■ 2000年9月,10月
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001024 季節の軌跡は奇跡の儀式。 Seasons come round in a ceremonial manner. |
今年もひとつ季節が巡って 幾度巡り巡りゆく 〜浜崎 あゆみ「SEASONS」 季節には重さがあります。 季節には色があります。 歌に思い出が重なるのと同じように。 しばし心を騒がせて、 2000年10月24日 |
. | 001023 異色。 |
「生きていることと、死んでいることとは、もしかしたら同じことかもしれへん。そんな大きな不思議なものをモーツァルトの優しい音楽が表現してるような気がしましたの」 〜宮本 輝『錦繍』 死をイメージします。普段死をそばにあるものとして考えないから。日常の生の中にのんびりと漂っているから。たまには立ち止まってみます。自分が死に瀕したことはないけれども。身近な体験に照らして、「死ぬということ」を考えます。昔からときどき、「死にたい」と思うことがあります。幸せなときや苦しいときではなく、なんでもないときに、ふと。具体的にではなく、漠然と。「めんどくさいから、消えたい」と同義の、浅いレベルのイメージ。でもすぐに翻します。どんどんと深く突き詰めていって、「死ぬということ」がどういうことかをイメージしていくと、「死んでなんかいられないじゃん」といったところに戻ります。まだなにも成していない。だれにも追いついていない。死を前倒しするのは、愚考。望まずして生を奪われた人のぶんまで生きること。義務。ここに終着して、落ちつきます。思考の遊び、ですね。やっかいなヤツだ(自分のことだ)。 「ああ、私はあの世がないと申し上げている訳ではありません。死後の世界は生きている者にしかないと云っているのです」 〜京極 夏彦『狂骨の夢』 生きているから、死について考えることができます。生きているということは,死んだことがないということ(あたりまえ)。だから想像するしか術はありません。想像して、どういうことかを知ります。生が限りあるものだということに気づきます。死を哀しみ、悼み、禁忌することができます。そして発展します。じゃあ生あるうちにするべきことは何か。生の価値。リミットがあるから、生が光る。死を身近に考えるだけの想像力がないと、生を粗末にしてしまいます。死がどこまでも遠いものだとしか考えられないから、生を浪費してしまいます。わかりきったこと。わかりきっているから、忘れてしまいそうになること。忘れちゃいけないこと。日常こんなことを考えながらやってったら疲れてしまいます。でもときどきは考えないと、追い詰めないと、どこまでもだらだらと生きてしまいそうな気がします。弱いからね。 死は生の対極に存在するのではなく、その一部として存在する。 〜村上 春樹『ノルウェイの森』 まとめる意図なしに生と死に関して思う言葉を吐き出したらわけがわからなくなったことは内緒。 2000年10月23日 |
. | 001022 気分は「Sports Graphic Number」 |
みなさまご存知のとおり、ここはプロ野球ファンサイトであります。西武ライオンズファンサイトであります。みなさまがどう思われようとも、作者の心意気はここにあります。ジオシティーズで市民登録する際も、まよわず「アスリート」というスポーツ関連コミュニティを選択しましたし(URLにあるとおり)。しかし、現状、かなり(どころじゃなく)かけ離れております。なんてこった。いつのまにか雑文天国。HP開設当初にあった[Baseball]コーナーは潰しちゃってもはや再開の気配なし(自分次第なのだが)。これはいかんっ、ここは野球バカのひとりとして、面目を保たねばならんっ(誰に対してだ)と一念発起し、今日の日記は野球ネタで攻めます。多少マニアックになるかもしれませんが、突っ走ります、どこまでも。 日本シリーズが開幕しました。ジャイアンツVSホークス。日本のプロ野球の最高峰、頂上決戦だというのにまず注目されるは「ON」であるあたり、違和感があります。監督が前面に出てきてどうすんですか。今世紀の野球の始末をつけるという意味では、最後がこの対決であったというのはたしかに劇的ですし、華があります。しかし魅せてくれるべきは、選手なのです。監督は演出家。主役ではない。早いとこ「ON」を脱却しないと、呪縛にとらわれたままに推移しいつか衰退してしまいます。 その昔は平日の試合はデーゲームで行われていた日本シリーズ、学校をサボってテレビ観戦していたものでした(うむ、ここまで堂々と白状すると気持ちがよい)。当時はライオンズが毎年出場していたということもあるのですが、それを差し引いてもシリーズ中の高揚感は、一試合も見逃してなるものか、という強迫観念のようなものにまで達していました。それほど夢中になっていたんですな。ですがここ数年、この日本シリーズの魅力が減退しているような気がします。僕の側の気持ちがやや変わった部分もあるとは思います。以前ほど熱中はしなくなりました。それとは別に、野球自体のレベル、与えてくれる感動の量が低下しているような。日本の最高峰、という迫力緊迫があんまり感じられません。演出家として森、野村、仰木といった一流どころが名を連ね、選手がそれに応えてきた頃のシリーズに心震わせてきた身として、物足りなさを感じます。 と、居酒屋のお父さんのような愚痴を言ってもはじまらないので、もういちど今年のシリーズに目を向けてみます。どうにも巷の評じゃホークスは分が悪いみたい。そりゃあ相手があのジャイアンツ。人気は言わずもがな、実力も力ずくで備えたチームです。パ・リーグびいきの僕としても悔しいところですが、絶対的力の差は認めざるを得ません。 しかし、昨日の試合を見ていて、光明は見えました。シーズン中以上に雑な攻撃を繰り返す(それでも点は入る)ジャイアンツと、その強力打線に抗すために早め早めの継投で耐え、反撃を待つホークス。ライオンズがシーズン終盤にいやというほど見せつけられたホークスのいやらしさが回が進むごとにあらわになり、ついには追いつき、勝ち越しました。
というスコアボードが示すとおり、3回以降しのぎにしのいだホークス。シーズン中ろくにパ・リーグの試合を見てもいない解説者に、「ああ、このピッチャーは〜〜〜が決め球なんですね」などと言われてしまう中継ぎ投手陣がそれぞれの役割をきっちりとやり遂げていった結果です。以降の試合でも大砲の歴々を抑えられるという保証はないのですが、臆せず戦っていくことはできますね。この第一戦をとれたのは大きい。 1番から7番までがホームランを狙えるチーム。 ここまでカラーの違った2チームが、野球観の異なる2チームが、互角に戦えるところが野球の醍醐味。ジャイアンツの体制、戦略、手法を批判できるのはこのチームに勝ったチームのみ。勝者が強者です。「勝てば官軍」を強引に通そうとするジャイアンツに対しホークスには一矢を報いて欲しいのです。じゃないとプロ野球がジャイアンツファンのためだけのものになってしまうからね。 うむ、なんか二宮清純のようだ(大きく出てみた)。 清原がバッターボックスに立っているときに限り、ジャイアンツファンなんですけれども。 2000年10月22日 |
. | 001021私の彼はサウスポー。 |
左利き、なのです。 「だからどうした」と言われてしまえばそれまでですが。左利きって いうのは、「クラス40人いたらひとりふたりいる」くらいのマイノリティ(別にたいした意味じゃないのに使うと格好よろしい単語)さ加減ですかね。今まで身近に接した人の中で自分と同じく左利きの人、っていうのはみんな名前を挙げられる、そういう出会いの頻度。 「左利きは左利きを知る」とでも申しましょうか(なんか大仰だぞ)、僕は人の利き手にけっこう敏感です。 箸、ペンを持った瞬間に、「おおっ、左利きですねっ。いっしょいっしょ」と思わず口の端からこぼれ出てしまうくらい。これって僕だけの感覚ではないと思うのですが、なにぶんサンプル数が少ないので確かめたことはありません。 そんな僕は手から足、目に至るまで、そしてすべての所作において左利きなのですが、ネットサーフィン(死語っぽい)していて出会った左利きの小ネタというHPの左利きマウスカーソル標準化運動というコーナーを読んでいて、「そういえばマウスは右だわね」ということに思い至り ました。主にPCを使う環境が大学であって、そこでは当然マウスは右側に接続されてありますから、設定を変更するのも煩わしいのでそのまんま右手で使用してきたわけですが、「む、そういえばおれは左利きなのだ。だからマウスも左で使うべきなのだっ。なのだっ」と、意味不明に士気を高め、自宅のPCで颯爽と左利き用の設定にして動作させてみました。 するとどうでしょう(なかなかワザとらしい展開だ)、最初のうちこそ慣れずにぎこちなかったものの、数分もするとカーソルが実にスムースに動くようになりました。「おおお、やっぱりおれって左利き。えへっ」と納得しました(最後の「えへっ」に特に意味はありません)。でも、スクロールバーが右側にあったり、先に紹介したページでも述べられているようにカーソルが左上を向いていたりと、やはり不自然さは若干残るので、また元に戻すこととなりましたが。 そう、どうあがいても世間は右利きがスタンダードな標準仕様(「馬から落馬する」的、意味のオーバーラップ)。そんな中で生活する左利きの人々の不便さ、哀愁というのはよく耳にしますね。 自動改札に切符が入れにくい、自動販売機に硬貨が入れにくい、ハサミが使いにくい、などなど。ですが生まれたときからこういう環境にいるわけですから、順応してしまって、常に不便を感じているわけではないです。 僕の場合は、横に並んで食事するときにいちばん気を遣います。左隣に座る人と、箸を持つ手がぶつかってしまうのですな。だから脇をしめて稼動範囲をできるだけ小さくして、「えろうすまんこってす」と、ちょっと卑屈になってみせたりします。これは悔しい。そんな余計な気を回すことのないように、あらかじめ左端に座るように心がけたりしています。ちょっと前に「左利きは早死にする」とかいう説がありましたが、こんなふうに気ぃ遣ってたらそらよろしくないですな。さらにはこだわりもありまして、二人並んで歩くときには(ここんとこ、含みがあるので深読みしましょう) 相手には右隣にいてもらいたいわけです。左手はフリーな状態にしておきたい。これは本能的な感覚なのかな。 親は特に矯正を強制(笑うトコです)しはしなかったのですが、小学校の担任がことあるごとに「右手で箸を持ちなさい、右手でえんぴつを持ちなさい」と言うので、逆に意固地になって左利きまっしぐらでした。「きれいな字が書けないよ」と言われたからきれいな字を書いてやろうじゃないの、と奮起しました(事実クセ字ではありますけれども)。「将来苦労するから」と言われたけれども別に苦労を感じちゃいません(いや、別に担任に恨みがあるわけじゃない)。子供心に、「周りの人とちょこっと違うんだぞ」というのを格好よく感じ、また、誇らしくもあったのです。こうして日記のネタにもなってしまうんだからね。 といって別に左利きは「特異」なことではないのです。先ほど紹介したHPの左利きについての個人的な意見。のコーナーで作者の方が述べられている見解が至極ごもっとも。 2000年10月21日 |
. | 001020 母と妹の誕生日であります。 |
朝夕冷えこむ季節となりました。みなさまいかがお過ごしでしょうか。お身体にはくれぐれもご留意下さいませ。・・・そんなわけで、いまだTシャツ、ビーチサンダルで学校に行っております。季節感のない男。外気にさらされる時間が家から学校までの道程徒歩5分だからできる芸当ですな。 研究室の方で実験やらせてもらっておるのですが、白衣を着ている人っていうのはそんなに多くありません。みんな私服で実験してます。この点、入る以前のイメージと少し違いました。清潔感漂う部屋、そこで白衣の集団が黙々と試験管顕微鏡コンピュータとにらめっこ・・・。そんなかっこいい空間ではなかったですな。こんな中、最近僕はよく白衣を着ています。上記のような格好でいるといいかげん肌寒いからね。単なる防寒着としてしか利用されない白衣も立場がないですが。 でもですな、白衣を着ると気持ちが引き締まるのも事実です。白衣を着て試験管を握ったりなんかしますと、ただつっ立ってるだけでも、「おお、おれって実験がんばってるっぽいような気がする」と錯覚できます。ただ歩いているだけで、「むふ、なんかスケジュールに追われて忙しいみたいだ」と現状を誤認することができます。白衣をぶわさっと羽織ったりぶわさっと脱いだりして、「ふっ、おれってセクシー」と自分の世界に入れます。自意識過剰。誰もお前の所作なぞ見とりゃせん。 僕の研究室があるキャンパスというのは、他に理系の学部がない関係で、学生の大半は文系なのです。そりゃもう9割5分くらい。そもそも教育学部の理学科という、どうにもよくわかんない位置付けですから、存在自体があんまり知られておりません。「ええっ!?教育学部なのに理系なの?」ってなもんです。なんかさみしい。ですからこのキャンパスをですな、白衣姿で闊歩すると、目立ちます。無駄に。実験場所がふたところに分かれている関係で、否応なしに白衣でキャンパスを歩かねばならなくなるのですが、最初のうちはなかなか恥ずかしかったですね。周りの視線が。「ううう、ごめんなさいごめんなさい、こんなアヤシい瓶持ってるけど別にアヤシくないんです。なにもしませんから通して下さい」てなもんです。だけど、慣れてくるとこれが快感に変わります。「うほ、なんか目立ってる、おれ。だって白衣だもん」こんな感じです。集まる視線が白衣ならぬ自分に注がれている、と大いなる勘違いを抱けます。ええ、アホです。「あら、白衣だわ。なんか薄汚いわ。青い液体ついてるし。やあねえ、自信まんまんで歩いてるわ。かっこいいとでも思ってんのかしら」。こんなひそひそ声を耳にしながらも、白衣にビーチサンダルの男は今日もゆく。 今日は実家に電話でもしてみましょうか。 2000年10月20日 |
. | 001019 ゼミ発表が終わったのでるんるん(寒)です。 |
大切だったから、臆病になりました。 実際僕と面識ある人はご存知でしょうが(来てくれている人ほぼ全員ですが)、口数が多い方ではありません。ていうか少ないです。ていうか、ないです(断言してみる)。頭の回転がのんびりのほほんなので、会話についていけやしません。ディスカッションの場なんてお手上げです。ううむ、この人、頭の回転速いなすごいな、などと思っているうちに時間は過ぎていきます。人の考えをすぐ飲みこむわりに、それに対するリアクションが遅く、頭の中でまとまった、と思ったときにはもう議題は別のものになっているという。そもそも「世の中にはいろいろな考えの人間がいる」という真実を常に意識しているから、ディスカッションに向かないのですな(森博嗣氏が言っておられましたが)。ダイレクトに意見を交換し合うことで得られるものが大であることはわかっているんですけれども、いやあ、難しいですな、はっはっは(ひらきなおっている)。 僕は、言葉を産み出すことが得意ではありません。「こうして文章書いてるじゃない」と言われるかもしれません。でも、毎度ひいひい言ってるんです。これだけの言葉を出力するのに、1週間くらいかかってしまうわけですからね。 恐怖感、というのがあります。どこまで踏み込んだ言葉を発していいのか、という。こんなこと言って傷つきゃしないか。こんなこと言って不快にさせやしないか。こんなこと言って嫌われやしないか。ある程度相手の心に迫る言葉でなければ、それは残りません。でも踏み込んではいけない領域、というのもあります。この間を測ることができません。だから、逃げています。言葉を選び選び、丸い、やわらかい言葉を発することに執心します。HP上に残す言葉となると対象が「不特定」に広がるわけですから、よりいっそう、「選ぶ」ことになります。気を遣いすぎなのかもしれません。もっと自由に言葉を発したほうが、心をさらしたほうが、相手の心に迫れるのかもしれません。相手も近付いてくれるのかもしれません。いや、事実そうでしょう。だけれど僕は自分のスタイルを貫いていかないと、心の座りが悪いのです。それは恋人に対しても、親友に対しても、度合いは多少緩くなれども変わりません。貫く、と言うと格好いいけれども、結局のところコワイんです。印象の悪い言葉で言えば、顔色をうかがっている。 人ひとりを一つの円、としてイメージしてみます。この円と円が交わること、これが人と付き合っていくこと、だとします。最初は一点のみで接していた円と円とが、やがて交わり、そして共有面積を広くしていく。これが、付き合いが深くなっていく、ということです。相手の中心点、核となる部分まで共有した関係になることもあるかもしれません。完全に重なった、という錯覚を覚えることもあるかもしれません。だけどもやっぱり、侵入してはいけない心の領域、というのがありますよね。その場所、あるいは円の外縁からの距離は人によって違います。普通、人は備わった距離感によって瞬時に適度な間をとり、牽制し合いながら他人と付き合っていくのだと思います。ちょいと臆病な僕は、間を取り過ぎているような気がします。重なる面積が小さいな、こんなふうに思います。そして相手も僕に対してそんな印象を抱いているんじゃないかな、と、ふと考えてしまいます。距離を測るのにやたらと時間がかかるから、じれったさを与えているかもね、と。 前の2段はおんなじことを言葉を変えて述べてみました。この心構えは、突き詰めれば自分のエゴが出発点です。傷つきたくないから、傷つけない。不快になりたくないから、不快にさせない。嫌われたくないから、嫌いにならない。出発点としては、これは正しい。けど、すこし気にし過ぎですかね。 だから、時間が、欲しいのです。 2000年10月19日 |
. | 001018 酔っぱらってますから。 |
劣等感のかたまりでした。 結果。 褒められたくって、 いやなことは避けていた。 2000年10月18日 |
. | 001010 「体育の日」じゃないんだね。 |
先日、西日本で大きな地震がありました。僕はこのニュースを東京で、知りました。研究室の先輩と昼食を食べているときに、ワイドショーで。 瞬間、「5年前」が頭をよぎりました。闇の中の炎と煙の映像が、浮かびました。当時僕が住んでいた岡山での揺れはそれほどに大きなものではありませんでした(比較して、ということです)。ですが、あの朝飛び起きて経験した人生で最も大きな揺れと、その後テレビを通して見ることとなった前述のような情景とが重なって、表現しがたい感情にとらわれました。1回目の夜に連続して起こった余震に、自分の身体の振れが重なって始終揺れているような錯覚に陥ったこと、いつも軽妙にしゃべっていたラジオのDJが被害を悲壮に伝えていたこと、これらを思い出しました。そう、瞬間に。 とりあえずは平静を保ち「だいじょうぶですかねえ」などと先輩に語りかけていましたが、「5年前」が体に残したものを再確認することとなりました。今回被害は少なく、実家の方もなんてことはなかったのですが、やはり実際に電話が通じるまでは少しの不安に包まれていました。 思い出したことがあります。上京してきた当初、新しくできた関東地方出身の友人と、この地震について語ったとき、そのとらえかたの温度差に愕然としたこと。憤慨さえ沸いてきたこと。そりゃあ東京にいたジャーナリストや大臣が、失言をかますはずだわな、と感じました。やはり経験したものじゃないとわからないものなんだよね、と思いました。 ですが今回、翻って自分の経験を周りの人と比較してみました。死に瀕した人がいます。少しの揺れに心が騒いでどうしようもなくなってしまう人がいます。その人たちを前に、僕の経験はとても弱いものです。この僕が語る言葉は、彼らの苦しみ哀しみを反映しないんじゃない?実のところ僕は、少しも理解していないんじゃない?こう考えてしまいました。そして、自分の経験について語る言葉を見失ってしまいました。 僕が陥ったジレンマを換言すると、こうなります。 経験したものにしかわからない「心のありさま」に歩み寄ろうとする行為はむなしいものなのでしょうか? ここで、立場を変えてみます。僕自身を「経験者」の立場に置いてみます。 掲示板にちらりと書きましたが、昔から身体の調子を崩すことが多く、病院によく通っていました。長期に渡るものではありませんでしたが、入院も何度か経験しました。今思い返すに、心によるもの、身によるもの、両面があったわけですが。検査だの点滴だのでベッドに伏せていた時間。そのときの思考感情。これを僕の「経験」だとしてみましょう。これは、他人には理解し得ないものでしょうか。そうではないと思います。 入院している人へのお見舞いに際し、「(私って)超健康体だから、病気してる人の気持ちって、微塵もわからない」こう言った人がいました。しかしながらその人は、相手の身になってその気持ちを理解しようと努め、結果「もどかしさ」を感じました。確かに同一の感情を抱くことはできないかもしれません。経験がないんだから。だけど相手と自分を重ねて見ようとした時点で、経験の有無の溝は埋められているんじゃない?こう思います。同一ではないけれども同等の感情レベルに到達することはできると思います。こういう能力が、人には備わっている。ここで敢えて僕の経験に拠る思いを述べますが、こういう心でお見舞いに来てくれたこと、それだけで充分なんです。 たしかに。経験したものじゃないとわからない感情というものはあります。これはしようがない。ですが、そこであきらめることなく、相手方の気持ちに歩み寄ろうとした段階で、語る言葉を紡ごうと努力した段階で、経験は補完されるんではないかと思います。いや、そうであって欲しい、という願望。そしてそうありたいな、と。残念ながらこの能力には有無、大小があるのは事実ですが。経験の無さを恥じる必要は、ないですよね。 ですから僕は、「5年前」に大なる被害を被った人たちの気持ちを汲み取ろうと努めますし、自分の言葉で語ります。これは一つの象徴。「もどかしさ」に到達するようでなければ、心に接近できません。 経験に拠ってしかものを語ることができないんだったら、小説家なんて存在しませんね。埋めるだけの想像・創造ができることが、素晴らしいんですね。「もどかしさ」を出発点に言葉を紡ぐ行為が、文章を書くということでしょうか。 This essay is inspired by pooh,takka & masapan.
2000年10月10日 |
. | 001001 ハァ〜イ。バァ〜ブゥ〜ッ。チャ〜ンッ。 |
まず、炊きこみご飯を作らねばなりません。唐突ですが作り始めます。文句あるか。秋らしく、紅鮭とまいたけの炊きこみご飯とまいりましょうか。お米をていねいに研いで釜に入れます。適当量のお水と共にだししょう油を大さじ3杯程度加えましょう。この上に、今が旬っっっの紅鮭の切り身をひと切れ、ないしふた切れ乗せます。さらにまいたけを1パック、水洗いしたのち適当な大きさに切り分け、どばどばどばっ、と盛ります。ここで炊飯器のフタを閉め、スイッチをポムッと押します。別にポンッでもピッでもチョンッでもいいのですが、ここはポムッと押さなければなりません。だってかわいいから。 待つことしばし。部屋によい香りが満ちてきます。いよいよもっておなかが空いてきたころに、炊きあがりの合図。おおっといけません、ここであわててフタを開けてしまっては。ぐっとガマンして、蒸らしの時間を設けましょう。この間に紅鮭とまいたけの旨みが米粒にしみわたってゆく様をイメージしながら、10分ほど耐えます。この拷問のような10分を過ごしたのち、フタを開けます。沸きあがる湯気。それが晴れたあとに見えてくるものは、つややかに炊きあがった鮭とまいたけです。まるでにこにこと笑って自分を出迎えてくれているかのよう(椎名誠風に)。ここでちょいと事務的作業をこなさねばなりません。鮭の切り身を取り出して皿に移し、皮と骨を取り除くのです。皮はいいとして骨が残ってたらおちおち食えませんからね、ていねいにていねいに骨を取りましょう。身だけになったら再び釜に移し、しゃもじ(でこぼこしゃもじがよろしいでしょう)で混ぜます。徹底的に。具が偏ってよそい分けたときにケンカにならないようにね(いや、ひとりで食べるんだけどさ)。お疲れ様でした。できあがりです。どんぶりによそってご飯の神様に感謝しながらわしわし食らいましょう。 さて、いつもならここで終わりなのです。ですがっ。今回はもひとつさらにオプションがつきます。なんでしょう?さてさてなんでしょう?(意味なくもったいぶってみる)。それはですね(にやにや)、イクラです。北海道にいるもろやんが東京での宿の御礼として送ってくれた最高級(ここがポイント)イクラ醤油漬け。これをですね、スプーン一杯どんぶりの上にポトムッと落とすと、たちまちグレードが10ランクくらいアップします。ドラクエで言うと、ひのきのぼうがはやぶさの剣に、FFで言うとたまねぎ剣士が忍者になったようなもんです(めちゃめちゃわかりにくいですね。そしてかなり的外れですね)。さてさて、いただきます。・・・(絶句している。そして恍惚の表情を浮かべている)。 ふうっ、あんまり美味しいので一気に4杯食っちゃいました。食い過ぎて動けません。そして実は5杯目食いながらこの文章書いています。なんと表現したもんでしょか。イクラの塩味と紅鮭の香りとまいたけの食感が味のトライアングルを構成し、それを丸ごと受け止めるご飯。これぞ炊きこみご飯の真髄と言わずしてなんとせん(『美味しんぼ』風に)。気分は北海道に飛び、行ったこともない北の大地に感謝し、倉本聰がちょっと好きになりました。おっと、もろやんに感謝するのを忘れておりました。ありがとう。イクラはまだまだ残っております。しあわせはまだまだ続きます。あゝ人生にイクラあり。たった5泊させたくらいでイクラを送ってくれるのなら、10泊させたらイクラとウニとカニになるのでしょうか。早く泊まりに来なさい。ね、もろやん。 2000年10月01日 |
. | 000927 21世紀まで、100日を切ったらしい(ふうん) |
某掲示板で、「小学校の文集に書いた将来の夢」という話題が出ていました。思い出すに僕が文集に書いた夢は、小3のときの「カメラマン」、小6のときの「銀行員」、中3のときの「イラストレイター」。「カメラマン」「イラストレイター」といったクリエイティヴなお仕事に挟まれたところの、「銀行員」。なぜこの時期だけいきなり堅実になってしまったのか。当時のRana少年の心中や、いかに。さかのぼって幼稚園児のころなどは、「漫画家」になりたいと思っておりました。藤子不二雄に憧れて。ドラえもんのオリジナルストーリィなどを描いてました(保存してなかったのが悔やまれる)。このときのこの夢が、いままで僕が抱いてきた夢の中でもいちばん「夢」ある、と同時にいちばん純粋に想っていたものだった、と思います。なんで今生物学やってんでしょう。そもそも生き物が特に好きというわけでもなかったのに。わかんないもんですな。いやあ、はっはっは。 昨年の原田宗典氏の上智大学における講演会で、「小説家になるためにはどうしたらよいですか」という質問を受けて、氏はこう答えられました。 「小説家になりたい」という夢を、疑いもせずにずっと信じつづけてきた者が、小説家になれる。 ううむ、僕にはこのような、「○○になりたい。ぜったいなってやる」といった強固な夢はなかったですね。いつもふらふらと定まっていなかったように思います。今もまた、将来的にしたいことっていうのはいくつかありますけれど、だんだんと具体的になってきた分、漠然としてきた(矛盾している)、という感じです。「これっ」と簡潔に言い表すことは、できません。夢と表現するにもなんか違和感がありますね。幼いころのそれとは、質が違ってきたからかな。現実との折り合いをつけていかなきゃいけない。現実に立ち向かい、乗り越えるだけの推進力があるか?と、問われたら、どうでしょう?頼りないなあ。そういうエネルギィやバイタリティとは、無縁な性格。 数年先には、ひとつの形ができているんだろうな。どうなることやら(他人事)。ま、それで決定稿というわけじゃないしね。書き直しはいつだってできると思って。思いつめることなく、お気楽にやっていこう。それでここまでけっこう楽しくやってきたんだから。それなりのことはこなさなきゃならないし、ときどき辛いときもあるけれど、見失わないでじっくりのんびりやってこうね(自分を励ます形で締めくくってみました)。 2000年09月27日 |
. | 000922 ひっさしぶりに革靴を履いたので、靴擦れができました(痛) |
動物は、 〜日高 敏隆氏の講演(000922)より 動物学会に、行ってきました(めずらしく日記らしく書き出してみる)。毎度言っておりますが、学会、響きがいいですね。もう一度言ってみましょう。学会。うむ、いい感じです。さらにこの学会(まだ言うか)、会場が東京大学でした。東大で、学会。組み合わせて用いるとさらに威圧感が増します。「東大に行ってくるの。学会なの」と言うと、50%ほどかしこさアップのような錯覚に陥ります。その実僕は、先輩の発表のお手伝いのためについていくだけなのですが。 その会場で、日高敏隆氏による講演がありました。日高氏といえば、動物行動学の権威で、自身の研究業績と共に、著書・訳書において生物学を大衆に紹介する、という点で多大な功労をあげた方です。知ったかぶりをしていますが僕もきちんと認識したのはほんの1年前、とある人に聞いたときが初めてでした。生物学の学生だったら名前くらい知っとけよ、というくらいの存在だったらしいです。僕は、知りませんでした。モグリでした。ごめんなさい。許してください。 えっと(汗)、以来氏の著書や、その弟子の竹内久美子氏の著書を数冊読んできたのですが(フォロー)、これが面白い。動物行動学、遺伝学、形態学、免疫学などなど、生物学全般を身近な例に照らして読み解くその内容は、専門の知識の有無に関わらず興味深く楽しいものでした。その日高氏の講演。前々から心待ちにしていた、と言いたいところなのですが、直前まで知らなかったのです。このへん、学会に対する意識の低さを露呈。たまたま目を通した要項にその名を発見し、「なぬっ!?聞きに行かなきゃ聞きに行かなきゃ」と先輩を急かして会場に着いたのは前の演者の講演終了10分前。「おお、間に合ったね。よかよか」と、空いた席を見つけて腰をおろしました。しばしの後に巡ってきた日高氏の出番。「どこにおるのじゃ?」とせわしなく周囲を見渡す僕。名が呼ばれてすっく、と立ち上がったのは、・・・・・目の前に座っていた人物でした(驚愕)。ビビるさ、そらあ。写真見たことなかったから、ぜんぜん気づかんかったよ。しょっぱなに少しばかり気圧された中で、講演開始。 ううっむ、素晴らしかった。あれだけ集中して人の話を聞けたことって、久しぶりでした。内容もさることながら、感動したのはその話術と、構成です。なかなかに高度なことを語っていながら、すんなりと頭に入ってくる感覚。富んだ機知と易しい言い回しによるものです。9月14日の日記に書きましたが、氏こそまさに、難しいことを簡単な言葉で語れる人物であったのですね。学者というのは、難しいことを難しい言葉で語る人々です。無論それが求められる世界ですから。ですがこれではその世界の外、大衆に知は広がりません。広く大衆に「どうです、おもしろいでしょ?」と自身の成果を提示することができ、かつテレビをはじめとしたメディアに脚色されることを拒絶できる、こういう学者は稀なのかもしれません。 ◆ さて冒頭で紹介した、氏の講演内容の抜粋。これは近年生物学の世界で定着してきた説です。人間をはじめとした動物が子を産み、育てるのは、種の保存を意図した行為ではなく、自己の遺伝子の乗り物を作り、後世に伝えるための行為であり、結果として自己が最大の利益を得るように動物は振る舞うのだ、というもの。人間に当てはめてみれば、 働くのはお金を稼いで生きる糧を得るためであり、 ということです(やや僕が曲解している部分もあるかも)。自分の言葉で詳しく語れるだけの知識は僕にはありませんが、これを支持する生物学的根拠は多く提出されています(リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』、竹内久美子『そんなバカな! 遺伝子と神について』)。 この説を耳にして、違和感をおぼえるかもしれません。人間を見る目がクール過ぎやしないか?と。人間はそんな風に生物学の視点で語れるものじゃないんじゃないの?と。そのとおりです。正解ではないですから。これは生物学、なかでも動物行動学や遺伝学という言語を用いて人間というものを語ったときに出てきた一つの解答例です。人間を語るときに、用いる言語は他にもあります。心理学や教育学、社会学、神学、宗教学、さらには文学。これらの学問を通して人間を見たときに、人間について語られる言葉はたくさんあります。そのどれもが正解だと言えるし、逆に間違っていると言えるのかもしれません。別に正解を求められているわけではないですから。正誤は問題ではなく、いかに楽しく人間を語るか、これが学問てやつの根本なのじゃないかな、と思います(実学と呼べるもの、例えば政治学、経済学、法学、工学、そして医学は、やや違った意味合いを持ってきますが)。 「実社会の役に立たない」との批判をすることもできます。ですがそういったものを超越したところで人間にアプローチすることができる、ここが学問の素晴らしさです。 私は生物学はミステリー小説と同じくらい刺激的なものであるべきだと前々から思っている。生物学はまさにミステリー小説なのであるからだ。 〜リチャード・ドーキンス/日高 敏隆 訳『利己的な遺伝子』 2000年09月22日 |
. | 000917 鍋。 |
麦茶を作ろう、と思って鍋を火にかけていたのです。ええ、この書き出しからオチは予測つくでしょうから先に言っちゃいます。空焚きでした。いや、もちろん最初っから空焚きだったわけじゃないのね。当初なみなみと入っていたであろう2リットルあまりの水がすべて空中に拡散してしまったのね。そうなっちゃうまでの長い長い時間、僕はパソコン触ってたり本読んでたりしたのね。ふっ、とガスコンロ方面からコゲ臭いにおいが。はわぁっ、ついにやっちまった・・・。これまで未遂はしょっちゅうでした。3年半連れ添った鍋の、見るも無残な姿を見て、さめざめと涙を流しました(ここんとこ「鍋」を「妻」に置換してみましょう)。だいたい狭い部屋なんだからこんな事態になる前に気づけよ、自分。 さあ大変、鍋がなくなりました。鍋不況。鍋飢饉。最近自炊を怠けがちとはいえ、鍋が1個もない状態というのは落ちつきません。麦茶はおろか、カレーもシチューも肉じゃがも作れません(レパートリィってばこんなもん)。と、途方に暮れている(誇張)僕のもとに朗報が。 「Pさんちは鍋が余っているらしい」(某掲示板参照) 「くれっ」と、素で思いましたね。で、コンタクトをとってみると会社から送ると送料がいらんらしい。じゃ、えんりょなく・・・というわけで、商談(ちがう)成立。宝塚から東京まで600キロ近くを旅する鍋1個。事の起こった1週間後には僕の手元にPさんより伝承されし鍋が。ううむ、なんかようわからんが、オモロイから、よし。Pさん、ありがとう。「買ったほうが早いし、手間かからんじゃん」というツッコミは、ご法度です。 さて、以上が前置き(長い)で、今日、その鍋の使い初めとして、冷麦を茹でました。ちょっと意表を衝いて(誰に対してだ)、冷麦。冷麦って、その中途半端さがいいですね。うどんとそうめんの中間径にして、うどん好きにもそうめん好きにもとり入れようとするその精神はイソップ寓話に出てくるコウモリのお話に通じるものがあります(ちがうような気がする)。きざみのりとおろし生姜(チューブのね)、すりごまも用意。こうして麺を茹でていると村上春樹を思い出しますが、出来上がるのが冷製パスタなんかでは決してなく、純然たる冷麦であるあたりが現実。うむ、昨晩の酒が残った胃にいい感じで入っていきました。満足。それもこれも鍋あればこそ。鍋、最高。鍋よ今夜もありがとう。意味不明の鍋賛歌。 台所でスパゲティーをゆでているときに、電話がかかってきた。僕はFM放送にあわせてロッシーニの『泥棒かささぎ』の序曲を口笛で吹いていた。スパゲティーをゆでるにはまずうってつけの音楽だった。 〜村上 春樹『ねじまき鳥クロニクル』 2000年09月17日 |
. | 000914 オリンピックが始まったらしい。 |
世の中には、平易に書く天才というものが存在する。子規がそうだし、漱石がそうだ。時代を下って、大衆文学に目を向ければ、岡本綺堂や、江戸川乱歩や、横溝正史が、平易に書く天才である。 〜殊能 将之『美濃牛』 Web上を散策していると、すごい文章の書き手に出会うことがあります。素人が、無償で発信している言葉たちに、その世界に、強烈に殴られることがあります。僕が好みとするところの文章には2種類ありまして(中学校英訳的言い回し)、一つは、たとえ文法話法がでたらめでも、その文章全体から書き手の世界観、センス、心意気が理屈抜きで突き刺さってくる文章。もう一つは、平易な単語が並べられていて簡潔にして書き手の心が素直に自分の心に染み渡る文章。例えるに、前者が桑田佳祐や椎名林檎の歌詞であり、後者が槇原敬之や吉田美和の歌詞のようなもんでしょうか(自分の趣味に走っている)。 僕には、前者のような文章は逆立ちしたって書けません。ですから、このような文章の書き手を見つけると、惚れます。すぐに。プロには書けないものです。計算して同様な文章をものするプロは存在するでしょうけど。意図せずして説明不可能な勢いのある文章を書くことができる、これは一つの才能です。感情・感触・情景が直で伝わってくる文章。小細工のない文章。読み手はなすがままに書き手の心に押し切られてしまう、そんな文章に出会うとうれしくなります。計算・意図なしの、素人の、それこそ素の才能があちらこちらにあふれているネットという世界は、この点においても価値があります。 僕は文章を書くとき、後者のような文章が書きたいな、という姿勢でいます。イメージとしては、(現在高校生の)妹に連立方程式の解法を教えるように。難しいことを難しく語ること、簡単なことを小難しく語ること、これらはけっこう楽だけど、難しいことを簡単な言葉で語れるようにありたいな、と思っています。僕が小学生のころに図書室で借りて読んでいた江戸川乱歩や、中高生のころに親の書棚から引っ張り出して淫靡な気分で読んでいた横溝正史は、当時の僕にしても理解し、楽しめるものでありました。ですがこれらはたとえ今現在、あるいは何十年の時を経て読んだとしてもその魅力は色あせていないでしょうし、むしろ作品から感じるところは深くなっていることでしょう。これは、これら作品が平易な言葉で語られていながらも高度な世界を成し、かつ高級なエンタテイメントとして完成しているからです。友人に難しいことを易しい言葉で語ることに長けているヤツがいて、そいつの弁舌にはいつも憧れるのですが、僕はそのような話術は持ち合わせていません。そのかわりに比較的得意とする文章を書く、という作業においてこの理想に近付きたいな、と思っています。 負の感情はね、 2000年09月14日 |
. | 000904体育祭をサボタージュしてました。 |
実家に帰省した際に、プールへ行ったのです(やはり日記の体をなしていない書き出し)。倉敷市営プール。泳ぐのって中学ん時の体育以来のような気が。そもそも当時から泳ぐのなんて得意じゃなかったのですが、不恰好なフォームでも一度身に付けたものは10年の時を経ても忘れてないもんで、いちおうカタチにはなりました。隣を小学生のチビッコが悠々と抜き去っていきましたが、まあ気にしないことにします。それよりも愕然としたのが体力の低下で、平泳ぎで100メートル、クロールで25メートル泳ぐともう息が上がってしまいました。元来この水泳をはじめ体育というものがキライでニガテで、自分が目立てない場においてはやる気のかけらも見せないような子でしたから、球技(野球以外)などでは積極的に守備的ポジションに回ってお茶を濁し、ただただ時間の経過を待っておりました。勝利に対する執念が人一倍ないヤツなので、団体競技に協調できるはずがない。仮病で休むことはたびたび。基本的な運動能力において別に人に劣っているわけではない、ということに気がついたのは中学以降でして、器械体操や徒競走、持久走などでは意外な好成績を出しました。しかしながら中学高校時の体育における肝心かなめのサッカーやバレーをはじめとした球技においては相変わらず無気力で、休むことも多かったので体育教師によるおぼえは悪く、成績は惨憺たるものでしたが。あっ、話が脱線してしまった(そもそも本線はないけど)。 でもまあ高校時分は毎晩ジョギングしたりしていて(こういうストイックな努力が好きなタイプ)、体力面ではそこそこ自信があったのです。大学に入ってからの体育ではボクシングやウエイトトレーニングなどもカタチだけとはいえやってきてたからね。ところがこのたび泳いでみて、研究室に入って以来の実験・実験・酒・実験の日々の影響が如実にあらわれていることを知り、ヤバッと思いましたね。東京に戻ってきてからジョギングを再開したりしましたが、今んとこ一日坊主です(ダメじゃん)。 その帰省中に、岡山市街を歩き回る機会がありました。岡山といえば「ちょっと遠出してお買い物」というときに気合いを入れて足を伸ばした街であり、浪人時に予備校のために毎日通っていた街です。そして僕はこの街に、たしかに「都会」を感じていました。 だけど今夏この街をほぼ3年半ぶりに訪れてみて、その印象は「のどかじゃの〜」でした。空も道も広い広い。自分がちょいとばかり背伸びをしている気分になって、少しの興奮を感じながら歩いていた街は、すっかりと落ちつく街へと変貌していたのです。あっ、ちがった、変貌したのは僕のほうの感覚ですね。それはやはり東京大阪その他正真正銘の都会を経験してきたからなのでしょうが。この変化というのは、予想していたことであり、期待していたことでもありました。 僕はこれまで宮崎・岡山・東京と、三者三様な町・都市においてそれぞれにそこそこ長い期間生活してきました。やっぱり東京というのはすごい都市で、芸能・芸術に触れられるチャンスが圧倒的に多いです。美術展や講演会サイン会コンサートと、毎日、どっかで、なにかしらが開催されています。東京近郊にずっと住んでいればこれが「あたりまえ」になっているのでしょう。だけど、こんな環境が夢のまた夢であった当時を振り返ることができる僕にとって見ればこの「あたりまえ」の価値が、より実感できます。ですから僕はこの地の利を最大限に活用しています。 東京に出てきた時、このような憧れはもちろんありました。と同時に、「都会の感覚」というのを知りたい、とも思っていたのです。東京のTV番組は当然のことながら東京中心でものごとを語っています。「東京」と「東京以外」という視点。一種の傲慢さを感じました。僕自身がこれに埋没しないようにしたいな、と思いました。宮崎の海べりの町、そして一地方都市岡山を経てから東京を知ったということで、東京との距離感、地方との温度差、これらを感じることができるんですね。ですから今夏僕が岡山で感じた、「都会」に対する認識の変化から生まれた違和感は、自身の変化を知らせてくれたものであり、また、ちょっとした警告を発してくれたものでもあったのです。 ひとところに定住していない、ということは「ふるさと」という感覚が分割されてしまっているということで、さみしい部分もあるのですが。東京は大学在学中のあと数年でもう結構、また東京から離れたどこかに移りたいな、と思っているんですけどね、思惑どおりに運ぶかどうか。 岡山駅・倉敷駅の改札が自動改札になったとき、 2000年09月04日 |
. | 000902 シーナさんシーナさん。 |
先日(この書き出しからして日記の体をなしてない)、有楽町で開催されていた椎名誠写真展「にっぽん・海風魚旅」へ行ってきました。椎名さんが日本各地の海べりを訪ね、その地で出会った人、食、動物、そして海空の写真を集めたものです。僕は氏のエッセイ及び紀行文、SFに加え、さらには写真も好きだったのですが(要するになんでも好きなわけだ)、これまで写真展を訪れる機会はありませんでした。今回を逃してもうたら次の機会はないやも知れぬ、と思わばそりゃあんた、実験途中で抜け出しますさ(最近、自分の都合のよいように実験系を組み立てる技術は身につけたらしい)。 会場に着きますと、入り口のところに、「椎名誠氏 来場時間」というのが表記してありました。「なぬっ?!本人も来るのかっ。いついついついつ?」と、確認してみたところ、ちょうど今まさにその時間。「ぬはっ!マジっすかっ、ドコっすかっ」と、言語に破綻をきたしながら、さして広くもない会場を見渡してみると・・・うをっ、と、隣におった。不覚。心の準備ができてなかったので後ずさり。その椎名さん、「常時モンゴル帰り」な色黒な肌に頑強な体躯。50過ぎには見えんなあ。 氏のほうが気になりちろちろと目をやりながらも、写真を鑑賞。ふう、やはり、いいねえ。心がおおらかになり、些事を忘れさせてくれると言うか。日本各地の人々の生活、笑顔、そして海と空の写真を見ていると、「そうだよね、日本は広いんだよね、自分の身の周りだけが世界じゃないんだよね」、と、ふうっ、と身体が軽くなったような気分になります。日常に忙しくしていると忘れてしまうのだよね、この意識。 そういえば昔から、このように「椎名誠」に触れることで楽になってきたよね、ということを思い出しました。特に僕がその作品に出会った高校1年のころ。世間で分析されているような論を持ち出してくるつもりはないのですが、やはりこのくらいの年代の心というものは不安定なものでしょう。僕自身もそうでした。「自分の身の周りだけが世界」だったわけですからね、ともすれば思考は危険な方向に走ったりもしました。みんながそんな鬱屈を各々のやり方でガス抜きさせていたように、僕にとってのその対象は椎名誠でありました。氏の本を読むことで世界も視野も広がりました。エッセイに笑い、紀行文に出てくる国々に憧れ、SFにおける特異な言語感覚に驚嘆しました(ここらへん、当時の思いを書いているので青臭いです)。と同時に、氏の作品を幹としてその中で触れられた他の作家たちの作品にも手を伸ばすことになりました。僕の読書歴のスタート地点であったわけですね。高校1年の夏休み、「新潮文庫夏の100冊」のうちの一冊だった『哀愁の町に霧が降るのだ』を手に取った、この日の僕がなければ、今の僕は少なくともここにはいないだろうな、と断言できるくらいの存在です。 ちょっと大げさでしょうか。でもね、こんな風に「この一冊」と言えるものがあるっていうのはね、うれしいんです。本(に限らずいろんな分野の表現媒体)というのは、もちろんそれ自体ですごいものです。でもですね、そのすごさを引き出すのは鑑賞者の心です。出会ったときの心のありかたによって、作品は姿を変えるし、意味を変えます。それは理屈じゃないし、多寡じゃない。世間の評価がどうだろうと、たったひとつだけだろうと、関係ない。多大なる影響を受けた作品は、その人にとっての至上です。冷静に分析してみて、『哀愁の町に霧が降るのだ』が他の作品たちと比べて白眉であるかというと、そういうものではありません。ですが、僕にとってみればこの作品は特別だし、椎名誠という作家も特別であるのです。 「シーナさんのカラー写真というのをこんなに見たのは初めてなんですけど」 この写真展、写真を見つめる来場者がみな穏やかな笑みを顔にたたえている、そんな気持のよい空間でした。 みなさんの、「この一冊」「この人」って、なんですか? 2000年09月02日 |