■ 2000年11月
. | 001130 背理法。 |
背理法。 どうにも恐れ多い単語です。なにしろ背中。影をしょってる感じ。このキザな雰囲気はあんまり好きではないので、ひらがなにしてみましょう。 はいりほう。 一気にやわらかくなりました。「どうしたのかな?どっかに入りたいのかな?」と声をかけてあげたくなります。ためしに今度は、カタカナにしてみましょう。 ハイリホウ。 なかなか陽気な感じが醸し出されてきました。「ヨロレイヒ」と同じレベルでご陽気です。ダメ押しするために最後の「ウ」を小文字にして、さらに音符をつけてみましょう。 ハイリホゥ♪ もうダメです。踊り出したくなります。踊ります。ルンタッタ、ルンタッタ、タリラリラン、タリラリラン・・・・ハイリホゥ♪みごとに決まりました。原型が持っていた威厳はどこへやら。 数学が、苦手でした。嫌いな科目、「数学」「物理」。好きな科目、「国語」。これでなんで今周囲から「理系」と認知される場所にいるのか不思議です。高1から高2に上がるときに文系理系のコース選択があって、気がフれて理系に進んでしまった後で自分の数学センスのなさに気がついたもんだからさあ大変。だったら努力すればよかったんでしょうが、計算式の中に数字と英語と変な形の記号が入り乱れるようになった段階でとうにやる気は失せていました。わっけわかんない。「数学に深入りしたらジンマシンが出るの。大変なの」とだだをこねて受験で使うレベルのことを、それもひいひい言いながらやっただけにとどまりました。おかげで今はもうさっぱりです。昔はいちおう微分積分もできたような気もするのですが妄想でしょう。微分積分てなんですか。コンビニですか(ベタですね)。数学から逃げまわっていたら行きつく先は「生物」だったのですね。もちろん素直に生物が好きでもあった、とも言っておきます。フォローです。説得力ないです。 ただ唯一、「証明問題」だけはやや得意でした。あくまで、「やや」です。「じゃっかん」です。大きなこと言うとあとで恥かいちゃうからね、予防線です。「〜を証明せよ」という問題。解答には、もちろん計算式も含まれますが構成としては「文章で」「論理的に」書き連ねていけばいいわけです。パズル的要素が全面に出てくるので、「挑戦」といった意気込みで臨めました。この証明問題における定番の論法のひとつが、「背理法」。 「〜は〜である」ということを証明することよりも、「〜は〜ではない」ことを証明することのほうが、難しいですね。前者は例をひとつだけ挙げればそれで証明終了なのに対し、後者はそうではない。ではどうするかというと、逆に「〜である」という仮設を立てて論を進めていき、出てくる矛盾点を指摘したのちに、だから仮説は間違いであり、やっぱり「〜ではない」というのが正しかったんだよ、と結論づければいいのです。これが背理法。うむ、この説明でたぶん合ってるはず。合っててくれ、頼むから。 森博嗣氏の講演会(2000/09/23)において聞いたことで、そのときに僕は知ることとなったのですが、「フェルマーの最終定理」が証明されたということですね。え?なんですか、それ?ですって?知りませんよ、んなもん(逆ギレ)。どうやらすごいらしいっす。むずかしいらしいっす。証明に至るまでにかなりの年月を要したらしいっす。これでカンベンして欲しいっす。少なくとも、「ホテルの一室の壁面に殴り書きをして証明できる」程度のものではありません(元ネタがわかった人、手を挙げてください。お友達です)。 この話を聞いたときに僕が驚いたのは、この証明を成した数学者の年齢が、40を超えていたということでした。数学者(に限らないのかもしれませんが)が活躍できるのは20代まで、という定説があるらしいですからね。僕もそう思っていました。やはり発想の飛躍力だとか馬力だとかは若いうちの方があるだろうな、と。年をとってこれらの衰退をフォローアップしていくのは経験だったり努力だったりするのだろうな、と。しかしこの最終定理を証明した数学者は40代。彼のことをすごい、と思いましたが、と同時に人間の可能性はいつだって残ってるんだよね、と思ったのでした。 なぜ突如「フェルマーの最終定理」を持ち出してきたのか?それは、この証明がまさに「背理法」によって導き出されているからです(感動的にキレイにまとまりました<自画自賛)。 This essay is inspired by pooh. 2000年11月30日 |
. | 001128 洗い中。 |
たまに実験が早く終わり、まだ日があるうちに外に出ると、夕焼けを見ることができます。その、水気をたっぷり含んだ水彩絵の具で引っ張ったような西の空の淡いオレンジのラインと、天頂の青、そして東の空、ちょうど大学講堂のバックに控える夕闇の紫色という三者に上方180度を包まれて、小さな自分を感じて逆に心は大きくなります。いちょう並木の下に積もる黄色い落ち葉と、行き交う人々の黒、茶、灰のコート。これらすべての冬の色たちは沈黙しつつも赤や緑や白という年の瀬の華やかな色の出現を予感させます。寡黙な振りをして実は多弁な冬の色。この時期の人の心が妙にせわしなくなるのは彼らの所為なのかもしれません。 それはさておき(照れている)、寒いのです。なんだバカヤロ(お、ビートたけしだ)、こんちくしょう。この季節、なにがツライかってえと、食器洗いなのです。僕んちは温水なんてコジャレたもんは出ないですから、とびっきりの冷水で食器を洗わなければなりません。まともにやったら、1分ともちません。指が動かなくなります。死にます(いや、死なない)。そこで一人暮し一年目に僕が講じた防御策が、ビニール手袋でした。厚手の。これをはめていれば冷水の直撃を避けることができて、どうにか食器洗いの任を遂行することができます。しかし一気に完遂とまではいきません。だって手袋を通して伝わる冷たさに、やっぱり耐えきれなくなるんだもん。休み休み食器やら鍋やらフライパンやらを洗うことになりますから、かかる時間は通常の倍です。どうしたって億劫になって自炊する気力は失せます。が、財政事情をかんがみるに自炊はせざるを得ない。でもめんどい。だったら食う量を減らす、というわけで、冬場の僕は例年、痩せます。痩せます。痩せます。おおっと、連呼して女性読者を挑発しているわけじゃありません、ふっふっふ(だったら笑うな)。 さて、食器洗いはかようにして克服(さりとて完勝ではない)してきた僕ですが、今年から新たな敵が登場しました。試験管洗いです。研究室の洗い場がこれまた憎たらしいことに「温水なんか出してやるもんか、ふんだっ」という態度で冷水を勢いよく吐き出しやがりまして(丁寧なんだか汚いんだかわかんない言葉使いだ)、それで試験管やビーカーや三角フラスコを洗わなければならないとなると、これこそほんとに、死にます(いや、死なないんだけどね)。実験で使用した器具のその量たるや、一人暮しの食器の比ではなく、あまたの試験管たちが洗われるのを今や遅しと待ち構えているのを見るともう、げんなりです。しかも、汚れが残っていたらのちの実験において支障をきたすもんですから、念入りに洗い、念入りにすすがなければなりません。一年生時の化学実験の担当の先生曰く、「大腸菌を入れていた試験管を洗浄したあと、水を入れて自分が水を飲めると思うくらいに」念入りに。こういう表現どうかと思いますが、まあごもっともです。泣く泣く洗いますさ、そらあね。ゴシゴシゴシ。いい洗剤使ってないから、お肌も荒れちゃうのよね、いやあね(最近キャラがコワレています。ご用心)。 よっしゃ、第一段落をなかったことにするくらい、勢いよく書けたぞ。しめしめ。 2000年11月28日 |
. | 001126 本について数題。 |
家から徒歩5分とかからないところに、BOOK・OFFがオープンしました。チェーンの古本屋さんですね。これはうれしい。とくに何を買うというあてもなしにフラフラと見て回るだけでも、楽しいからね、本屋さんは。研究室からの帰り道にあるので、ほぼ毎日立ち寄っています。でもまだ買い物したことはありません。なんだそりゃ。 お金をかける娯楽というのは本くらいのものなのです。しかしいわゆる「理系」という環境にいると、本を読んでいる人というのが周りにあんまりおらず、寂しい思いをしています。僕の本棚でいちばんいい顔をしているのは生物学や中国語の本ではなく、京極夏彦や森博嗣のノベルスですからね。研究室の友達が遊びに来てこの本棚を見ると、「マニアックだな」という感想を漏らします。それほどでもないってばさ。序の口だと思います。もろやんの本棚みたいのこそが、真のマニアックなんです。と、こんなこと言っても通じないんですが(また無許可で登場させてしまいました。スマン>もろやん)。僕に言わせれば「Nature JAPAN」が毎号そろっているあなたの部屋の方がマニアックです。自慢じゃないが理科系の本なんて数冊しかありません。まいったか。まあなんにせよマニアックなのはよいことなのですよ、うむ(唐突に納得してみる)。 僕には悪癖があって、本を読みかけのままで平気で放っておくんですね。数ヶ月でも。で、筋を忘れた頃にまた読み始める。気分が乗れば一日に数冊読むこともあるんですけど。集中力がないのでなかなか一冊を読みきることができません。なのに好きな作家の新刊や魅力的な本はほいほいと買ってしまうので始末が悪い。読みかけの本がどんどんどんどん溜まっていくことになります。試みに、今読みかけでほったらかしにしてある本たちを列挙してみましょう。 今読みかけの本; 手をつけていない本; ・・・ううむ、気が遠くなりそうだ。卒論終わってからだな、こりゃ。『真理先生』なぞ読み始めたのは1年以上も前です。これだけ溜めておきながらも途中で投げ出すのは許せない性質なので、いつかは読破しなければなりません。ならないったらならないんです、ふんっ(なんでキレるんだよ)。しかし焦点の定まらない本棚だこと。この人は一体何を目指しておるのか、どこへ向かうのか、謎。『ES細胞』がオチっぽく位置付けられているあたりが自分の専門分野とは思えません。 とかなんとか言いつつ今日から瀬名秀明『八月の博物館』を読み始めたのです。しょうこりもない。 2000年11月26日 |
. | 001122 セックス・ディファレンシャル。 |
男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。 〜紀 貫之『土佐日記』
昨日の日記は、前フリです。そうします。そうさせてください。 「もしも性を異にして生まれてきたなら」 こういう想像、誰しもがしたことがあるだろうと思います。僕は男ですから、「もしも女に生まれてきたなら」と、ときどき想像を働かせてみせます。僕の場合女性に生まれてきていたほうが自分の特性をより生かせたんじゃないか、と思ったりもします。なんちゅうか、男が求めるいわゆる「いい奥さん」になれる自信は、あります、はい。だけども、「女に生まれてたらよかったな」とまでは思わないのです。男がどう、女がどうという問題ではなく、自分に与えられた性を楽しまなきゃ損だね、と思うからね。いちゃもんつけても始まらない。 しかしながら女性が、「男に生まれてきたらよかったよ」と切に言っているのを耳にすることは、その逆に比べて多いのです。近いところで言うと就職活動をしていた友達とか、あるいはすでに会社で働いている友達とかから。これはやはり男女の社会的地位の現実、という問題があるのでしょう。多くの社会は男性上位にできあがってますから。ん?おおおっと、ここで通り一遍なフェミニズムを語るのはやめましょう。大上段から説くことは苦手です。あ、だけど一言だけ。 僕は「男らしさ」を強要されるのも、 「君は女性崇拝論者(フェミニスト)なのか?」 〜京極 夏彦『絡新婦の理』
さて、転換。もっとやわらかいところから攻めましょう。異性に対する憧れ、というのがありますよね。身体や、しぐさや、言葉や、表情。もっと漠然としたところで雰囲気や感覚。これらのうち、自分の属する性が持ち得ない部分に対し、注目します。だけど不可解だから、興味を持ちます。だから異性に、魅かれます。 男である僕は女性の感性、表現に、憧れます。自分の思いもよらない方面から物事を見、考え、発する。できないから、挑戦してみたい、と思いました。 さて、ここで昨日僕が書いた詩を分析してみます。自分で書いたんだから簡単に分析できます。僕はただ単に、「男女共有できる感覚」を書いたつもりです。これを「男の言葉」で書くこともできました。だけど、最近北村薫を読み返していることも影響してか、「女の言葉」で書いてみたいな、と思ったんです。別に「女の感覚」を書いたつもりはなく(そもそも男である僕には困難ですから)、「男女共有できる感覚」を「女の言葉」で書いたに過ぎません。北村薫のように「女の感覚」を描くには至りません。 そしてこの文章を表に出して、自分の性を偽る、隠すということができるかな?という遊び心が生まれました。まあ読まれた人は実際の僕自身を知ってる人ばかりですから、鳥肌もんだったかと思われますが(それも狙ってみてたりして)。 あの頃の毎朝の、枕にした頬ずりくらい気持ちのいいものはなかった。髪の毛が額や耳をすべり、なじんだ枕は私の顔の形をはっきりと覚えていてくれた。 〜北村 薫「織部の霊」(『空飛ぶ馬』)
こんな風に、「性で遊ぶ」こともできるんですね。特にネット上では。見せかけの匿名性よりも「匿性性(造語)」の方が実は保証されている世界ですから。ネットの他にない特性のひとつとして、性を利用するも、あるいは、性を隠すも、この選択権が本人に与えられていることが挙げられると思います。自分の特質で、勝負できるんです。自分の特質を、見てもらえるんです。性というフィルタを除外して。チャットで話した相手が、男性だと思ったら女性だった(あるいはその逆)、ということがあっても、「ああ、そうなんだ」これで済むわけです。話している相手が男性であるか女性であるかは、とりあえず関係ありません(ところがどっこい往々にして関係があったりするのが現実ですが触れません。ふっ)。顔も声も筆跡も表に出ない空間。だからこそ、遊べます。 最近3回の日記で、詩のようなものを書きましたが、それぞれ「中性」「やや女性」「女性」の言葉を使ってみたつもりです。成果のほどは・・・ですが。心理学で言うところのジェンダー(文化的社会的性差)には8通りあるということです。セックス(生物学的性差)の2通りだけに縛られることもないよね、と思うのです。 さらには生物学的にも(つまり染色体の分類上)、性はけっして2通りだけではないのですし。 「人間は誰しも男性性と女性性の両方を持ち合わせているのです。これは均衡(バランス)の問題で、そのどちらの度合いが強いか、どちらが顕在化しているのか、そこで個人差が出るに過ぎない。女性性の強い男性が劣っている訳もないし、男だから男らしくて当然と云う決まりもない。それは、ある特定された場所と時間――文化の中でのみ意味を持つだけです」 〜京極 夏彦『絡新婦の理』
2000年11月22日 |
. | 001121 ボーリング。 |
あたしはね、 ボーリング。 あなたの日常と、 それがふたりになるってゆうこと。 あなたの世界と、 それがふたりでいるってゆうこと。 今度はね、 2000年11月21日 |
. | 001119 基本スタンスとして。 |
人はみんなそれぞれ だれかにとってはまぶしすぎて 人も自分も好きになる 2000年11月19日 |
. | 001118 思い詰め過ぎるのも。 |
いっしょうけんめい考える。 でもなにか物足りない。 そんなときふと自分を振り返る。 世界がはがれる。 そこで生まれるのが、余裕。 そしたらまた、 2000年11月18日 |
. | 001117 卒論進捗状況。 |
ぱんぱかぱぁん。 なにが「ぱんぱかぱぁん」なんだかと申しますと、卒論を書き始めたのですね。卒業論文。これを提出しなくちゃ卒業できねえというウワサの(ウワサもなにも)。僕の学科の場合正式には卒業研究。「卒業」で「研究」です。かっこいい単語が2つ並んでます。ふふん。 卒論のテーマ、というのがありまして、僕に与えられたのは、「zebrafish(ゼブラフィッシュ)Polycomb相同遺伝子ph2のゲノム構造解析」であります。僕の所属する研究室では、ゼブラフィッシュという熱帯魚の遺伝子の構造・機能解析をおこなっているのですが、この遺伝子の一種であるph2のゲノムを解読しようじゃないか、というわけです。 ゲノム 聞き覚えのある単語です。英語にしてみましょう。 GENOME おお、なんか威圧感が増しました。「おれ、ゲノム読んでんだぜ〜」と言うと、なんだか聞こえがいいですね。威張れます。煙に巻くことができます。バイオだとか遺伝子だとかDNAだとかいう言葉の響きのかっこよさに魅かれて生物学に足踏み入れてよかった(本音)。 ゲノムというのはつまり、遺伝子の全て、ということです。実際に機能している遺伝子も機能していない遺伝子もみんなひっくるめて、全部。「ヒトゲノム計画」というのが2000年の6月に終了しましたが、これはつまり、ヒトの遺伝子の塩基配列がすべてわかったよ、ということです。塩基配列というのがよく言われるように暗号でありまして、生体内ではこれを翻訳してタンパク質を合成し、身体を形作る物質を生成、維持しているんですね。ですからヒトゲノムが読めた、ということはこれから先、その遺伝子がどんな構造を持っているか、さらにはどういう機能を持っているか、ということの解明につながることになります。この解明により例えば病気の原因遺伝子がわかり、治療法がわかり、医学の方面に寄与することになります。医学にこのように関わることができる、これこそがまさに僕が生物学に興味を抱き専攻することとなったその要因となるものです(前段落の本音に対しこっちは建前)。 で、そのヒトゲノム計画、当初は2005年終了予定でした。それがテクノロジィの進化に伴い加速度的に計画が進行し、予定は早まり早まり、ついには今年、達成されることとなりました。大幅に時間を短縮して。もはや技術としてそんなに大層なことじゃなくなったのです。僕のようなぺーぺーの学生の卒業研究となるくらいだからね。これが15年前なら同様の仕事でNatureとかScienceとかの一流科学雑誌に掲載される論文となるところです。5年前でも少なくとも博士論文や修士論文となるものでした。ですが今や、一学生の卒業研究に、言ってみれば成り下がったんですね。逆に言えばそれだけテクノロジィの進化が目ざましいということです。僕の仕事も現在博士過程の先輩の論文のデータとして提出されるのですからそう思えばやりがいがあるものです。共同研究者として自分の名前もね、載るんですよ。それが楽しみだったりして(いずれ自分が発表することを考えると気が遠くなるので考えないようにしよう)。 最近はデータ集めを卒論に間に合わせるために実験のペースアップをしているのですが、もはやルーチンワークになっているのでやや退屈でもあります。全体の流れは、「目的のDNAを捕まえる>大腸菌に入れこんで増殖させる(目的のDNAを増やす)>大腸菌からDNAを取りだし、精製する>塩基配列を読む」と、こんな感じ。朝から晩まで、休日も半ば返上。一週間もあっという間に過ぎていきます。卒論のプレッシャーも感じながらだから胃も痛くなりそうだ。ま、やるしかないわなあ。 その締め切りは二ヶ月後。たぶんほんとに危険になるまでは焦らないんだろうな。そもそも夏休みの宿題を7月中に終わらせてしまうような奇特な小学生ではなかったのです(タタミちゃんじゃあるまいし)。追い込まれなきゃ、やらない。締め切り1週間前の自分、キミが大変なことになってるのは今のオレが余裕ぶっこいていたからです。すまん、ゆるせ。そしてがんばって卒業させてくれ。頼むから。ねえ、お願い。見事な他力本願っぷり(ちがうけど)。 そうこうしているうちに卒論のタイトルと自分の名前と所属と目次が書けました。達成感。今日はこれで寝ます。おやすみなさい。 2000年11月17日 |
. | 001113 図らずも2部構成。 |
前回の日記(「昨日の日記」とは言えないのはご愛嬌)で、「日記はフィクション」と書きました。これを書くにあたりその出発点となった自分の過去の日記を読んでいて、ときどき、「自分が書いたとは思えない」という感想を抱くことがあります。「ええことゆうとるがな」とか「おお、かっちょええのう」(内面で発する言葉は岡山弁)とか、ひとりの読者として、素直な感想を抱くわけです(手前みそ全開)。自分の断片であるはずなのですが、放たれた瞬間にやっぱり別物になってるよなあ、とあらためて感じます。ですから、ときどき日記を褒めてもらうと、照れます。どうしようもなく。「いやいや、僕を褒めないでやっておくんなせえ(なんだ、この言葉使い)」と思います。 「日記は、僕自身ではない」 からね。 人はそれぞれにいくつかの小さなコミュニティを持っています。そして演じられる自分というのはそのコミュニティごとに少しずつ違ってきますね。職場での自分、学校での自分。家族といるときの自分、友達といるときの自分。僕の場合には、研究室での自分、クラスの中での自分、サークルの中での自分。それぞれの場において役割、立場、そしてそれに因る発言、行動は違ってきます。すべての場において自己を貫けるような人はそんなにはいません。ある意味で妥協して、周りに合わせて、少し狭められた範囲の中において自己を主張して、存在を主張していきます。それぞれに人格は違うわけです。 森博嗣氏が講演会で、次のようなことを述べられました。 「インタビュアの方に、「先生は二重人格でらっしゃいますよね」と言われましたが、違います。僕はそんなに単純ではありません」 ただひとつの人格でやっていけるほどに、社会は単純ではありません。いろんな場面場面で生まれた各人格たちは、相互監視して、ときには批判もします。頭ではわかっているのに行動に移せないこと、ありますよね。これは人格を越えることができないためですし、過去の自分の行動が理解できなかったり嘆いたりするのは、人格が入れ換わっているためです。これは程度の差こそあれ誰しもが持つ「心の防御機構」です。心のチャンネルを切り替えることで結果として直接に届くダメージを緩和しているんですね。この機構の振れが大き過ぎたり、そのチャンネルの誕生時に強い心的衝撃が加えられたものであると、心理学の言葉で言うところの「解離性同一性障害」となるわけですが、これに関しては僕が誤解をしている部分もあると思われ、そんな状態のまま書き連ねることは危険なのでここで休止。「障害」に至る以前のレベルの「人格」は、「性格」と言葉を置き換えた方がいいかもしれません。 参考文献は・・・忘れました(ダメじゃん)。 ・・・で、見事に話が脱線しました。つまりは、僕は周囲に対応していろいろとキャラクタを換えています、ということなのですが、そんな中、ここ一年でまた新しいキャラクタが誕生しまして、コイツには幸いにしてかどうなんだか、Ranaという名前が与えられました。ネットの中での自分、です。ハンドルネームというやつですね。これが自分の本名に近いものであったなら話は少し違ってきたのかもしれませんが、このようなかけはなれた一個の名前を与えられると、それこそ「人格」の誕生に近いものを感じます。Ranaが一人歩きしている、と感じることもあります。 僕自身(Kとします。夏目チックでいい感じ)と、Ranaとは、別物です。そう認識しています。Kは、Ranaほど社交的ではないし、多弁ではない。Ranaほど真面目に悩まないし、きれいな言葉も連ねられない。「Ranaって、けっこうがんばってるねえ」と、Kは思うわけです。で、彼がいちばん活躍しているのはこの日記においてであるのですが、ここにおいて彼は、Kをかっこよく加工してくれているんですね。無論Ranaだって僕自身ではあるんですけど、Ranaの言葉がKを勇気づけることがあったりするのだから、おもしろいもんです。そしてKの新生面にも気づかせてくれたりね。オフ会において「らなさん」と呼ばれることには慣れましたが、Ranaの所業を直接褒められると照れるのは、やはりどこかで自分との差異を感じているからなのでしょう。ハンドルネームを用いて自分を語ること、これは「客観視」の有効な手段なのかもしれません。だから僕はもろやんに、こう言いました。 「僕の日記はフィクションとしてお読みください」 それではこの文章は誰が書いてんだか。 This essay is inspired by pooh. 2000年11月13日 |
. | 001108 ビーチサンダルで外出するのはもう限界(ギブアップ)。 |
「僕の日記はフィクションとしてお読みください」 ともろやんに言いました。もろやんは、こう答えました。 「文学研究者たるもの、日記がノンフィクションだなんてまるで思ってないですぜ」 おおおっ、そうかっ、と思いましたね。文学研究者(リフレインすることでもろやんを照れ臭くさせてみる)の言で、「日記=フィクション」という、一般と異にする論に心強い補強がなされました。 日記なんてノンフィクションの最たるもんじゃないの?と思われるかもしれません。が、この議論の前に、「フィクション・ノンフィクションの境界(あるいはその定義)」ということを考えてみなければなりません。もっとも簡単に、「ノンフィクション=事実」「フィクション=事実じゃないもの・虚構」としてみましょう。まず、小説。これはフィクション。文句なし。作者の構築した世界(=虚構)を通してなにものかを語る行為。ですから、どんなに詳細に描かれた歴史小説も(詳細に描かれているからこそ)フィクションであり、巻末に「この物語は、史実を元にしたフィクションです」という但し書きがつくのです。そして、伝記。これはどうでしょう。一見ノンフィクション。しかあしっ(この気合いに意味はありません)、作者による脚色や情報の取捨が介在する時点で、事実から離れますよね。ので、これもフィクションと位置付けられます。ここまでをフィクションとするのに抵抗はありません。それでは、日記はどうでしょうか。ここでの日記は完全なプライベートなものではなく、たとえばHP上で公開することを意図して書かれた、パブリックな要素のあるものとします。このような日記において書かれている事柄は、果たして事実のみでしょうか。そうではないでしょう。事実(書き手にとっての真実)は加工されます。強調、隠蔽。多弁な日記になればなるほど顕著に。表層に現れた情報は、断片的なものであり、ひどく不確かなものになります。つまり、自己によって書かれた自己の伝記、と考えることができます。ですから、こう言えます。日記は、フィクションである。 論をかなりはしょってしまいましたが、もろやんによる『ぐうたら雑記館』の中の『破線のマリス』の書評において実に切れ味鋭く書かれているのでぜひご一読下さい。 それでも書き手は、自分の日記に自己が表現されていることを信じて、日記を発表し続けます。読み手は、受け取った情報に拠って書き手の人となりを想像します。ですがこれは危険なことです。書き手が文章にすべてを託すこと。読み手がわかったつもりになること。こぼれおちた言葉は、その人の断片でしかありません。それをもって書き手はこうだ、と断じることはできません。もしも断ぜられたところで書き手は、「自分の文章(あるいは自分の断片)はこのような感想を抱かれるのだね」と冷静に受け止めればいいことです。これは小説が作家の手を離れて存在するのと同じことです。作品から、作家をたぐりよせることはできない(これを試みる行為には大きな意味があるのですが)。日記を読んで書き手のことがわかったつもりになることも、逆にわかったつもりになられたことに書き手が怒ることも、どちらも通りが悪いことであるわけです。ですから僕は人の日記を読む際に、「日記は、フィクションである」このことを念頭において読んでいます。 その意味で、僕は文章に全幅の信頼を寄せてはいません。文章は、放たれた瞬間に真実から離れ、と同時にその文章自身が真実になります。どちらも真実なのです。メールやチャットやその他オンラインツールのやり取りだけ(あくまで、「だけ」ということです)では、交換された言葉が持つ真実しか、そこには存在しないんです。人のことがわかりたければ、逆にわかって欲しければ、現実(「オンライン」との対比でこの単語を用います)でのコミュニケーションをなおざりにしてはいけませんよね(では、そうすることで人はわかり合うことができるのか?という問題になりますが、「できない」という前提を心すべきである、と僕は思います。これはまた別の話)。これは、メールなどのみに気持ちを託してしまいがちな自分自身に向けての警鐘でもあります。 文章は信頼できない、わけではありません。書かれていること以外の部分で伝えられるものが受け取れるかどうかにより、文章の信頼性は変わってきます。そしてその因子が書き手との距離だったり自身の心の持ちようだったりするんですね。 では、「真実」ってどこにあるんでしょう? しょうせつ【小説】[ノベルの訳語] 散文による文学作品の一形態。作者の奔放な構想力によって構築された虚構の世界の中に登場する人物の言動や彼らをめぐる環境・風土の描写を通じ、人間の生き方や社会の在り方について作者の考えを強い感動や迫真性をもって読者に訴えようとするもの。 〜金田一 京助『新明解 国語辞典 第四版』
This essay is inspired by moroyan & ten-rock. 2000年11月08日 |
. | 001106 煙草。 |
深夜にベランダに出て 煙草三本分の煙になにかをのせて ちょうど一年前に、目の前に座っていた原田宗典氏が吸っていたMarlboroが、強烈に印象に残っています。人が煙草を吸う姿を見て初めて、かっこいい、と思いました。こんな風に吸われる煙草ならば価値がある、と思いました。基本的に煙草の匂いは苦手なのですが、知らないよりは知っていた方が人生楽しいかもね、と思いつつ、月に一度ほどの割合でふかしてみます。悲しいときつらいとき落ちこんだときやりきれないときに手が伸びるから、煙草を吸うたびに過去の思い出がよみがえり重なり、感傷に浸ります。でもそれが心地よかったりします。一本の煙草を吸い終わったときに気持ちに読点が打たれて、心は前を向きます。さてと、と、日常に戻ります。僕にとっての煙草は日常ではなく、脱・日常(おお、なんかかっこええぞ)。7月末に買ったMarlboro LIGHTSはまだ半分以上残っています。これが終わるころまでに打たれる読点はいくつでしょうか。こんな煙草との付き合い方もいいでしょう。 今夜は吸いたい気分だったんです。
2000年11月06日 |
. | 001103 キン消しを人体解剖してました。 |
「分解したい欲望」って、あるじゃないですか。ないとは言わせません。じゃないと話が進みません。だから、強引に「ある」と定義して、先に進みます、はい。 特に男の子というのは、この欲望が女の子よりも強いのでありまして、身の周りにあるおもちゃをとりあえずは分解(あるいは改造)してみたくなるわけです。僕の世代で言えばチョロQやミニ四駆、ガンプラ、キン消しあるいは超合金の合体ロボ。これらを分解してみて改造してみて時にはモータをいからせちゃったり超人レスラーを再起不能にしちゃったりして泣きそになりながらも、その分解(改造)の過程というのは心ときめいていたものです。 対象はおもちゃに限らずちょっとした機械類なんかにも及びます。ラジオとかリモコンとかね。基盤なんぞを取り出しては「おお、カッケエ」と満足の笑み。ドライバー一本でなんでもできる気になります。ですがここが落とし穴。分解なんてのはけっこう簡単にできるもの。問題は、それを元に戻すことですよね。いったん外に飛び出た部品たち。きっちり中に収まるはずなのに収まりきらない。無理やり押しこめてフタをすると、パキッと不吉な音。よく見るとケースが破損してたりケーブルが切れてたり。そして親に叱られる。こんな幼少時代を、男子たれば過ごしてきたはずです。だけど「分解したい欲望」は忘れたころによみがえり、同じ過ちを繰り返す。これも常です。 さて、以上、前フリです。その欲望がですね、先日、ふつふつと沸きあがってきたのです。対象は、今、モニタの前にいるみなさんの手元にあるものです。それではご紹介します。 テンテロリン♪今日の実験台はっ♪ 「iiyama製・日本語112キーボード(PS/2)S/N000327138(Made in China)」 ドーン・・・・・。 ・・・いや、あのですね、ふとキーボードをひっくり返してみたんですね。するとネジ穴がね、8つほどあったんですわ。でね、近場になぜかドライバーが転がっていたんですよ。でね、幼き日のときめきが、こう、よみがえって、たちまちのうちに8つのネジを外してましたさ。クルクルクル〜ってね。で、パカッて開けてみました、キーボード。 んん〜、予想はしてましたがけっこうシンプル。基盤があって、キーがあって、その間にクッション的な役割をしているゴムが各キーごとにくっついている。このゴムが基盤に触れて、信号が発信されるんだね。・・・ん?このゴム、取り外すことができるのね。ふんふん、なんかふにゅふにゅしてて感触がいいね。あれ?なんか知らぬまにゴムがぽろぽろと落ちてってるなあ。あっ、ヤバイっ、これ以上外れたら元に戻すのメンドいぞ。ふがっ、また落ちたっ。あっ、うっ、はっ・・・。 ・・・あたふたしてる間に、ゴム全部(112個)、こぼれ落ちました(アホだ)。このゴムを拾って1個1個元に戻していく作業のむなしいことむなしいこと。ふにゅ(つまんで拾い上げる)、ぴと(はめ込む)、ふにゅ、ぴと、ふにゅ、ぴと・・・。こんなことやってる深夜3時の大学生は史上初だと思います。 100個以上のゴムを拾い集め、はめ込んでいったとき、うっすらと危惧していた事態に気がつきました。・・・足りない。視界に入る落ちているゴムの数と、残るキーの数が合致しません。ゴムのほうが4、5個足りなさそう。ぶちまけたときにどっかに転がっていったのでしょうか。ゴムがなければ必然、そのキーは使用不能になります。瞬間、次のようなことが頭をよぎりました。 もしもどうしても見つからないという事態になったとき、どのキーを犠牲にしよう。 内心けっこう焦っているのですが、落ちついたフリをして部屋の中を捜してみます。だって、こんなことで焦ってる姿を見られたら(見られないけど)、赤面どころの騒ぎじゃありません。そして捜しながら、「犠牲になってもらうとしたらやっぱり、2つある[Ctrl]キーとか[Alt]キーとか[Shift]キーとかかなあ。おれの場合これらは左側しか使わないから右は別になくてもいいよな」「あるいはファンクションキーなんて使わないかも。[F1][F2]なんて使ったことないぞ」「意表を衝いて[V]キーを使用不能にするなんてどうだろう。使用頻度少ないぞ。あっ、でも「ヴァイオリン」とかって表記するときに困っちゃうもんね」なんてことを考えてました。いや、まあ、全部見つかったんですけどね(なんだつまらん)。で、無事復活したキーボードを今、使用しているんですね。 図らずも、「分解、そして苦労の末に元に戻す」という懐かしい感覚に浸りました。わくわくどきどき。え?僕ですか?今年、23歳です。男の子です。文句ありますか?ないですね?(今日は強引に進行させていただきました) 2000年11月03日 |