■ 2001年9月

. 010926 北村薫小論。

 前にも書いたけど(010212)、僕が本を読み返すことは少ない。性分として本は丁寧に取り扱うし読み終わった本は割合大切に保管してあるものの、再び手に取り開くことはそうない。

 そうない、ということは例外があることを示唆しているのであってこの例外こそがまさに北村薫の作品なのであった。

 短編集の一編を読むために、長編の一章を読むために、ことによると一文を探し出すために、文庫本を引っ張り出す。ページを捲る。だから僕の本棚の最前列を陣取っているのは北村薫の作品群なのである。文庫を全部揃えているにもかかわらず古本屋で単行本が100円で叩き売られているのを見るや、即座に購入してしまう。そして読む。単行本の重量を手に感じながら。

 北村薫は、読点の使い方が巧みである。

 巧みである、という言い方は厳密には違うのかもしれない。世に正しい文章と言うものが存在し、正しい読点の打ち方というものが存在するならば、北村薫の文章には読点が多すぎる。一読して違和感がある。だけど、すぐに慣れる。すぐに気づく。物語を大切にし、文章を大切にし、言葉を大切にしているがゆえの読点の多さなんだと。リズムが心地よくなり、一語一語が輝きを放つ。物語の途中でふと立ち止まり、後ろを振り返り確認し、前を向く。読点を置くたびにこの作業をしているのではないか。それは僕たちが時々人生を振り返ってしまう行為に似ている。

 北村薫は、寡作である。

 寡作である、というのは言い換えれば言葉を探している、選んでいる、ということである。次の一語を探すがためにあらん限りの時間を費やす。将棋で言うところの大長考である。幸いにも「10秒…、20秒…」と時間に追われることはないから、北村薫は歩幅を乱すことなく堅実着実誠実に筆を運ぶ。必然刊行ペースは遅くなる。常に最善の一手を模索し熟慮し選択するのが一流の将棋指しなら、常に最善の言葉を模索し熟慮し選択するのが一流の作家というものであろう。そうでなくてはならない。読点の多い作家北村薫は、ゆっくり、ゆっくりと歩を進める。言葉を選びながら。物語を見つめながら人間を見つめながら。

 北村薫は、人間を知っている。

 北村薫の文章は優しい、と人は言う。それは弱さを知っているがゆえの優しさであり、厳しさを内包している優しさである。北村薫は、善意を描く。それは悪意を知っているからであり、許しているからである。人間はどうしようもなく甘くズルく弱い。だけどそれでも愛すべき存在だから、北村薫は描く。作品を読んだ僕たちもまた、人間を愛せるようになる。忘れがちなこの感覚を思い出したくて、また本を手に取る。

 ブームに乗って、人物小論シリーズ第三段。

2001年09月26日


. 010924 終戦。

 しょうがねえなあ。

 と思える敗戦があって、それはある種の爽快感を携える。パシフィック・リーグのこの1ヶ月の首位攻防戦は非常な緊迫に満ち役者が揃い勝ち負けは表裏一体時の運、たとえ負けても必然の負けだったり完敗だったり死力の限りを尽くしたのちの僅差の負けだったりして、試合終了後には

 しょうがねえなあ。

 と、こう思えたのであった。

 ローズに日本タイ記録の55号本塁打を放たれ、中村紀洋に逆転サヨナラ本塁打を浴びた松坂大輔の姿は彼が高校2年の夏の県予選準決勝でサヨナラ暴投をしでかした姿に重なり、それは辛いことだが翌年の甲子園での奇跡を知っている僕はならば来年彼は突拍子もない成績を上げてチームを優勝に導いてくれるのではなかろうかと夢を見る。

 4時間19分。

 決着の瞬間即ち終戦の瞬間をラジオで聴いていた僕は応援しているチームの敗戦にも関わらず鳥肌が立った。うれしかった。

 野球が、面白いかったから。

 拍手を、送ろう。

 秋、この季節までペナントレースを楽しめたのは幸せなことなんだと。

2001年09月24日


. 010910 完璧。

 『天才柳沢教授の生活』(山下和美)という漫画がありまして。

 柳沢教授は、常に正しいお人。道路は右端を歩き、横断歩道以外で道を渡りません。

 その名に“天才”と冠されているからには、彼は“完璧”であることを要求されます。事実彼は“天才”であり、(自身の信念において)“完璧”に振る舞います。そんな彼と、彼を取り巻く“普通”の人々との間の温度差や、軋轢や、ドタバタが、笑いを生み、魅力の素となっています。とは言えこれは作品の魅力の一側面でしかないのですが。ぜひともその世界観を味わっていただきたいところです。モーニングにて不定期連載中。単行本講談社モーニングKCより17巻まで、文庫本講談社漫画文庫より4巻まで。以下続刊(宣伝)。

 柳沢教授。

 しかしながら彼は、漫画の中だからこそ愛すべきキャラクタになっている、という見方もできます。実際に彼のように圧倒的に正しい人間が隣にいたとしたら――どうでしょう。息苦しいような気がします。漫画の中でも、「完璧でありすぎること自体が人間として不完全」という描かれ方をしていますが。完璧はときに人に圧迫を与えます。正論はただそれだけを声高に発しても魅力を帯びません。

 デザインの話をします。

 デザインにおいて、その主たる目的である“人の目を惹くこと”を達成するために、デザイナたちは“いかに崩すか”を考えます。例えば下の三組のデザインを見てみたときに、

 どちらのデザインが目を惹くかは、瞭然です。

 「9分の1のオレンジ色」
 「一片が欠けた三角形」
 「不完全な"E"」

 これらが心に印象として刻まれます。異端であったり、欠けていたり、不完全だったりすることが、完璧であることよりも効果として上なのです。無論“完璧の美”というのもあるのですが、それを想定した上で、あえて崩すことをよしとするわけです。

 話を人間に戻します。ものごとにあたるとき、ただがんばること。人に接するとき、ただ潔癖であること。これらは実は簡単なことで。デザインが魅力を獲得するために必要な要素であった“崩し”として機能するのが人間においては“笑い”ということになるのではないでしょうか。もっと大きく言えば、“笑い”を介在させられるだけの、“余裕”。

 ただ真面目にあるだけでなく、ただ主張するだけでなく。がんばる自分、潔癖な自分を笑い飛ばし突っ込みを入れるだけの“余裕”があったら――強いですね。そして実際、いま表現者として一流と呼べる椅子に座っている人々は、“笑い”を巧みにコントロールできている、と思います。易しいことではないですが。

 エレガントというものは懸命に努力して最高に良い状態を目指してもそこには決して生まれてこない。むしろ自分の美点や長所を知りぬいた上でそれを抑制するか、あるいはちょっぴり破たんを加えてやるくらいの姿勢から生まれてくるのである。

原研哉 『マカロニの穴のなぞ』

 生真面目な顔をして、
「とにかく一生懸命やってますッ!」
 と頑張るばかりの人の多くは、確かに二流どまりであるように思える。一生懸命やるのは当たり前のことで、その上に“笑い”が加味されないと、一流への階段は昇れない。

原田宗典 『楽天のススメ』

2001年09月10日


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