■ 2001年2月

. 010221 親父。

 とある野球雑誌の、センバツ高校野球特集号を読んでいた。全出場校の紹介があり、レギュラー選手ひとりひとりの詳細な成績も収められている。記事を斜め読みしているだけで、なんとなく気分が昂揚してくる。野球が大好きながらも実際にプレイすることはかなわなかっただけに、高校球児というものはその存在が年下になった今だって憧れの対象だ。そのうえ大舞台に立つことができる彼らに対する羨望が湧き上がってくる。各選手に対するアンケートが実施されていて、「好みのタイプ」だとか「夢」だとか様々な項目に対する回答が掲載されている。そのなかに「尊敬する人物は?」という項目があり、これがおれの興味を引いていた。「長嶋茂雄」「落合博満」「清原和博」「イチロー」「松井秀喜」と、伝説の名選手や現役のスター選手の名を挙げる選手がほとんどだったが、10人にひとりくらいの割合で、「両親」「父親」「母親」と答えている選手がいる。この割合を多いと見るか少ないと見るか。

 「尊敬する人物は?」

 と聞かれたときに、

 「父です」

 と答えることは少々気恥ずかしい。しかしおれもまた、こう答えてしまうんだろうな、と思い、この選手たちに少しの愛着を抱いた。てらいなくこう答えることができるヤツのほうが素直でよろしい。突如「織田信長」だとか答えるヤツとは友達になれそうもない。信長はあなたになにをしてくれましたか? だからおれは「親父」と答えることだろう。幸か不幸か、答えるべき事態に陥ったことはないけれども。こんなことを思いながら細かい字の羅列を眺めていると、眠気が襲ってきた。もう布団に潜り込んで寝ちまおうかな、明日は朝早いんだし、と朦朧とした頭で考えていた。

 電話が、鳴った。

 「おう、元気か」

 親父だった。なんてわざとらしいタイミングだ。それはおれが意図してこういう構成にしているからであって、実際の時間軸とは異なっている。こういう展開にしたほうが小説っぽいじゃないか。それに親父は「おう、元気か」なんて芝居がかった言葉は吐かないだろう。まあ、それはいい。話を戻そう。声を聞くのはいつ以来だろう。正月以来か。お互いに電話をかけるということは、ほとんどない。息子と父親との関係なんてそんなもんだ。話すべきときに、話すべきことだけ、話す。そんなもん。

 話を聞くと、親父、来週末に出張で東京に来るらしい。だから一晩おまえの部屋に泊まらせてくれないか、と。夕飯おごるからさ、と。当然、おれに断る権利はない。親父の金で借りてる部屋だ。そもそも断る理由なんてない。一年に数回、このようなことがある。毎度近場の飲み屋に行って互いの近況などを報告しあう。この飲みが、楽しみだったりするわけだ。おれは始終うだうだと悩んでしまう性格だが、親父は至極さっぱりしている。おれが悩みをぼそぼそと話すと、親父は自身の体験だとか考えだとかを語り始める。別に悩みに対する答えを直接的に示すわけじゃない。語ってるうちに本題が見えなくなったりもする。それを聞いていておれは自身の悩みがどうでも良くなり、道が開けたように感じる。親父がそこまで意識しているかどうかは知らない。おれがそう受け取っているだけだ。そして、それが事実だ。

 そうなんだ、おれは、親父を、尊敬している。

 ここまではっきり言うと恥ずかしいもあったもんじゃない。あ、でもやはり少々恥ずかしいから、こうして口調を変えて小説形態にして発してるんだな。どこまでがノンフィクションでどこからがフィクションかの判断は読者に委ねる。一年文章書いてきて身につけた得意技。また脱線してるし。

 親父は忙しい人で、あちらこちらを飛び回っている。宮崎に単身赴任しているが、会議で東京や大阪に出てくることはしょっちゅうで、気が付くといつのまにか視察だとかでアメリカとか中国に飛んでいる。その合間を見て母と妹がいる岡山に月に一回は立ち寄っていて、その移動距離と仕事量を考えると気が遠くなる。そういう仕事の面だけをしても尊敬に値するとは思うが、おれが真に尊敬するのはそういった仕事上での疲れを家族と接するときにおくびにも出さない、という点だ。もちろんそれだけでもなくてね。それはおいおい語っていこう。今回の上京も本社の会議に参加するためで、その夜におれの部屋にやってくる、というわけだ。

 おれは親父以上に頭がいい人には今まで会ったことがない。おれがここで言う「頭がいい」という評価は「勉強ができる」という一面的な意味のものではもちろんなく、総合的な意味でのことだ。総合的ってなにさ、なんて聞かれても困るけど。ほら、周りにいるだろう? 学歴だとかいうものに関係なく、「あ、この人、頭いい」という印象を与える人物。「勉強ができる」という意味での「頭がいい」っていう評価は、おれだって得てきた。たしかにおれは勉強はできたかもしれないが、「頭がいい」なんてわけじゃないことは自覚してた。だから「勉強はできる」「勉強しかできない」というコンプレックスがないまぜになりながら過ごしてきたね。自意識過剰だった高校生時分まではね。て、おれの話はいいんだよ。そうだな、おれが想定する頭がいい人っていうのは、周りにプレッシャーは与えないし、それでいて尊敬できるし、接していて、話していて、気持ちがいい人だな。抽象的だけれどもね。そしておれがそういう人物像を規定するモデルとなった人物が、親父だったってことだな。

 そして週末とともに親父がやってきた。

 「さて、今日はどこに行くかね」

 会議が長引いたらしく、少々疲れた気配がありながらも、開口一番こう切り出してきた。おれも学校から帰ってきたばかりで疲れている・・・と思っていたのだが、親父を前にそれを認めることは申し訳が立たない気持ちになった。「ん〜、今日は高田馬場まで出て居酒屋に行かない? ほら、前に行ったとこ」 おれはこう答えた。まあ別にどこだっていいんだが。

 「おまえのコート、借りるぞ」

 冬場におれの部屋を訪れ、外出するとき、親父がいつもおれのワードローブから取り出して着ていくコートがある。いちおう若者が着るようなダークグレーのPコートであり、それを50過ぎたおじさんが着ているとやや滑稽でもある。だが親父はこのコートがいたくお気に入りらしく、「このコートいいな、あったかいぞ」と、着るたびに言っている。いえいえ、そのコートは18歳の誕生日にあなたがおれに買ってくれたものですよ。

 そのコートを着た親父と高田馬場までの約20分の道程を歩く。結局身長でも追いつけなかった。5センチほどの差がある。なにかひとつでも親父に勝った、と思えるものが欲しかったんだがな。高校生の頃あたりから思っていた。思った時点から身長の伸びはストップしてしまったよ。このままじゃずっと親父のあとを追いかけっぱなしだ。すべてにおいて。

 うん、おれはずっと親父のあとを追っかけてきた。理科系を選んだのだってそうだし、浪人したのだってそうだし、大学院に進むのだってそうだ。おれはなんにしたところで新しいことに踏み出す勇気に欠けるヤツだから、親父という前を歩く人がいたことは安心だった。そのときどきにおいて自分で考え、選択決定したのは他でもない自分で、その際に親父の姿を意識したことはなかったし、親父もまたああしろこうしろとかは一切言わなかった。ただ選択した結果を振り返ってみるとそこに親父の影響があることを否定はできない。ひとつだけ、確実に意識してたな、という点があって、それは親父の行ってた大学に行きたい、という願望であって、それはかなわなかったけれども。それが親父に追いつく道だ、と考えていたわけだ。親父に面と向かって話したことはない。だけどおかげでおれは少しの努力はしたかな、と思う。親父はなにも強いたことはなくて、おれが勝手に背中を見ている格好だな。ありきたりな表現だが。

 そんな親父と肩を並べてしばらく歩き、やがて居酒屋に着いた。

 「傲慢たるより、卑屈たれ」

 孔子の言葉だったかな・・・、と親父はあとに続けた。親父は最近、宮城谷昌光の中国歴史小説がお好みらしい。その中に出てきた言葉だそうだ。どんな文脈で親父のこの言葉が飛び出てきたのかは忘れてしまったが。おれが、「周りがすごい連中ばかりでね、それが刺激になってるよ」 とか話したときだったか。

 その宮城谷昌光がらみで少しの余話がある。宮城谷の小説を、親父は読み終わった端からおれの元に送り届けてくる。おもしろいぞ、おまえもどうだ? というわけだ。おれも読んでみたいな、とは思うけれども自分の好きな作家の新作を読むことに手一杯で、なかなか手が回らないでいて、本棚の後列に鎮座ましましている。読むことができるのはいつになるやら。思い返すと、小学生だか中学生のときだかに、おれは親父の本棚にあった司馬遼太郎とか西村京太郎とかを夢中になって読んだものだった。おれの読書歴のスタートだって結局のところ親父だったことになる。ここまで影響受けてんのもなんだかな、とやや複雑な気持ちにもなる。そうすると今、親父に薦められている宮城谷になんとなく手が伸びないのは、ここまできて薦めに従うのも悔しい、そんな反発があるのかもしれない。だがこの反発もまた影響下にあることの証明でしかないんだな。

 なんだかなあ。

 そう、孔子の言葉だ。傲慢も卑屈も、どちらも敬遠されがちな性質だけれども、どちらも欠いてはならないものでもあるな。耳あたりのよい言葉で置き換えると、自信と謙虚。そのうち、人を伸ばす上でより必要となるのが、卑屈さ、ということか。「すごい」「負けた」「自分はまだまだ」こう思うことが反発を生むのだから。傲慢に溺れるだけでは進歩はない、ということだな。卑屈に溺れる危険性だってあるんだがね。なんだかまた話が逸れたような気がする。要するに親父と話しているとどの方向へ思考が飛んでいくかわからない、だから楽しい、ってことだ。

 ビールを飲みながら、飯を食いながら、いろいろな話をしていく。例によって研究室で実験することの意味だとか大学院に進学することの意味だとかがおれは見えなくなっている。定期的にかかる病。そんなことを親父にこぼす。

 「大学院? そんなん、おれは論理的思考の鍛錬の場だと割り切ってたよ」

 こうあっさり一蹴されると楽になるんだな。「意味」がなくてもいいじゃないか、と頭でわかっていても、どうしてもこだわってしまう。「ふん、おれだって大学院で実験しながら、<なんの意味があるんだ?>って悩み通しだったよ。悩みがない研究者なんてあるものか。悩みがなかったら、そらあ研究者じゃない。だからおれは、さっき言ったように割り切ってた。実験自体に意味を見出すんじゃなくて、その過程での思考の鍛錬だと思っていた。それは学生だからこそできるものだからな」 いちばん身近な人がおんなじ経験を経てきたことへの安心感。情けないけれども、おれはそれに浸る。

 こんな風にすっかり親父にやられているおれだが、なんとか食らいついていこうとはしている。だけど、決定的に負けたことがあった。親父、今のおれと同じ歳のときに、おれの母親となった人に、プロポーズしたんだそうだ。こればっかりはおれはマネをしようとしたところで不可能な雰囲気、大。完敗だな。いや、勝った負けたじゃないんだが。

 離れて生活するようになって、親父と会話する機会は、かえって増えた。あ、息子としてじゃなくて、ひとりの大人として見て、接してくれている。話してくれている。と感じて、おれはうれしくなる。しかし同時に向こうがおれの方に歩み寄ってくれて、目線を同じにしてくれていることもまた、感じる。大学入って、ハタチを過ぎて、少しは近づけたかなと思ったけれど、やっぱり遠いんだな、と実感する。ああ、この人の息子でよかったな、と思う。こんな思いを抱いていることは、もちろん、言えないままに。

 「定年後、大工するのが夢なんだよ」

 帰り道に、親父はこう言った。「大工と言っても日曜大工だけどな。学校行って、高い工具使わせてもらって、作るんだよ。工作は、昔から好きだったからな」 この言葉に、おれは親父の凄さを見た気がした。少し恐ろしくもなった。50という、今の自分が想像できない年齢の男が、こうして夢を語れるものなのか、と。そんな親父の定年間際まで手をかけさせている自分が恥ずかしくもなった。そのことをポツリと漏らすと親父は、「あほ、んなこと心配せんでいい。その代わり、家のローンはおまえにも引き継がれるんだからな」と笑い飛ばした。はい、わかりましたよ。

 「この2週間で3回東京、2回大阪出張だな」

 このスケジュールの谷間に、こうしておれと話す時間を設けてくれたってことだ。おれがへたばりそうになってるときに折よくやって来てくれている、とまで言ったら劇的に過ぎるかも知れないが。

 やがて、家に着く。

 玄関に、親父の革靴とおれの革靴、ふたつ並んでいる。大きさは、同じ。ただその主の器にはまだまだまだまだ差があるよなあ、と思う。部屋いっぱいに布団を敷き詰める。いい具合に酔っているから、すぐに眠くなる。おれも普段ならこれからだ、という時間に就寝することになる。寝つきのいい親父のいびきを聞きながら。

 「じゃあ、行ってくるな」

 翌朝、親父は再び会議に出るため早くから起きて支度を整え、傍らに転がっている布団の塊に向かってこう言い、部屋を出ていった。布団の中のおれが見たのは、薄くなった頭髪をセットしている後ろ姿だけだった。おれはうつろな頭で「ぉお」と気の抜けた返事しかできずに、また眠りの中へ戻っていった。数時間後にのこのこと起き出してきて、脳味噌が鮮明になって、いつも後悔するんだ。もっと気持ちよく送り出せないもんかね、このドラ息子は、と。

 布団の上を見ると、ネクタイが転がっていた。忘れ物だ。いまだネクタイを満足に結ぶことができないおれは、会議にはネクタイをして行かなかったのだろうか? とか、途中で気づいて買ったかな? などと、マヌケな心配しかすることができない。もたもたと身支度をして、学校に向かう。親父が泊まってった日というのは、少しだけやる気が上がっている。と同時に少しだけ焦ってもいるし、不安になってもいる。彼に、近づけるだろうかと。近づいているんだろうかと。あり得ないけれども、この問いかけを親父に発したら、こう答えるような気がする。

 「あほか、おれもおまえに追いつかれないように精進しとるわ」

2001年02月21日


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