■ 2000年5月,6月

. 000628 MOドライブが遠のきました。

 6月24日のだらはオフレポートなのです。内輪ネタなのでウラで公開しております。読んでみたかったらRanaまで。こっそりアドレスお教えします。でもほとんど内輪で成り立ってるHPなので意味がないような。

2000年06月28日


. 000618 らも噺。

 予想に反してめったやたらと晴れあがったので、布団を干しました。休日とお天気の日が重ならないと、安心して布団も干せませんな。外出中に雨にやられて夜帰ってきたらビッショビショ、なんてなことになったら悲劇ですからね(経験あるらしい)。・・・あれ?んじゃ、布団干したのっていつ以来なんだろう?・・・ま、まあ、いっか。今日、干したし(汗)。

 そう、天気が良かったので、お散歩してきました(またかよ)。渋谷へね(「お散歩」というイメージではないな)。ああシブヤ、なんて場違いなんでしょう。東京に来て4年目になりますが、数えるほどしか来たことがありません。そして来るたびに人の多さと人種の多様さに辟易して、「・・・おうち帰りたい」と思います。しかしみんな元気だねえ、ハジけてるねえ、輝いてるねえ(これでいいのか22歳)。

 で、毎度のことなんですが、道に迷いました。普段方向音痴ではないことを吹聴しているのに、渋谷だけはなぜか迷っちゃいます。道幅が狭く、その両脇に細長いビルが林立しているからなのでしょうか(と、もっともらしい理由)。いやはや、ラブホテル多いよね(どこ歩いてるんだ)。

 そんなこんなで歩き回っているとじわりと汗ばみ。むう、やはりジーンズでなく短パンで来ればよかったか。でもおれがTシャツ、短パン、サンダルといういでたちになると、まるっきり虫取り少年、もしくは裸の大将(まさぱん命名)だからなあ。ますます場にそぐわなくなるだろうな。あ、いやむしろこの雑多さには逆に調和するのかも。

 雑踏と熱気に参ったので本屋へ避難。本屋っていうのはどこでも共通の雰囲気があって落ちつきますね。隔絶された空間。ふうっ、と一息ついたところで気づいたのですが、レジ脇にちょっとした行列が。なにかななにかな?と確認してみると、ぬはっ、「中島らもサイン会」ではありませんか。そういえば新刊出版記念のサイン会があるという情報はどっかから聞いてはいたが、まさか今日、ここでだったとは。らも氏といえば高校生時分にかなり入れ込んだ作家の一人。一言で片付けてしまうのは危険で安直なのですが、「天才」だと思います。アッチ側とコッチ側の世界を往来できる人です。んで、そのボーダーラインを作品世界に反映させる、と。その自分の才覚をもてあそんでいる感じがまた素敵。

 あ、こりゃ思いもよらぬ好機だ、と、新刊『BAND OF THE NIGHT』を購入し、整理券を入手。どうにもミーハーですが、東京に来てからこっち、好きな作家さんに会える機会には積極的に足を運んでいます。作家本人に会うことに何かしらの意味があるの?との疑問は当然あるでしょうけど。確かに作品ですべてを語るのが作家というものでしょうからね。でもまあ意味がなくったっていいじゃないですか。僕は、うれしいんですから。お話を聞いたり、握手したりするだけでね。あと、この本を買おうと思った理由のもう一つが、装丁にあります。これですけど。ううん、帯付きの方がもっといいんですが。装丁のいい本というのは、それだけで買う気をそそられますな。

 さて、間もなくサイン会開始、・・・なのですが、・・・うっ、なんだ、この雰囲気。今まで訪れたサイン会が作家さんとファンの交流会という趣で終始和やかなムードだったのに対し、今日のこのサイン会、やたらと空気が張り詰めています。その空気の出どころは、ほかでもなく中島らも本人。なにしろ氏、一言も発さないんですから。そしてよおっく見ると、ペンを持つ手が小刻みに震えています。「むっ、この人、マジもんでアル中やったんか」と思ったのは、僕だけではありますまい(なんか変な文体)。並ぶファンの間からも、「なぁ、手、震えとるよなあ」というささやき声が。サインをもらいに前に立つのが空恐ろしくなるような、そんな緊張感ある一風変わったサイン会。

 んで、僕の番が巡ってきたわけですな。間近で見た印象:「コエェ」。やはり終始無言で、淡々と作業をこなしていきます。その所作がいちいちスローモーで、残像が見えるかのよう。そして視線が定まらず中空をふらふらしています。色で表現すれば、「青黒い」。今まで数名の作家さんと一言二言言葉を交わすことはできましたが、今日ばかりは僕も言葉を飲み込みました。だって、コエェですもん。最後に握手を交わすとき、こちらに目をやってくれたのですが、その眼光の鋭さにビビりました。いやあれ、ほんとにビーム出てるぞ。ひるんではならぬとこちらも意識してにらみ返しました(なんだそりゃ)。・・・見つめあう1.5秒間。手もやたらと冷たくって、こちらの体温奪われましたし。ううむ、まさに異界の住人。すげぇお人やった・・・。

 帰路、別の意味での異界の住人であるコギャルさんたちを横目に、ちょいとばかり意気高揚。ふむ、今日のお散歩、思わぬ付録がありましたね。

 よっしゃ、めずらしく日記らしくなったぞ、へいへいへい。

2000年06月18日


. 000617 おれはモーニング娘。マニアじゃないってば(と、いう主張)。

 しばらく暑い日が続いていたので、長袖の服は全部洗濯して箪笥にしまっていたのですよ。それがなんですかあなた、梅雨に入ったとたんに気温はガクンと下がり、半袖じゃどうにも耐えられないじゃありませんか。また長袖引っ張り出して、一通り着てしまいましたよ、ええ。ああ二度手間。

 えとですね、今日は研究室をお休みして、家で日がな一日文章書いたり本読んだりしております。はい、この状態のことを世間的には「ズル休み」と言いますね。ズル休みって久しぶりです。幼稚園から小中高と、ズル休みの常連さんでしたからね、僕。それが大学入ったとたんにやたらと真面目に授業に出席するようになりました。普通逆なんですけど。多分すべての期間を通じて出席率がいちばん高いことでありましょう。自由度の高さが逆に作用したような気がします。この背徳の意識が懐かしい。最近気ぃ張り詰めて実験・勉強してきたからね、こういう日もあっていいです。ビバ・ズル休み。外は雨がそぼ降っていて、アンニュイな雰囲気を演出しています。あ、「アンニュイ」って、いい響きですね。もう一度言ってみましょう。「あんにゅい」。ひらがなで表記するとダルダル感が増幅されます。ところで、どういう意味ですか?

 そういえばここ3ヶ月くらい、まともに本読んでなかったのですね。それは時間がなかったからではなく、余裕がなかったから。時間なんていかようにでも作れたはずなのにな。少し、悲しい。確かにやるべきことが多かったり考えるところが多かったりしたけれど。「本を読む時間を作る余裕」くらいは持ち、保てるようにしよう。

 うん、最近友達から「忙しそうだな」と言われることが多く、それには苦笑いを返すほかないのですが、実際にはそうでもないんですよ。時間の使い方が下手で、いつもせっぱ詰まってから動き始めて、余裕を失っている姿を見られているから、そういう印象を抱かれてしまうんだろうな。ずっと「遊びの誘いは極力断らない」というのを実践してきて(原田さんのエッセイの影響ですが)、テストの前でもバイトの前でもレポートの提出日前日でもそしてお金がなくても、呑みなり麻雀なり、誘われたらほいほい乗ってきました。この姿勢でいたおかげで得られたものは計り知れません。それが今、やむを得ず断らなくちゃならないことが重なるのがすごく辛く、寂しいんです。だからね、「あいつは忙しそうだから」なんて思わないで、懲りずにまた誘ってください。お願いします(誰に言ってんだか)。

明日は月曜日
会社をズル休みして
すいたコーヒーショップで
おなかいっぱい食べよう
煙草をとり出して
ぼんやりしてるうちに
ウエイトレスがカップと
気持ちまで全部かたづけてゆく
忙しさになんか
負けない恋だと思ってた
あのとき雑誌についてた
占いなんて嘘だと思っていた

恋人が今いなくてもいるとどうか嘘をついて
僕も幸せで良かったねとうまく嘘をつくから

〜槇原敬之「ズル休み」

 「忙しい」という言葉をできるだけ吐かないようにしています。だれだってそれぞれの世界で忙しいんです。比較できることではない。「忙しいから」はなんの理由にもなり得ない。それを一人だけ外に吐き出し、周囲にアピールするのは甘えですから。「辛い」「苦しい」もおんなじですね。でもまあたまには、許してくださいね。相手と場所は、選んでますから。

2000年06月17日


. 000611 水戸黄門、してますか?

なんでこんなに苦しいんだろう?という日もあれば、
なんでこんなに幸せなんだろう?という日もある。
それは自分の予測を超えて。
思惑通りには運べないこと。
だから苦しみに自分を見失い、
幸せは両手にあふれて戸惑う。
それはどうしようもないこと。
だから至上の価値があること。

だったら。
だからさ。

今の苦しみに嘆くよりは、
幸せをくれた日々に感謝。
幸せであることを願って、
自分も負けないと励ます。
あえて能天気に、
あえておろかに。
そうでもしないと先に進まない。
明日はきっと、今日より楽しい。

2000年06月11日


. 000610 5・10日(ごとおび)はセールなのだ♪と喜び勇んでスーパーへ行く午後6時。

すきなものを全面的にすきだといえたら、それは「すき」なんかじゃない。ただのあこがれ。

 これは、とある人からのメールの一節。自分の道に疑念を感じていた時期のこの言葉、響きました。うん、そうなんです。すきなものを前にしてただ「すき」、それは思考の停止ですよね。疑念を感じても、いいんですよね。生物学ってやつの入り口に立ってみて、ちょいと不安になっていたのです。好きなことではあるけれど、これ一本に絞れるほどの覚悟は今のところ、ない。むしろこれでいいのかな、という疑念がよぎってばかり。無心に道を追求できたら幸せなのに。だけど、これが正しいのかもしれません。疑念を抱きながら進んでいくほうが、僕にとってはいいのかもしれません。

 例えば。

 僕が所属する研究室でやってること、やろうとしていることは、まぎれもなく「動物実験」であり「遺伝子組み替え」です。当然責任ある態度で実験には臨んでいるわけですが、これらの単語が外部の人に届くとき、それは嫌悪感や拒絶感を伴うものであるでしょう。その感覚が、今の僕にはわかるんです。同時にそれが誤解や曲解に拠る部分が大きいものであることも、わかるんです。今のこの感覚を、大切にしたいんです。一歩ひいたこの視線。内部に埋没してしまっては失われてしまいそうだから。

 さて「思考の停止」についてもう一席。

 サークルのホームページを作っていることもあり、よく、「HPの作り方教えてくれ」と言われます。いやちょっと待ってよ、と思います。それは安易じゃないかい?と。たしかにね、先人に尋ねることで大幅に時間を短縮して、ある到達点までたどり着くことはできます。でもそうする以前に、自分でできる限りのことはやったのだ、その上でどうしてもわかんないから教えてくれ、とする姿勢を見せて欲しいのです。最初っから人に頼ろうとする態度は好みではありません。

 僕もHPを作ったり、パソコンを使ったりするにあたって、いろんな人に頼り頼りやってきています。だけど人に聞くのは最終手段です。とりあえずは自分で探し、調べ、何度か失敗してみたりします。だって悔しいから。なんにもしないうちに思考を停止させて、自分にはムリと開き直ってただ指示のままに動いていては、焦燥感失望感達成感その他さまざまな感情を味わう大事な、そして面白い機会をみすみす逃してしまうと思うのです。

 takkaさんのHP『takka's electrosphere』の6月6日の日記の言葉を借りますが、「してもらう」ことはとても危険です。自分の言葉で考え、怒り、非難し、感動し、整理していきたいと思います。思考の停止に陥ったら、「取り返しのつかないことに」なってしまうから。

 ふ。「いつもは更新されない」なんてぷーさんに言われちまったから怒涛の更新(といっても4日ぶり)。

 でもね、その人すべてを許し肯定し受け入れ、同時にその人すべてに頼り身を委ねる、なんにも考えなくてもいい、そういう存在をどうしようもなく求める、そんなときもまた、あったりするのですよね(言ってて恥ずかしい)。

This essay is inspired by takka & YAMA.

2000年06月10日


. 000606 コタツをしまってからわずか3週間のインターバルでクーラー及び扇風機始動。

 ところで(しょっぱなから話題転換)僕は、A型で、妹がいるということを、かなり高い確率でズバリと言い当てられます。いや、百発百中です。「おれってそんなにステレオタイプ(いちど使ってみたかった単語)なんかな?」なんて思いますが自覚もしているのでそれはまあいいとしましょう。ええ、どうせ無駄に几帳面やたらと少女漫画に詳しかったりしますよ、ふんっ。

 さてさて、五月病とやらにかかっておりました。回復した(と思われる)今、振り返ってみるに、「ああ、あれは五月病とかいうものだったのかもね」と思う期間が、一週間ほどあったのです。この自分がそんな流行り病(?)に罹るだなんて想像だにしておりませんでした。新しい環境でスタートを切ったときに意気込みすぎて、ヘバちゃって陥るのが五月病というものでしょう?。こんな、のらりくらりとのんきに生きてて、やる気のかけらもないようなヤツがなるなんて。いや、申しわけない。

 その期間に僕は、ひたすらに「学校をやめる」ことを考えておりました。そしてこんな気持ちになってる理由を一生懸命考えておりました。「生物学に対する興味がなくなったから」「ほかに勉強したいことがあるから」「就職したいから」。そんな、なんとなくもっともらしい理由を持ち出して、「学校をやめる」ことを飾りつけようとしていました。ただ単に、「しんどいから」「疲れたから」それだけなのにね。格好をつけようとしていました。今こうして冷静に分析できるのが不思議ですが。

 何かを追求しようとしたときに、ある程度犠牲にしなくちゃいけないもの、捨てていかなくてはいけないものっていうのは確実に出てきます。そんな中で折り合いをつけて、妥協点を見つけていかなければ前に進みません。けれど僕はそれらすべてにしがみつき、 そのどれもに手を出して、一意に邁進することができないでいます。5月16日の[Diary]にしても、こんなネガティブな思考を停止させるために、自分を鼓舞するために、ポジティブな文章を書こうとしていたんだね、と、今読み返してみて思います。

 そして今。こんな不安定な状態に完全に決着がついたわけではないけれど、もうちょい今の場所でもがいてみよう、そう思っています。道を見極めるのは後回しにして、今、できることをこなしていきましょう。やり直しも方向転換も意思と努力次第でいつだって可能。あんまりあせらずに、じっくりのんびりやっていきましょう。これまでもそうやってきたんだから。時間は、多分、もう少し、あります。

 しかしこの半年っていうのは、人生において最ももの悩む半年であります。悩みなれていない僕は、かなりあたふたしてしまいました。でもこうして書くことで、その都度思考が整理されて、視野が広くなって、結果ドン詰まりに陥ることはかろうじて回避されています。僕はまず、自分に宛てて、文章を書いていたんですね。

2000年06月06日


. 000516 日ごろは悩むことを知らない性格してるんですけどね。

 近所のスーパーでセールが行われていて、卵1パック100円、冷凍食品全品4割引だったので、非常に幸せだったのですよ。こうしたことに喜びを覚える男子大学生っていかがなものでしょうか。とりあえずの栄養源を確保したので安心です。昔から時々考えるんですが、主夫になれたら幸せかもなあ、と。そしてその適性もあるよなあ、と。基本的にめんどくさがりぃな性格しているのですが、炊事洗濯掃除に関してはかなりマメにこなします。誰か、おれを、もろてくれ。

 さて、そんな僕も大学院に進学できる模様(脈絡なさ全開)。推薦をいただきまして、来年度は「理工学研究科物理学及応用物理学専攻生物物理学部門」というところに所属することになります。生物やってんだか物理やってんだかわかんないですな、こりゃあ。いやむしろ、物理が-で勝利をおさめていますね。「生命理工学専攻」と改称されるかもしれないんですが。なんとなくカッコよさげだからこっちのほうがいいかも。

 この、推薦による進学を決意するまでには、少しの葛藤がありました。大学院進学というのは随分と昔から「おれは院に行くのじゃ」と周囲に公言してきて、自身そのつもりでやってきたのですが、いざその場まで歩いてきたときに、いろんな道があるよ、と周りから示されたわけです。就職活動を始めた友人たちから。ネットで知り合った人々から。今まで一つの方向しか見てこなかったために、少しばかり視界が広がったことで急に不安に襲われてしまったのですね。社会に出たほうがいいかな?自立しなきゃいけないよな?と。ですから就職活動も試みましたし、その中でへこたれたりもしました。そして思ったんです。まだ、売り物にならないよな、って。

 これから先、生物学の方面でなにかしらやっていきたいな、と考えると、大学の4年間だけでは身につけられるものが少なすぎるんです。かといって過去3年間にそれだけの気概を持ってやってきたか?と問われるとうつむくほかはないんですが。それでもやはり、もう少し時間が欲しい。この方向を両親も奨励してくれたので、なんとか踏み出す決意ができました。

 で、現況。研究室っていうのはある程度覚悟はしてましたがそれ以上にしんどいものがあります。要求されることが現在の能力では支えきれないことばかりで気を抜いたら倒れてしまいそうに。でも日々の成長は実感できてうれしかったりもします。しばらくぶりの感覚。そして、思うんです。がんばんなきゃいけないことと目指すことが一つにつながってる現状は幸せなんだよな、と。それを許してくれる環境に感謝しなければいけないよな、と。これを思い出すことでなんとかくじけずにやっていけそうなんですが。

季節に
おいてけぼりをくらう感覚って
ないですか?
服の準備ができてないよと思うのとおんなじように
心の準備ができてないよと

季節は
一定の速度で推移し
いまの僕はそれに追いつけない
コートを着ていたころの思い出にすがり
半そでを着ることにためらいを覚える

季節は
僕を追い越していく
僕はあれから成長していないのに
とどまっていることは許されないのですね
僕も変わらなければならないのですね

季節の
かわりめに

2000年05月16日


. 000510 原田宗典小論。

 先日深夜、例のごとく学校でパソコンに向かっていたわけですな。と、そこに、友人から電話。「麻雀やってたら電車なくなっちゃった」とな。ふむふむなるほど、日本語に直せば「だからおまえんち泊まらせろよ、この野郎」ということですね。で、2名さまが突如、我が家に収容ということになりました。うち学校から近いからね、毎度のことなんですけど。こうして転がり込まれるのって、迷惑ならずうれしかったりするもんです。

 そこで当然(なのか?)、呑みに入ります。ツマミは肉です、肉。カルビ、ホルモン、レバー、砂ギモと、大量に買い込み、片っ端から焼いていきました。レタスなんかも用意して、巻いちゃったりというこしゃくな食べ方もしてみたりして。・・・ちょっと待て、今、深夜2時だぞ。

 酒が程よく入ったところで、語りに突入です。大だらはが終わって間がなかったこともあって、僕はその模様を興奮気味に話しました。「原田宗典来たんだぜ〜」「あ、これ、いっしょに撮った写真ね」「生原稿もらったんだぞ、ほれほれ、あそこに飾ってあるの」とね。・・・でもね、なんか、反応薄かったの(涙)。ファンじゃない人、知らない人にとってみれば、そういうものなのかねえ、と、ちょっと肩透かしをくらったところに、こう聞かれました。「原田宗典の作品って、どういう感じ?どこが好き?」

 ・・・僕はそこで、はた、と答に窮したんです。ううん、好きは好き、大好きなんだけど、どう表現したもんかなあ?と。言ってみれば「なんとなく」なんだけど、それじゃ答えにならないし。僕は何かに対して、感覚的に好悪の判断を下したあと、あんまり深く考えないんですね。「なんとなく好き」「なんとなく嫌い」のレベルに留まっているわけです。だからそこで「どうして好き?」「どうして嫌い?」と聞かれたときの説明はめっぽう苦手です。自分の好きなものについて、「どこが好き」「どこが面白い」ということを語る言葉を持たないのはさみしいものです。

 だから、試みてみます。悔しいから。作家・原田宗典を、僕がどうして好きなのかの説明を、してみたいと思います。なんて無謀な。

 ・・・「もどかしさ」がある、と言った友人がいました。原田作品を読んだ印象として。「答えの出ない問題を前にもがいている」と。これを聞いたとき、「あ、うまいこと言いやがったな、ちくしょう」と思ったんですね。そう、「もがいている」んです。エッセイにおける原田さん自身も、小説における主人公も。そして僕は、その「もどかしさ」が好きなのだな、と気がつきました。

 誰だって、自分の弱点をさらけ出すのには抵抗があります。そんな中、弱さ、コンプレックスをセンスよく笑いに転化できる人にまれに出会うことがあります。かなわねえな、と思うんですね。自分が、そうありたいと思いながらもできないことだから。原田さんのエッセイこそがまさしく、その転化が高い次元で成功しているのですね。弱点をはじけさせたとき、突き抜けたとき、それは笑えるエッセイになります。

 ここでその転化の方向を変えてみると、小説としての結実をみることになります。原田さんの小説の主人公は(初期の自伝的小説においては特に)、みんな、もがいています。行き止まりで。一直線に。「他のことに目を向ければいいのに」と声をかけたくもなったりするでしょう。でもね、それがわかっちゃいるのに、ままならず、もがき続けてしまうのが人間でしょう。限りなくバカなんだから。そこが素敵なんだから。

 さらに転化が完全に自己から離れ、エンタテイメントとしての小説の追求に向かったとき、『スメル男』、『平成トム・ソーヤー』に代表される純粋な娯楽小説が完成します。ですがこれらにおいてもやはり悩む人間は描かれていますね。原田作品が共感を得られやすい理由の一つは、ここでしょう。「これは私」「私もそう」。だれだって悩むんですから。逆にいえば原田作品に反発を覚えるとすれば、その部分もまた、ここなのだと思います。「もどかしさ」に我慢できなくなってしまって。自分を見ているようで。

 エッセイ、小説、いずれにおいても根底にあるのはそんな人間の弱さを大きなふところをもって見つめている作者、原田さんのあたたかな視線です。原田さん自身が自分の弱さを自覚し、冷静な目でそれをとらえているから、周りの人に対して徹底的に優しくなれる(作品にする段階においての自己犠牲はおおいにあるのでしょう。こういう姿勢で常にいることはツライし、疲れる。鬱にもなる。・・・勝手な見解ですけど)。読者はその優しさを全作品から感じとることができる。原田宗典が、作品とともに作家自身ひっくるめて読者に愛される稀有な存在である理由はここにあるのではないでしょうか。そして僕が原田宗典を好きな理由は、まさにそこです。

 ・・・僕が原田宗典に出会ったのはかれこれ7年前、高校1年のときです。そのときはそれこそ、ただ単に読み、笑い、感動していました。そしてそこで止まっていました。もちろんそれでもいいんです。ですけど、時を経て今こうして、少しだけ語る言葉が出てきた、それはやはりちょっとうれしいです。

 もっとも僕は、なにごとに対しても、好きなものは好き、説明は不要、というのが基本スタンスです。説明ができないからこその開き直りなんですけどね。

This article is inspired by K.M, K.I & moroyan.

2000年05月10日



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