学が一番人間的で純粋な学問である証拠です。人間だけが役に立たないことを考えるんですからね。そもそも、僕たちは何かの役に立っていますか?」 〜森 博嗣 『冷たい密室と博士たち』 ぷーさんのHP、『phosphorescence』の、7月10日の日記に対するレス(今ごろかい)。 人生に意味なんてない、と考えています。 すべての行為に意味があり、自分が何かの役に立たなければならないのだ、とする考えは、正しいです。圧倒的に。だけど僕は少し違和感を覚えるのです。 意味がなくても、いいんじゃないかな? この「意味」にとらわれて身動きができなくなったのが、春先の自分自身でした。研究室の配属が決まり、さあこれから研究漬けの日々になるぞ、というその時期に、「はて、これからおれがやってく研究に果たして意味があるのかな?」という方向に思考が陥ってしまったのです。 敢えて批判的な言い方をしてみれば、閉ざされた空間での遊び、それが(大学における)研究です。社会に対する貢献だとか利益だとかと無関係に興味のおもむくままに自己の満足の為にできる研究。そんな遊びに意味を見出そうとした段階で迷路に迷い込むことは目に見えていたのですが。就職という選択肢が見え隠れする中での焦りがこのような悩みを引き連れてきてしまったのですね。 意味がなくてもいいのだ、いやむしろ意味がないからこそ素晴らしいのだ、という結論に回帰するまでに随分と時間を要しました。企業の研究となると利益を追求しなければなりませんし、即効性のある結果が求められます。その点大学ならばいい意味で世間からズレた、研究のための研究、ができるわけです。こっちの方が性に合ってるかな、修行もできるかな、というのは大学院進学を決めた理由のひとつでもあります。 と、研究研究とカッコよさげに言ってはいるものの、学部の4年、そして大学院修士過程の2年でできることなんてたかが知れています。ほんの入り口でしかないでしょう。その入り口さえ覗きもしないうちに論ずるなんておこがましいやね、と、乱暴ですがこう考えることで楽になれました。 さて、話を「人生の意味」に戻してみましょう。おりしも原田宗典氏が東京・岡山でおこなった舞台のテーマが「人生について」でした。これを観たときに感じたこととも関連してくるのですが、人生は千差で万別です。意味を考える間もなく意味なく奪われる人生もあります。本人が意味なんか考えてなくったって多くの人々に大きな影響を与える人生もあります。これらに画一的な意味なんてかぶせられるわけがない。だったら、意味なんてないって考えた方が、よっぽど楽で前向きだと思うのですがどうでしょう。 ある程度の普遍性を持った「人生の意味」を提示し、それが支持される、というのが宗教家でしょうか。意味を他者から与えられて安心する、という心理はわかりますけれども、その普遍性ゆえに「え?」という印象を抱いてしまいます(参照;http://member.nifty.ne.jp/t_asakura/)。 もうちょっと言うならば。 人生の意味は、 現在進行形の人生の意味を模索することは、ともすれば深みにハマってしまうもの。だからまあ僕はふだんお気楽能天気に生活してるんですな(度が過ぎるかも知らん)。 ああ、でも、こういうことをうだうだ考えてる時間もまた、楽しかったりするんだよね(最後に説得力なくなっちゃった)。 「僕ら研究者は、何も生産していない、無責任さだけが取り柄だからね。でも、百年、二百年さきのことを考えられるのは、僕らだけなんだよ」 〜森 博嗣 『すべてがFになる』 そう、研究は役に立たない。何も生産しない。それは小説も同じである。小説は役に立たない。何も生み出さない。だがどちらもそれで未来のことを考えることができる。そしてなにより、どちらも楽しい。 〜瀬名 秀明 This essay is inspired by pooh.
2000年08月17日 |
. | 000812 PLはえげつなく強かった。 |
いやあ、高校野球ってさあ、年上のお兄ちゃんがやってるもんだと思ってたらさあ、 と、「笑っていいとも!」におけるタモリの常套句で書き出してみました。 で、行ってきました、甲子園球場。別に地元の高校が出場する、というわけではなかったのですけれども。第4試合にPL学園が登場するので、おお、じゃあ行ってみようかな、と。僕が野球好きになったきっかけはプロ野球ではなく、この高校野球であったと思います。そして、当時の(高校野球史上と言ってもいいけれども)最強チームがPL学園でしたから、思い入れはかなり強いものがあります。記憶はかなりおぼろになってきているのですが、清原和博が中山裕章から放ったHRはやはり「問答無用」の強烈な印象を心に刻んだのです。 ですからこの日、PL学園のユニフォームをはじめて直に見たとき、鳥肌が立ちました。清原桑田、立浪片岡野村の姿がダブりました。「たかが高校野球」では片付けられない思いが溢れてきました。2回の表裏の攻防の前に両校校歌が流れます。知らずPLの校歌を口ずさんでいました。自分の母校の校歌なんて憶えもしないで、ろくに歌った記憶もないのに、PL学園の校歌は歌えます。「出れば勝つ」PLの校歌を、毎試合後に聞いていたわけですからね。 いやはやしかしPL、強かったです。決して派手さはないものの、確実に決めるバントや落ち着いた守備に、らしさがありました。いっしょに観戦していた友人も言っていましたね、「ファンじゃなかったらどうしようもなく憎たらしかっただろうね」と。それくらいに堅実で、スキのない野球でした。ですがそれに抗した札幌南校の健闘も光りました。まさしくボールが手についていなかった序盤の失点がなければ、とは言っても詮方ないことですけれども。はるばる札幌からやってきた応援団の応援も素晴らしかったですからね。地元PLを数の上で圧倒してましたし。その声援は反対側のスタンドまで響く大きなものでした。なんだかよくわかんないんだけど地元が躍らされる、というのは高校野球の「功」の部分であるでしょう。 たしかに。 高校野球に対する批判の声もあります。システムの面で改善すべき余地は多いですし、すべての「高校生」に等しく参加の機会があたえられてきたかといえば、そうではなかったですね。部活動がここまで肥大化してしまうことに対する違和感もあります。でも僕はやっぱり、大会期間中毎朝8時30分に目覚ましをセットし、第1試合からチェックしてきたくらいのファンであるのです(こんな中学生ってどうだろう)。だから、敢えて擁護。 野球留学生ばかりで地元出身のレギュラーが一人もいない私立校だって 理で割り切れないことに身を捧げる時間もエネルギーも、油断してるとすぐに失われてしまいます。見てると、「おっ、おれもやんなきゃね」と思えるのは、そこが一つの夢を実現した人々が集った場所であるからでしょう。いやあ、今度はここで、プロ野球が見たいね。 これから炎天下で何試合でも何百球でも連投しようってピッチャーが、
〜あだち充『H2』(意表をついた引用) しかしテレビ朝日、スポーツドキュメントは結構いい番組を作るのに、ことプロ野球中継となると、どうしてあんなにセンスがないんでしょう? 後日談。炎天下に長時間いたわけですから、当然、日焼けしました。すさまじく。今夏は研究室にこもりきりで生っちろい肌色してましたから、うれしかったりして。実に健康的に焼きあがりましたとさ。でもこんな半やけど状態のところに妹が背後からのしかかってきたもんですから、声にならない叫び声を漏らすこととなったんですけれども。いてぇよ、うっ、うっ、うっ・・・。 え〜っと、例のテーマで書いたヤツは、もう少々お待ちを(汗)・・・>ぷーさん 2000年08月12日 |
. | 000728 今日は一日中鶏の唐揚げが食いたくてしょうがなかった。 |
前日の研究室野球大会で風雨のなか6時間ばかりグラウンドを駆けずり回った影響で、全身筋肉痛に苦悶。筋肉痛が即日夜から襲ってくるあたり、まだまだ身体が若いことの証明かしらん。いや待てよ、こうしてことさらに「まだ若いんだもんね」と強調しようとするあたり、「でもそろそろやばくなってきたのよね」ということを白状しているようなもんですね。いやいやまだまだ。 サザンオールスターズの新曲、「HOTEL PACIFIC」にハマっております。曲はもちろんのこと、PVやTV出演の際の所業すべて含めていっさいがっさい。すごいのは、この曲をあの「TSUNAMI」の次に発表できる、というところ。某TV番組(一度も見たことないぞ、おい)の影響だかなんだか知らんがやたらと売れてしまった「TSUNAMI」。この程度の楽曲はいつでも作れるんだぞ、という能力の高さをにおわせながら「HOTEL PACIFIC」のようなバカ歌を炸裂させられる桑田佳祐に乾杯。びば。懐が深いよなぁ、と思います。僕が生まれたときからずっと変わらぬテンションで活動し続けているんですからもう、ステキな人々です。 やっぱりね、「硬軟取り混ぜて」、「清濁あわせのむ」というのが理想です。たいていの人の本質は「硬」で「清」だと思うのです。だからこそ「軟」や「濁」に対する憧れ、誘惑が生まれます。そんな向こう岸に足を踏み入れるか、境界の川に浸かるか、かたくなに渡ることを拒否するかは人それぞれですけども。「硬」「清」を貫くことはカッコいいでしょうし、「軟」「濁」に溺れることも潔いでしょう。だけど、どちらかの世界しか知らないのは危険だしつまんないよね、と僕自身は思っています。自分の意思で境界の向こうを覗き見たり、境界を踏み越えたりするときの興奮。誠実を貫く緊張。汚れることの快感。そういったものその都度感じていきたい、と思います。自分の場所がわかんなくなっちゃって中途半端な状態に陥る危険性もありますけれど、その境界をきちんと認識できているうちはだいじょうぶ。濁った水も、飲んでみなきゃ、ね。ううう、なんか話が抽象的になってしまいました。中島らもについて語ったときにも触れましたけれども、境界上で反復横飛びできる表現者っていいですね。そして桑田佳祐もまた、そのうちのひとりです。 ◆ 前回の日記のなかでの問いかけ、「みなさんが、HP上で日記を書いている理由は、なんですか?」に対する反応が、いろんなカタチで返ってきたのが非常にうれしかったです。人それぞれの思いが「日記」には込められているんだね、と知りました。僕のこの、よくわかんない文章も、とりあえず「日記」という体裁でこれからもやっていきましょう。 その僕の文章について「一歩退いた目線」「客観性がある」との感想を頂いたのですが、「そうかなあ?」と思うのと同時に「そうかもね」と思いました。たしかに僕は日常、常に、「自分を見る視線」というものを意識しながら行動しているきらいがあります。その意識は明らかに周囲の人よりも強いような。それが文章にも表れてるんですね。いいとこでもあり、悪いとこでもあるんでしょう。何かに、身も心もどっぷりと入りこむことができない、というのはちょっとさみしかったりするんですけど。日ごろのこんな意識と関係あるのかどうかわかりませんが、僕の見る夢ってその多くが、「何かをしている自分を斜め後ろから見下ろす視点」で映像が展開していきます。友達に話すと、驚かれたりしたんですが。ううむ。 たぶんこの意識って、「自分を知る」ことについての興味から生まれてきてるんでしょう。ここでの「知る」は「識る」と表記したほうがいいな。自分が他者からどのように見られるかを認識した上で、他者と接していくために。あ、でもね、「識ろう」とはしていますけど、「理解し」ちゃいませんし、できないですね、自分についてなんか。「識る」ことと「見極める」ことの違いかな。「自分を見極め」てしまったら、それこそもう老けこんじゃいますからね(だよね?>かまさん)。これから自分がどういう方向に行くのか、っていうのを自分で楽しみにしていたいものね。 2000年07月28日 |
. | 000718 レポートを書いた後なのでかたっくるしい文章になっております。 |
これまで、飲料としてウーロン茶の2リットルペットボトル(168円)を買っていたのですが、これを1週間で2、3本消費するとしてその額はけっこうバカになりません。年間で算出すると2万円弱。近頃の金欠状態と照らし合わせてみるにどうにも不経済です。そこで、実家でやってたようにティーバックで麦茶を作ってみよう、と思い立ったのです。んで、スーパーで探してみると55パックで300円でした。予想外の安さに驚愕。1パックから約2リットルの麦茶が製造されるわけですから、2リットル当たりに換算すると約5.5円ということになります。なんてこった、市販ウーロン茶の30分の1以下ではないですか(このへん、計算したがる性質はやはり理系気質なのかもしれん。いや、大げさか)。のどを潤おすためだけのものですから、味なんかは関係ないのです。いやあ、最初からこうしてりゃよかった。一人暮し4年目にしてようやく気がつきました。毎度のことながら生活感あふれる書き出しですね。あ、ちなみにお茶とともに牛乳も3日に1本くらい消費しますがこちらは何かで代替、というわけにはいかなそうですね。昔から牛乳はよく飲んでましたがその割に背ぇ伸びんかったぞ、ふん。 さて、HP上に日記を書き始めて1年が経ちました。この間に書いた文章は(1行ネタも含めて)56本。おおなんだ、1週間に一回は書いてんじゃん。え?この時点ですでに「日記」の体をなしてない?うっうっうっ、ぼく、文章書くの遅いんですよ・・・。 その「遅い」ことの理由の一つと言っちゃなんですが、ぼくは文章を書くときに(リラックスして書けるはずの「日記」においても)、思いをストレートにぶつけることができなくて、あれこれとこねくり回したのちにしか表に出すことができません。その結果、さらりと読める文章に仕上がっているとは思うのですが、その分突き抜けた勢いを欠いてしまっていると思います。ぼく自身は、書き手の体温が痛いくらいにビシビシ感じられる文章のほうが好みであるのですが。ネットをさまよっていると、ときどきそういう文章の書き手に出会うのですよね。文字ですべてを表現する世界ですから。チャットや掲示板上での短い発言に迫力とセンスを感じる、そんな人に出会うのが楽しみだったりするのです。 先日呑みの席(にやり)で、「『知らない人』の日記で『面白い』ものは少ない」という話題になりました。ここで言う『知らない人』というのは、『まったく面識がない人』という意味であり、『面白い』というのは『「読み物」として鑑賞にたえる』という意味ですが、書き手の人格を離れて最初から読み手をグイグイと引きつけて存在感を主張できる日記は稀です。「日記」ですから当然書き手の身辺雑記であったりその日その日の思いが主となるわけで、個人的付き合いがあったり背景知識があったりしたほうが読んでいて楽しいでしょう。やはり、知っている人の書く文章だから面白いのだ、という部分は否定できないと思います。 ぼくは、「日記」のそんな特性にちょっと反発して、特定の人に読まれるばかりでなく、ある程度の不偏性をもつ文章が書きたいな、と思ったことがありました。日記に対する反応がメール等でかえってきて、「読まれること」を少し意識しだしたのですね。でもね、すぐに考えを改めました。文章を間に挟んで、書き手と読み手が対峙したときに、その文章の受け入れ口の大小は関係ないかな、と。読んでくれている人たちの顔がはっきり見え、その人たちに宛てて文章を書くというのは楽しいな、と。そこは素人の気軽さ、あんまり肩肘張らずに書いてみることにしました。それでもよその日記との差異、自分のHPだけの特性を出していきたい、という意図で、毎度なんだか日記ともつかない文章になるのですが。そもそもWeb上で多くの人が日記を公開し、自由にそれを覗き見ることができる現在、「日記」というものの意味も変わってきたかもしれませんね。少なくとも、不特定多数の人の眼前にさらすものでは、なかったはずです。 とりあえず今のぼくは、ぼくの文章を読んでくれているだれかと、そして自分自身に話しかけるつもりで、文章を書いています(このへん、2月17日の時点とは少し意識が変わってきたかもしれません)。それをWeb上で公開しているというのは、ちょっと質が違って、自分を知ってもらい、理解してもらい、悦びを得るための第二義的な行為ですね。 ◆ Web上の日記と言えば、ここ。プロの手になると、日記も、こうなります。 2000年07月18日 |
. | 000710 で、今日は納豆の日なんですって。 |
服を買いに行きました。服を買うのって久しぶりだよなあ、いつ以来かなあ?と思い返してみるに、9ヶ月ぶりでありました。そういや去年の秋口に長袖のシャツをいくつか買ったのだったな。学生やってると遊びと食に金が回りますから、衣は後回しになるのですね。ヘタすると食も後回しになりますが。それでもやっぱり服を買うとなるとなんかわくわくしますよね。それもバーゲンだったので40%オフ。しかも誕生日月だということでさらに5%オフ。うはははは〜、っと、調子に乗ってバッグまで買ってしまいました。衝動極まれり。 さてまあ服を買ったはいいのですが、実はですね、出掛けに鏡を割ってしまったのですよ。部屋に1枚しかなかった鏡を。なんかちょっと前にもなにか割ったような気がしますが。たぶん、今月の星占いには、このように書かれていたことでしょう。 「かに座のあなた;ガラスに注意」 ごほっごほっ、・・・・・それはさておき。鏡なんて1日に5分と見ないとはいえ、やはりないと不便だよね、と思い(なにしろヒゲが剃れん)、ディスカウントストアに立ち寄り、購入しました。2枚ね。これで1枚割っても安心。 帰り道にあった居酒屋のディスプレイに並んでいた納豆オムレツに感化され、夕飯のおかずはその納豆オムレツでいくことに決定。単純です。納豆1パック(4パック100円)、玉子2個(10個100円)で作れますから、45円で済むことになります。すばらしきかな、納豆。上出来だったのでごきげん。ところで納豆カレーってうまいのか? 今月は「ちひろと世界の絵本画家たち」展や「レンブラント、フェルメールとその時代」展と、なかなかに魅力的な展覧会が近場であるのです。行かいでか。 一足の靴でこんなに幸福を感じてしまうぼくは、少々特殊なのだろうか。 〜原田 宗典「靴を買う」(『幸福らしきもの』) そういや僕も、靴は2足しか持ってませんし(革靴とスニーカ)、腕時計となると持ってなかったりするのですよね(今日は日記調で攻めてみました)。 2000年07月10日 |
. | 000705 あしたはサラダ記念日です。 |
ポケモンですか?言えますよ、151匹。だって大学1年の冬から2年にかけて、ポケモンに興じてましたもん、ええ。でもね、新しいバージョンに登場する新ポケモンたちはまだ憶えきれてないの。え?151匹を空で言える23歳はそういないって?(>もろやん)。いえいえ、僕の周りには、けっこういますよ。悪ノリでポケモンに手を染めた連中が。昨夏はみんなで映画見に行きました。公開初日に。はい、あほです。そして僕は、ピカチュウ描くの、得意です。たぶんドラえもんよか、上手に、かわいく、描けます。ダメですか? と、いうわけで、17歳(16進法で)になりました。17歳(16進法で)。ああ17歳(16進法で)、17歳(もうええ)。
年をとるってことが怖かったりしました。 これから先にはまだまだいろんなことが待ち構えているんでしょう。 時間の流れはいつもいっしょだけど、
「誕生日」の前にはお正月もクリスマスもほかのどんな記念日もかすみます。 それは「個人」にとって唯一の、意味ある日といえるものだから。 メッセージ下さったみなさん、ありがとう。幸せです。 2000年07月05日 |
. | 000704 あ、独立記念日だ。 |
「絵を志して挫折した智恵子が、ね、高村光太郎と結婚して、毎日、彼の天才を見せつけられなかったら、 〜北村 薫『ターン』 新潮文庫の新刊、北村薫『ターン』読了。本に夢中になってて朝を迎えるのって、幸せですね。その日一日中ぼんやりしてますけどね。久しぶりに小説に没頭しました。 北村薫の小説からは、音が聞こえ、色が感じられます。情景描写が微細に丁寧で、美しいのですね。その優しい筆致は僕自身が憧れるところです。登場人物の心の温度もまた、感じられます。それはほんわかと温かかったり、鳥肌が立つくらいに冷たかったり。 この『ターン』を含む3部作は、《時と人》がテーマとなっています。絶対に抗うことができない「時」というものにいたずらをされたとき、「人」はどのように振る舞うのか?ベースにSF的要素が横たわっていますが、その上にはまぎれもない北村薫の物語が展開されています。前作『スキップ』が文庫化されたのが、去年の初夏。北村薫という作家を知り、その作品世界に浸ることとなるきっかけを与えてくれた作品でした。僕の周りでは時は律儀にめぐり、ちょうど1年後に『ターン』に出会う、これこそまさに「ターン」でしょうか(ちょっとカッチョイイ言い回しをしてみたいお年頃)。 「時」に置いてけぼりをくらった主人公。そんな舞台設定のなかで彼女は「時」に寄り添うのか、打ち克つのか、負けるのか。「時」に翻弄されて葛藤する彼女の心理を追ってページを捲っていきました。読後その「時」のイメージに包まれるなかで、ちょっと思い出したことがありました。 少し前に、「もしも人生をある時点からやりなおせるのなら」という話題がとある掲示板で話題になっておりました。この問いの裏には、「幸せだったときに戻りたい」あるいは「選択を間違ってしまったのでやりなおしたい」という2種類の、「けっしてかなうものではないけれども、それはわかっているけれども、想わずにいられない願望」というのがありますよね。ふむ、たしかにね、「あのころは幸せだった」「楽しかった」「戻れたらな」と思うことはあります。ひょっとしたらその幸せが持続する選択というのが存在したのかも知れません。立ち戻ってもう一度選択権を与えられたとして別の選択肢を選んでいたであろう地点も、あります。そういう分岐点がいくつかあったとして、僕はたぶん最善の選択はしてきませんでした。進路にしたって、恋愛にしたって、そうです(今の僕が語ることができるのはせいぜいこの2点である、ということです)。でもですね。「最善ではない」=「間違い」では、けっして、ないですよね。大切なのは、「そのときどきで最善の選択をしようと努めること」にあるのでしょう。たとえ客観的に見て、または後で思い返してみて、「最善ではない」選択であったとしても、そのときどきの「今」において悩み苦しんで出した結論ならばそれは、「間違い」ではない。「最善ではな」くても、「正しい」のです。たかだか「最善じゃない」ことで今の自分を嫌いになって、嘆いていたんじゃ、悲しいからね。 これまでに幾度もの楽しいことと、その裏返しの苦しいことを経てきたから、考えるところが深くなったり、語れる言葉が生まれたりしたのですよね。掲示板上でのある人の言葉、「もし戻ってしまって、そこからうまくやってしまったら、今現在ある、私にとってとても大切な人間関係がまったく発生しないことになってしまうので、そう考えたら今まで進んできた道は決して間違っていなかったように思います」というのを読んで、こんなこと考えたりしたんですが。 そして僕は、今の自分が、今の自分の身の回りにいる人々が、かなり好きです。 時の流れと空の色になにも望みはしないように 〜椎名 林檎「幸福論」 「でも、空はいいよね。誰がどう思うだろうとか考えるわけじゃない。 〜北村 薫『ターン』 This essay is inspired by masapan,oki,hoppo,kanako & pooh. 2000年07月04日 |