■ 2001年6月
. | 010629 I want to ride my bicycle. "bicycle"のつづりを調べなおしたことはどうかご内密に。 |
自転車を買いました。 なにを今さら? てな話ですね。もう東京生活5年目です。買うんだったら早く買っとけよ、と。基本的に歩くのが好きなもんでね、「なくてもいいかなあ」 などと思いつつ今の今までやってきましたが、ここに一大決心。大枚一枚はたいて購入しました。主にバイトに行くのに活用するものと思われます。電車代、バカになんないんで。ナニあンた、もうじき24にもなろうってのに自転車一台で大騒ぎしてンのヨッていう、ご無体なことは言わないで下さい。そらクルマや単車の話の一つや二つしたいですけどね、知識ないし、興味ないし、免許ないんですよ(3ない運動)。 ところで僕は、自転車に初めて乗ったのが中学3年のときでした。遅いですね。「みんなが乗ってるからヤだ」 と、わけのわからない理由で練習を拒絶してたもので。高校で自転車通学になるから、と、やむを得ぬ事情でシブシブ乗るようになったんですが、これがアータ、めちゃめちゃ楽しいじゃないさ。「なんでもっと早く乗らなかったんだろう?」 と、ちょっぴり後悔したりしなかったり(どっち)。 自転車に乗ってちょいとがんばれば、それまでは親の車や、バスや、電車で行っていた場所に、自力で行けます。これ、感動です。海に浮かぶ島と島だと認識していた二地点が実は地続きだったのだね、と気づいてアラビックリ、てなイメージですな。ロールプレイングゲームのように、自分の中の世界地図が次々と改訂更新されていく気分。あちらこちらに出かけましたさ。自転車という利器を得たのが遅かっただけに、自転車で移動することの楽しさに敏感だった気もします。遅く生まれた子ほどかわいいのと同じ理屈でしょうか(違うような)。 そして本日、僕はこの東京の地にて自転車を手に入れたのであります(仰々しい)。はしゃいで、いろんなところに行っちまうものと予測されます。手始めに新宿まで行ってきて、今帰ってきたんですけどね(現在A.M.5:20)。さっそくはしゃいでるし。行動が大人じゃありません。こんな僕でいいですか。いいんですね? ありがとう。 自転車こいで 海を見に行く JUDY AND MARY 「自転車」 連想にまったくヒネリがありません。 2001年06月29日 |
. | 010624 投票にいそしむ。 |
今日は東京都議会議員選挙である。 小泉政権発足後、政治に耳目が注がれる中おこなわれる初の大型選挙。衆院選、参院選、知事選に比べたら地味ではある。だが選挙に地味も派手もない。東京に住民票を移し、東京で成人を迎えた僕も決して棄権はしない所存だ。「めんどくせえや」なんて一抹も思ってやいないさ。これは面倒くさいとか興味がないとかいう以前の問題で、国民の義務であり権利なのである。この義務を遂行し、権利を行使しなければならないのである。 と、いうわけで投票会場に行ってきた。 水道橋場外馬券売り場。 今日は宝塚記念(GI)である。 競馬のオールスターゲーム。これに投票せずして競馬ファンは名乗れない。本場阪神競馬場まで赴き、投票したいところだが、それがかなわない身なれば馬券売り場に設置されている巨大スクリーンの前で競馬場の雰囲気、匂いの何割かを身体に感じながら投票結果を確認したくなるのが人情というもの。そこで足を運ぶ水道橋。見よ、この投票にかける心意気。ああお母さん、投票ってこんなに楽しいものだったんですね。 この投票、「投票したいなら金を出しやがれ」と言われるところが唯一の難点である。だがこのお金は、開票後に何倍かになって返ってくることになっている。その予定。もしかしたら賭け捨てになってしまう可能性も少しはあるのだが、投票させていただくのならばこのくらいのリスクはあってしかるべきである。リスク有と言えども投票する者非常に多し。斯様に投票というのは魅力的なものなのである。棄権なぞもってのほか。 このレースに出走する馬たちをご紹介しよう。 堂々王座に君臨し、このレースに多くの記録更新がかかるテイエムオペラオー。 この顔ぶれである。近年強馬が早々に引退、リタイアする傾向があり、絢爛豪華これぞグランプリレース、とまでは言えないかもしれない。セイウンスカイ、ナリタトップロードの名前がないことも残念だ。だがしかし、そこは半期に一度の祭典。競馬ファンを惹きつけるだけの魅力は十分に備えている。僕も一週間前から情報収集と投票馬の絞り込みに余念がなかった。都議選なんざ知ったことか(←あっ)。 厳密に言えば僕に投票権はない(学生・生徒又は未成年者は、勝馬投票券を購入し、又は譲り受けることはできません)が、オグリキャップの頃から競馬を見てきて、大学1年の頃から投票行動を繰り返してきた僕は投票のベテランである。だから問題はないのである。心配せずに任せてくれたまえ。むしろ投票権がないにもかかわらず投票しようとの気概を見せるこの姿を誉めてくれたまえ。 結果。テイエムオペラオー、道中不利を受け減速、盛り返すも2着止まり。先行していたメイショウドトウがオペラオーの急襲をかわしゴール板を最初に懸け抜けた。悲願の戴冠。結果だけを見れば固い決着。だが着順掲示板だけからは読み取ることができないドラマがある。僕は保険で投票していた馬券で収支プラマイゼロ。メイショウドトウ、おめでとう。テイエムオペラオー、君の戦歴は決して汚れない。競馬よ今夜もありがとう。 いや、都議選も投票しましたよ(フォロー)。 2001年06月24日 |
. | 010621 ただでは起きないことにします。 |
Hey ! Yo ! 読者さまのお一人から、メールが届いたゼッ。チェケラッ(なんか間違ってる)。 こんにちは(こんにちはっ)。 いつも楽しく拝見しております(ありがとうっ)。 17日の日記で私、気づいたことがあるのですが(ん? 「(笑)」について書いたときだね? なにかな?)。 らなさん、この日記の中で、 ウッカリタカノリも唄っております。「(笑)-カッコワライ- も一度くらいあっても」と(HOT LIMITTE)。 って書かれてますよね?(うん、書いた書いた) その個所についてなんですけど(なんだい? 気を持たせるねぇ)、 ウッカリタカノリの(笑)は、「HIGH PRESSURE」です(・・・ぐはっ)。 それと(え? まだあるの?)、 リミットのつづりは「LIMIT」です(・・・あっ)。 私、レボレボファンクラブ会員でしたから、こんなところに気づいてしまいました(なっ、そ、そうでしたね。失礼しました。いやマジで)。 らなさんのミスは珍しいですね。それともわざとだったのでしょうか?(いや、んなわけない) それでは、これからもがんばってください。失礼しました(あっ、は、はい、がんばります・・・)。 ・・・。 (テンション急降下) (赤面) (言い訳) い、いや、「HIGH PRESSURE」か「HOT LIMIT」かって、迷ったんだって。最初は正しい方書いてたくらいだし。何度か繰り返し唄ってみて、よし、こっちだ、って、逆選んじゃったんだね。違ったね。「HOT LIMIT」は、「ナマ足 魅惑の マーメイド」だったね(振り付きで)。でもさ、大体さ、紛らわしいんだっつの、どっちも夏の曲だし頭文字"H"だし(逆ギレ)。 あとね、「リミット(limit)」問題だけどさ、「カセットテープ」の「カセット」="casette" じゃない? だからさ、この勢いで「リミット」="limitte" だぜ、って、思い込んじゃったんだよ。確認しなかったね。こりゃまいったね。 (言い訳終了) 恥ずかしい(特に2個目のミスが)。 この直後の日記の中に、こんな一節があることが、恥ずかしさを増幅させる。 書き上げてからの推敲は多く回数を重ねます(なにしろ几帳面)。とりあえず誤字脱字、文法の誤りという根本的なところをチェック。 かっこいいこと書いてるのに、説得力木っ端微塵。 どうも最近いろんな方面でボケをかましています。ねえ?>ぷーさん 2001年06月21日 |
. | 010620 団体行動は苦手なんですけれども。 |
妹(高校2年生)が、修学旅行に行くらしい。「ほっほう、どこへゆくのだい? 妹よ」と訊いたら、「北海道で御座いますわ、兄様」と答えた。 なぬ? ちょっと待て。 北海道? 北海道とは何事だ。 おれの高校の修学旅行は東京だった。「最初で最後の東京になるやも知れぬ」と、悲壮の覚悟で乗り込んだってもんだ。府中東京競馬場に行ったよ。競馬博物館で鼻血出したよ。東京ドーム行って清原(当時西武ライオンズ)グッズ買い漁ったね。新宿副都心の高層ビル群を見ておったまげたってもんさ。まさかのちに5年も住むことになろうとは思わなかったけどね。なあ、兄さん(いない)。 それがなにさ、妹よ。キミは北海道に行くってのかい。なんかうらやましいぞ、このやろう。いや、別に東京が悪いとかそんなんじゃなくてさ、「北海道」っていう響きがいいじゃないさ。ねえ、もろやん(札幌在住)。移動距離にしたって倍以上あるしさ。なんかお得な感じ(距離の問題ではない)。北海道に修学旅行っつったら、『天使なんかじゃない』(矢沢あい)みたいでおしゃれだ。冴島翠。スドーザウルス。 で、思い立って母校のホームページへ行ってみたのである。我が後輩たちはどんなことになっておるのか。ありましたとも、修学旅行情報。クリッククリック♪(はぁっ?)。 シンガポールコースを実施しています。沖縄コース等も準備し選べるものとします。 あん? ちょっと待て(2回目)。 シンガポール? シンガポールとは何事だ。 海外進出ですか? しかも沖縄との2択ですか? なにおれが卒業したあとでグレードアップしてるんですか? 陰謀ですか? いや、別に東京が悪いとかそんなんじゃなくてさ(これも2回目)。外国に修学旅行だなんて、マンガの世界のお話かと思ってたんすけど。移動距離桁違いだし(これも問題ではない)。公立校のくせに背伸びしやがって(言いがかり)。でもその分金も余計にかかって大変そうではあるな。うん、だから東京でよかったのさ。財布にやさしく。楽しかったし(無理に納得) 。 そしてつい先ほど、再び妹からの電話。どうやら明日出発らしい。妹はこう問うた。 「兄様、お土産はなにがよろしゅう御座いますか?」 「ふむ、妹よ、兄は六花亭のバターサンドを所望す」 「わかりましたわ、兄様」 楽しみだ。 2001年06月20日 |
. | 010619 10ヶ条らしい。 |
日本最大のテキストサイトである「侍魂」において、管理人健さんが規定する「ネタ系テキストサイト10ヶ条」が発表されていました(6/18の「想」)。僕のサイト、「ネタ系」であるかは疑問ですが、「テキストサイト」とは呼べるかな、と思いますんで(大概のサイトはそうなんだけど)、この10ヶ条を紹介しつつ自分の姿勢・方向性をあらためて考えてみることにします。 1 頻繁な更新 昔は更新が遅いことが売りになってましたけど(それ、売りじゃない)、どうやら更新ペースというのがつかめたらしくて、3日にいっぺんくらいは更新できるようになりました。追い込まれると弱くなるタイプですから、「更新しなきゃ」とは思わないようにしてます。更新したくなったら(即ち書きたくなったら)、します。足を運んでくださっているみなさんのためにもできるだけ頻繁に、とも思うんですが、毎日更新は、現段階では、ムリです(きっぱり)。 2 実生活をおろそかにしない なにより実生活が大切なわけで、これがおろそかになったら本末転倒。もちろん生活が侵食されることがないようにしてるつもりですが、時間的な面で見ると少し関わりすぎかもしれません。 何をして「実生活」と定義するのかも問題です。じゃあサイト更新は実生活ではないの? と問われたらどうでしょう? 実生活の一部と言っても差し支えないかと。 3 手法よりも基本はネタ探し 僕はネタよりも手法にこだわっています。ネタの独創性や発想の瞬発力には自信がないです。ネタ勝負になったら、勝てません。ですから、書きたいことを、どういう形(形態・文体・長さ)で提示したらよりおもろくなるかな? ということを念頭に文案を練ります。実際に書き始めてから、頭の中で想定した形からはみ出ることはしょっちゅうですけど。 あと、ネタ探しについてですが、日常生活においてネタ探しを意識することは一長一短です。ネタを求めるということは感受性をオープンな状態に保つということで、アンテナを数本伸ばしている状態ですから、漫然としてると見過ごしてしまうことに気づくことができます。しかしネタ作りのために行動する、ネタを無理やりひねり出す、というのは出発点としては間違っていると思います。 4 自分の型に固執しない 同じパターンの日記は続けないことを旨としています。おかげさまで統一感がまるでないテキストの集合体になっています。書いたことのない文体・雰囲気に挑もうと模索中。自己模倣に陥らず、好意的な評価すらも(いい方向に)裏切ろうと思っています。言ってみれば、「過去すべてがネタフリで、現在がオチ」というのが理想です。飽きっぽい、っていうのもありますけど。 とは言え個人の能力には限界があります。自分の中では改革を繰り返しているつもりでも、全体として見たときにはひとつの色が浮かび上がってくることでしょう。これが個性であり、これを拒否するものではありません。 5 自信のあるネタは安易に出さず推敲を重ねる 推敲は、します。かなり。書き出す前に頭の中で寝かせることも重要で、ネタを何個かストックしながら日常生活を営んでいると、ふとしたときにリンクする事象に出くわすことがあります(本を読んでいて引用できる一節に出逢ったり、エピソードとして挿入できる話を思いついたり)。 書き上げてからの推敲は多く回数を重ねます(なにしろ几帳面)。とりあえず誤字脱字、文法の誤りという根本的なところをチェック。その次に文章全体のリズムを整えて、余分な個所は削除。これを経ると元となった文章から何割かのダイエットに成功します。アップしたあとでも、ちょこちょこと変更してます。ここまでくると自分だけの世界に入っていきます。いやもともと自分の世界なんだけど。 6 鉄の心で決して挑発に乗らず、何を言われようと知らぬ顔で更新する 幸いにして来てくださる方に恵まれてますんで、大禍なくここまでやってきております。もしもこんな事態に遭ったとしても、僕は図太い(ていうか鈍い)ので、冷静に対処できると思います(そして内実は何も感じてなかったりする)。知らぬ顔は、得意ですし。 7 人を不快にさせる事を目的としたテキストは書かない 当然ですね。「目的として」というのは論外だし、「意識しないうちに」人を不快にさせる内容になってないかな? というのは推敲する際のポイントです。「不快にさせないように」というのは基本中の基本姿勢。最低限この意識を保ちつつやっていきます。だけど実生活と同様、誰も不快にさせないで活動することなんて不可能ですから、あんまり気にしていてもしょうがありません。このへんの開き直りもありかなと。 8 早朝深夜に書いたテキストは、後で読むと死ぬほど恥ずかしい時があるので注意する 基本的に早朝深夜にしか書かないので、毎度恥ずかしいです。 9 管理人が楽しめなくなったら、もはや終わり そうですね、自分が楽しいからこそ、続けています。苦痛になったら、やめます。日常的に文章を書く環境に身を置いていたら将来的に役に立つかな? という目論見も、あります。もちろん。 10 やっぱり宗教ネタは止めておけ(泣) これ、宗教ネタを持ち出すと話がこじれるという問題以前に、僕が宗教さっぱりなのでそもそもネタにできません。 以上。 2001年06月19日 |
. | 010617 かっこつけてみよう。 |
(笑) のっけから笑ってみました(笑)。ゴキゲンです(笑)。この「(笑)」、元来雑誌のインタビュー記事や対談記事における発言の語尾に用いられ、場の雰囲気を伝えるのに一役買ってきました(笑)。これがWeb上の文章にも導入され、幅をきかせることになりました(笑)。特にチャットや掲示板において、発言の語尾を整え、語調を和らげ、距離感覚がつかめない相手との対話の緩衝材として機能しています(笑)。「これは冗談ですよ」という予防線であり、「ここ、笑うトコだからヨロシク」ということを示すオチの道しるべであり、と同時に「ちゃんと吟味した末の発言ですよ」ということを保証する自己検閲終了印でもあります(苦笑)。たったひとつの記号が、多くの意味を所持することになりました(嘲笑)。初めて使ったとき、「おお、なんかインターネットやってるっぽいぜ」と浮かれたものです(冷笑)。もしも過去の自分の発言の「(笑)」をすべて削除してみたら、ひどくつっけんどんで素っ気ない物言いに変貌してしまうことでしょう(失笑)。もはや用いずして会話を円滑に進めることはままなりません(破顔大笑)。ウッカリタカノリも唄っております。「(笑)-カッコワライ- も一度くらいあっても」と(HIGH PRESSURE)。ただし使いすぎには気をつけなければなりません(微笑)。度を越すと見苦しい(微笑み返し)。この文章がいい例です(爆笑)。笑いすぎ(大爆笑)。 「(笑)」が浸透したのちに生まれたのが、応用編です(涙)。日本人は応用するのが得意(怒)。そうさ僕らはニッポンジン(泣)。応用するの大好きさ(哀)。語尾にちょこっと付随させるだけで、喜怒哀楽その他様々な感情を込めることができます(喜)。便利(号泣)。だけどこれもまた、使いすぎには要注意(♪)。この段落、感情の起伏激しすぎ(爆)。情緒不安定か、キミは(核爆)。 このように(花)、表現の幅を広げるという意味で(穴)、「(笑)」の発展形はまだまだ可能性があります(秋)。これからも新しい形が生まれることでしょう(食)。とは言うもののこの文章(犬)、だんだん息切れしてきました(右)。ハイレベルになってきました(空)。どう反応していいのかわかりません(北)。今日はこのへんで(光)。ごきげんよう(赤)、さようなら(足)。 2001年06月17日 |
. | 010616 気が滅入りますが。 |
大阪大学の大学院に進学した友人がいて、その彼から聞いた話。 彼の指導教官は阪大付属病院の医師で、先の小学生殺傷事件において凶刃の餌食となり運び込まれた子供を執刀した。術後、医師は語った。 「刃は肩口から真下に向けて身体を貫き、その傷は横隔膜まで達していた」 その子供は、当然――という表現が適当でないのは承知しているが――、助からなかった。 最初にこのニュースを聞いたとき、正直、僕の心には痛みも悲しみも怒りも同情もその他のどんな感情も、沸いてこなかった。テロップで速報が表示される毎に増えていく犠牲者の数を漫然と眺めていた。異世界の事件のようだった。小説かドラマの世界の出来事のようだ、という比喩が一瞬頭をよぎったが、それも否定された。容疑者が逮捕され氏素性が公開されても、心が見えない。動機が理解できない。小説やドラマならば犯人にも心があり、それなりの動機が示される。そうでなかったら成立しない。この容疑者は、自分の腰の高さくらいの身長の――おそらくはそれ以下の――子供の頭上に刃を振りかざし、迷いも躊躇もなく突き刺した。こんな人間の心なんてわからない。そんな、現実から遊離した事件だったから、僕の心は反応しなかった。そう思うことで自分を納得させて慰める。彼に対する法的処置に関して、知識のない僕は迂闊に語れない――感情に素直に従うのならば簡単な話だ――。だが、こんな事件を起こした人間が現実に存在し、多くの犠牲者が出た。その世界は異世界なんかではなく確実に自分の隣に存在した――ことを僕は友人から聞いたことでやっと実感できたのだが――。この事実はどうしようもなく暗く冷たく重く、悲しい。 2001年06月16日 |
. | 010613 素直に。 |
以下に引用する文章は、サークルの後輩がノートの片隅に残していた言葉です。転載の了承を取ってはいませんが、先輩の強権発動で掲載します。文句封鎖。だっておれは先輩だから。 たとえば映画を見たあとに、 これを読んで、「ちっくしょ、うまいこと言いやがる」と思うと同時に、「自分もそうありたい」と思ったのです。サイトに掲載するための文章をアヒルの歩みでちょこちょこと書いていて、よく、「思ったこと」が書けていないと感じます。「思いついたこと」を書いてしまっています。下手に小細工して、饒舌になって、いつの間にか言葉は思いから離れます。冗長になってしまった文章を読み返して、がっかりします。伝えたいことはもっとシンプルだったはずなのに、なんで素直に書けないんだろう? 言葉は、必死こいてひねり出すものじゃないのに。単語を覚え、表現を覚え、技術を習得するうちになにか見失っているような。 「おもしろい」「つまらない」「楽しい」「悲しい」「好き」「嫌い」と、素直に感じ、伝えられるようになりたいです。言葉を探し、修飾を加えるのは、これができるようになってからの話で。 風呂に入るのは簡単なのに、それを文章にするのは何と難しいのだろう と言ったのは、芥川龍之介です。その通り、難しい。けれども簡単に考えて、簡単に書く、この感覚もまた、大切なのです。だから、難しい(フリダシニモドル)。 2001年06月13日 |
. | 010612 男の「洗い髪」って色気のかけらもないですね。 |
紙がのび太。 うーむ、シュールな変換だ。特に「のびた」の一発目の変換が「のび太」になるあたり、さすが藤子不二雄フリークの僕である。あやとりも得意だぜ(いや、それは別問題)。四段バシゴも楽勝(初歩中の初歩)。あやとりオリンピック決勝でのび太くんとの対戦を目指せ。「もしもボックス」を使えばそんな世界の創造もちょちょいのちょい。「もしもあやとりが大ブームだったら」。ふん、ブームになってから練習しても遅いね。前々から得意だったおかげでおれはモテモテ。モテモテ王国(ながいけん)。マスコミに引っ張りだこ。NHK教育で15分番組もっちゃうね。「趣味のあやとり」なんつって。おれは趣味どころじゃなくってプロだけどね。あやとりプロ。頂点はのび太君。こんな世界へようこそ(って言われても)。ドラえもんは泣くね。「おれの手じゃ、あやとりできねぇんだっつの」って(口調まちがってます)。なにせペタリハンド。ごめんね、ドラえもん。これ、まんまマンガのストーリィを拝借してるけど、気にしないように。また誤変換で行数稼ぎやがって。ワンパターン(前例:010219)。では本題。 髪が伸びた。 前に切ったのは3月半ばだから、もう3ヶ月前になる(010316)。5月に染めたときは毛先をそろえた程度だったからな。摂理として過ぎた時間の分だけ着実に髪の毛は伸びるというものだ。前髪が眉にかかっているし、耳も半分隠れている。風呂あがりに洗い髪の水気をバスタオルでざっと拭き取り、ドライヤーをかけながら自分の髪の毛を鏡で見ていた僕は、気づいてしまった。 おれ、ショートカットじゃん(じゃん?)。 あっ、ちょい待て、ブラウザ閉じるな。早まるな。なにも「ショートカット」は女性だけのもんじゃあるまいて。オトコがショートカットって言ったっていいじゃん(だから「じゃん」はやめろ)。おれの髪型をショートカットって言ってもいいのさ。 今の髪の長さ、まさにショートカットと呼ぶにふさわしい。周知のとおり(そうなの?)、僕はショートカットファン。フェチ。ごはん3杯いただけます。ショートカット万歳。ショートカットの女性は210点アップだ。さらに関西弁ユーザーだと70点加算。体躯がコンパクトだったら180点獲得だね。これで合計460点満点(中途半端)。おめでとう、夢のハワイ旅行へご招待(昔のクイズ番組)。 そう、僕はショートカットの女性がお好み(話が進んでません)。そんな理想の髪型の人がまさかこんなにそばにいただなんて(いや、これ、自分)。灯台下暗し(まさに)。よし、ちょっとドライヤーでブローしてウェイビーにしてみよう(カタカナ連発)。 ・・・。 ぬ、ぬあっ、なんかいい具合の髪型なんですけど。浜崎あゆみか広末涼子か。自分に惚れたぜ(ナルシスト)。抱きしめてあげたい(やめて)。これからショート禁断症状になったら自分を見ればいいって話だ。安上がりだね(安いの?)。ショートカットフェチの男性諸氏よ、おれを見ても惚れるなよ(いやマジでやめて)。 というわけで(強引にまとめる)、現在の僕のヘアスタイルはショートカットです。 どうよ。 2001年06月12日 |
. | 010608 色。 |
パレット [palette] 絵の具を交ぜ合わせるための板。調色板。 新明解国語辞典 第四版
「パレットはね、きたなくなればなるほど、いいんですよ」 小学校の図画の時間、指導にあたっていた先生が、こう言いました。この言葉のウラには、「たくさんの色を使いなさい。たくさんの色を混ぜなさい」という真意があります。子供の奔放な色使いを促進するためには適切なアドバイスです。と、今なら理解できますが、当時の僕にはムリでした。「そうか、きたなくしていいんだ」と、「きたなくすること」のみに執心しました。結果、パレット上には黒褐色、鈍色、暗灰色、どどめ色が虹を織りなすシュールな世界が展開されました。これらの色を画用紙に運ぼうとした僕を、先生はやんわりととどめました。「パレットを洗ってきた方がいいわね」とたしなめました。内心、「この子、やりすぎ」と思っていたことでしょう。先生に説明されて、やっと発言の真意を理解し、パレットの正しい使い方を知った僕。あのまま絵を描かせていたら、きっと精神鑑定で「感情表現、情緒に問題アリっぽいっす」という結果が出る、笑えない絵が完成していたことでしょう。それは事前回避されました。山田先生、ありがとう。 パレット。その上には様々な色が散り、層を成し、混ざり合い溶け合います。筆の持ち手が作品と同時に作り上げるもうひとつの世界です。たとえ12色しかない絵の具でも、作られる色は人の数よりも多い。「無限の可能性が広がる」というありきたりな表現もピタリです。 「いい? コバルト・ブルー、セルリアン・ブルー、ウルトラマリーン―― ターコイズ・ブルー、プラッシアン・ブルー、インディゴ・ブルー、パーマネント・ブルー。ね、一口に青っていっても、たくさんあるんだから」 加納 朋子 『掌の中の小鳥』
さて僕は今、一枚のパレットを手にしています。僕のみならず、HP作成者はみな、それぞれのパレットを持っています。HPそのものが、パレット。こう考えてみます。HPを作る作業でなにが楽しいって、「どんな色を使おう」と考えるときです。背景の色、文字の色、壁紙の色、画像の色。すべて自分の好き勝手し放題。あ、この人はこの色が好きなんだね、と知ることができます。嫌いな色をわざわざ用いる人はいません。ディスプレイ上に色が乗せられ、各色が主張しつつ他を引き立てつつ全体を構成します。まさにパレット。 以前、"名前"がそのHPの雰囲気を作り上げる、といった趣旨のことを書きました(010308)。これと同じく、コンテンツに踏み込む前の段階でHPの雰囲気および第一印象を決定づける要素が、"色"ということになるでしょう。寒色を巧みに用いている人、暖色を巧みに用いている人。淡色で統一している人、Vivid colors(ラルク)で統一している人。あるいは統一感とは無縁でも絶妙な配色を示す人、モノトーンで攻めてくる人。比喩的な意味でなく、まさに作者の"色"が発揮されます。これらの色は作者の印象そのままだったり、まったくかけ離れていたり。内面の色を反映していたり、内面が求める色を知らぬうちに用いていたり。色が漏れ出る過程も結果も理由も根拠も人それぞれです。 「本当に好きな色があれば、いいんだけれどね。なかなか、そうもいかないから調合する。―― 黒にしたって、それぞれのインクに個性があるのよ。それを合わせて、自分なりの黒を作る」 北村 薫 『ターン』
ただしパレットと異なるのは、「色を混ぜ合わせる作業」ができないという点です。しかしこれは、絵の具では到底不可能な選択肢の幅広さで補われます。例えば僕が自分のHPで多用している色、"navy"は、カラーコード"#000080"ですが、これは赤を0、緑を0、青を(16進数で)80の割合で混ぜ合わせた色、ということです。赤、緑、青、それぞれに階調が00からffまで(10進数に変換すれば0から255まで)設定されていますから、"256*256*256=16,777,216"、約1700万色の絵の具を―― あらかじめ渡されていることになります。 1700万の中から、色を選べる。自由に。こんな贅沢な環境。小学生のころの僕が見たら―― 羨ましがるでしょうね。そして、こう言うことでしょう。 「僕だったらもっと楽しい遊び方を思いつくのに」 "色"という視点でもって、各人のHP巡りをしてみるというのも、面白いのです。
「絵の具の名前を覚えるだけでも一苦労しそうだな。なんだってこんなにたくさんあるんだ」 「世界が色で構成されているからに、決まっているじゃない? 絵を描いてるときよく思うんだけど、この世にあるものは何でも、色で表現できるのよ。どんなものでも、その本質を表すイメージカラーがあるっていうか」 「それは人間もかい?」 「もちろんよ」 加納 朋子 『掌の中の小鳥』
カラーチャート集 2001年06月08日 |
. | 010605 空。 |
空が青かった あたりまえのことに感動してしまったのは 「目に映るということと見るということは違うんだね」 いつもの通り道の街路樹の 街路樹の葉は繁り ただ通り過ぎるべきものとしてしか存在していなかった軒並や そして 空を見ました 青かった たぶんずっと青かった 目に映っていたのに 見てなかったんですね 空の青が安心を与えるのは 誰の上にある空も青いから
2001年06月05日 |
. | 010603 やっぱり活字は好きなようです。 |
小学一年生のときの担任だった先生は日誌を発行していた。授業風景、日々の出来事、連絡事項を掲載したプリントで、保護者向けに書かれたものだ。今ならワープロで打ち出しプリントアウトして、人数分コピーしてはい完成、といったところだろうが、当時はもちろんそんな技術は一般に普及していなかったので、ガリ版印刷だった。蝋原紙に鉄筆でカリカリと文字を連ね、これを原本として器械にセットし、黒インクの染みたローラーをコロコロと転がしてワラ半紙に一枚一枚印刷していくのである。この作業をその日の日直が手伝うこととなる。教室の床に重ならないように並べていく。インクが乾いたらまとめて先生に渡す。ついさっき先生が書いていた文字が、インクの匂いを伴って大量に増殖していくのを見るのが楽しかった。しかし今にして思えば大変な苦労を伴う作業である。よくも毎日やっていたものだ。 小学五年生のときに、我が家にワープロがやってきた。父が仕事で用いるために購入したものだ。ワープロの一般への普及が始まったか始まらないかのころで、まだまだ高価で物珍しいものであった。父とすれば思い切った買い物だったことだろう。だがそんな高価な機械も子供にすれば玩具である。勝手に立ち上げて「ドラえもん」だの「キン肉マン」だののキャラクタ名をただ列記し、それが画面上に現れるだけで大喜びだった。キーボードもこのときが初体験で、「かな入力」で一文字一文字指先を確認しながら遅々として文字を打ち出していった。さらにこの文字を印刷することもできるのである。自分で打った文字が紙に印字されるのだ。これは嬉しい。しかしインクリボンで普通紙に印刷するのは不経済だと許してくれず、感熱紙に印刷するしかなかった。時間が経つと文字はかすれ、紙は黄ばむ。それが悲しかった。 中学三年生のときに、文化祭においてクラスで演じる劇の脚本を任された。このときには父は新しいワープロを会社から与えられていて、初代のワープロは僕が譲り受けていたので、これが大活躍だった。台詞を書き、ト書きを書き、レイアウトを整え、ページ数を付した。表紙も作った。この上もなく楽しい作業だったが、凝り過ぎて徹夜の作業となった。プリントアウトして学校に持っていき、先生に見せてクラスのみんなに披瀝して好評を博した。僕はクールぶってそ知らぬ顔をしていたが、内心喜悦満面の笑みであった。脚本は学校のコピー機でコピーされてホチキスで簡易製本され、配られた。自分で書き、印刷した文字を、みんなに読んでもらえるのが快感だった。僕はワープロでプリントアウトした原本を自分で製本し、自分専用の脚本を作った。それは今でも実家の机の引き出しに納まっている。 大学三年生の後期に、初めてレポートをパソコンで作成した。それまでは手書きでグラフも表も作成していたのだが、パソコン派に転向してワープロソフトや表計算ソフトを用いてレポートを完成させたのである。慣れないために手書きよりも余計に時間がかかったかもしれないが、完成したレポートには明朝体の活字が並び、内容が貧相でも見栄えはよかった。僕がレポート作成の手段を手書きからパソコンに移行したのはクラスの中でも早い方で、周りにはまだ手書きでレポート作成している者が多かった。だが今では大学一年生が当たり前のようにパソコンでレポートを作成する。手書きの方がマイノリティだ。パソコンおよびその周辺知識の普及の速度にはただただ目を見張るばかりである。この感覚、以前にも覚えたことがあるぞと思ったら、それは携帯電話であった。予備校に通っていたとき、隣に座っていた名も知らぬ同輩がおもむろに携帯電話を取り出し、話し始めた。驚愕した。実際に使っている人を見たのが初めてだったから。僕はポケットベルも持っていなかったし、実際に自分で携帯電話を持つようになったのはそれから二年後、大学二年生になってからである。ところが今では小学生でも携帯電話を持っている。妹は中学三年生のときに買い与えられ、それは周りでは遅い方だったらしい。技術の進歩と普及は人間の歩みを追い越して、常識に断層が生じて世代の隔絶を生む。そういうものか。 今、自分で打ち出した文字が、誰の目にも触れられる可能性がある場所に置かれている。誰でも、自分の言葉を活字にし、公に曝すことができる。これが当たり前になっていて、格別な感慨も沸かなくなっている。でもあらためて考えてみたら、すごいことなのである。僕はときどきこうして「すごい」と思い、なんだかよくわからないけどなにものかに感謝する。それは幼い日の「わくわく」や「どきどき」と同質のもので、この思いに浸る感覚は悪くない。周りには僕と同世代で既に本を出版した者もいれば雑誌に連載を持つ者もいて、それと比べたら僕の喜びなんてささやかなものなのかもしれない。だけどやっぱり喜びは素直に受け入れながら感じながら、新しい活字を残していこう。ガリ版印刷のころも今も、活字を産み出す喜びに違いはないはずだから。 そういった、印刷に関する我が思い出をたどれば、現在、目の前のこの機械、このプリントは、まぎれもなく未来世界のものである。いやはや、進歩というものは、凄まじくも素晴らしく、見事でもあり、また人を置いてけぼりにするものである。 北村 薫 『スキップ』 2001年06月03日 |
. | 010602 だって僕は(カレーの)王子様だから(及川光博)。 |
台所にはあの闘争的なカレーの匂いが充満し、大皿にゴハンを盛るのももどかしい100%純正キャベツカレーの宴が間もなく始まるのである。 椎名 誠 『全日本食えばわかる図鑑』 さて、恒例の3分間クッキングのお時間がやってまいりました(恒例?)。 本日のお題は、「キャベツカレー」 です。ぱちぱちぱちぱち。これは、椎名誠著 『全日本食えばわかる図鑑』 に紹介されていた料理で御座居ます(椎名林檎調<椎名違い)。「一個人」 という雑誌の7月号に 「椎名誠のシンプルな食卓」 という特集がありまして、写真付きで再掲されていたのを読んでいるうちに猛烈に食いたくなりました。そこで今回お題として取り上げた次第であります。 それではレシピのご紹介に移らせていただきます。 ○材料(3〜4人分)
○作り方 簡単ですね? そうですね? キャベツまるまる1個を小さめの鍋で煮るのは難儀しましたが、注意深くかき混ぜ続ければ次第にしなって体積が小さくなり、見事鍋におさまりました。ルーもまた、溶け残りがないようにかき混ぜながらゆっくりゆっくり溶かします。やがてキャベツ満載、幸せ満載のキャベツカレーのできあがりです。あとはしばし煮込みましょう。そしてこの間に、もう一方の主役、ごはんを炊くことにします。3合炊きます。米を洗って研いで釜に入れ水を入れ、さあ炊飯器にセットしようとしたとき、衝撃の事実が発覚。 炊飯器がぶっ壊れている(参照:010518)。 おい、すっかり忘れてたよ。今メシ、炊けねえんだよ。どうするよ、おい。カレー、もうすぐできちまうよ。ごはん、ねえよ。米、研いじまったよ。どどど、どうするよ? 昔炊いて冷凍したごはん、解凍する? でもあれ、炊いたの2ヶ月以上前だよ。冷凍してあるっつっても、食うの少し勇気いるよ。やめとこうよ、今日は(じゃあいつ食うんだ)。え? 日記のネタにするためにわざとボケやったんじゃねえの? だって? 失敬だな、キミ。いや、わざとじゃねえんだって。マジで忘れてたんだって(この段落、爆笑問題の田中でお読みください)。 手元には、ウォーミングアップ完了いたしました状態な3合の米。逡巡していてばかりもいられないので、無理を承知で壊れた炊飯器にセットし、スイッチをぽむっと押してみました。こんな事態のときでも「ぽむっ」とです。かわいいからね(参照:001001)。 ・・・お。あれ? ちゃんと動作してるっぽい。半月の間に自然治癒したのかな? なんだ、炊飯器、生きてんじゃん。これなら大丈夫だね。底が溶けてるからちょっと斜めってるけど、気にしないようにしよう。炊き上がるまで30分くらいだね。そしたら幸せのキャベツカレーが食えるんだね。ふんふんふん〜。・・・と、浮かれていたらまたも衝撃の事実が発覚。 蓋が閉まってない。 えー、どうやら蓋の留め金部分がバカになってる模様。こんなところも壊れてましたか。盲点でしたね、落合さん(誰)。しょうがないから応急処置。 粘着テープ(商品名:ガムテープ)で留めてみました。 応急処置の王道です。不恰好ですが気にしません。これでなんとか蓋を閉めて、炊飯続行。ここで落ち着くのかと思いきや、まだ問題が。炊飯っていうのは、米を煮立たせる作業なわけです。とすると、当然、沸騰しますね、水がね。つまり。 蒸気圧で蓋が開いてしまう。 なるほど、蒸気圧の存在を忘れていました(納得してる場合じゃない)。テープによる蓋固定、甘かったようです。再度テープを貼って強化して、どうにか蒸気圧にも耐えうるだけの補強完了。巨大戦力でペナントレースを制覇(言ってみただけなので流してください)。テープがベタベタ貼られた炊飯器。見られたもんじゃありません。食欲、失せます(失せません。はやくカレー食いたい)。 そしてごはん完成。カレーもいい感じに煮込まれました。食います。 ・・・幸せだ。労苦多くして幸多し。近所に住む友達も呼び寄せて食わせました。どうだうまいだろ、まあ食いねえ食いねえ。作ったのおれだけど、文句言わないように。色気ないけど、泣かないように。キャベツカレー、食ったよ。食いまくったよ。おれは大盛3杯ね(食いすぎ)。 2001年06月02日 |
. | 010601 Side-A だんだん自分を捨ててきた気がします。 |
最近僕の頭を悩ませている問題がある。 ここ2ヶ月くらいずっとだから根が深い。大問題である。 それは。 浜崎あゆみのベストアルバム『A BEST』を買うか、買わざるか。 どーん。 僕はこの問題に真っ向から立ち向かうことから逃げていた。それは過去3枚のオリジナルアルバムをしっかり購入しているからだし、「ベストアルバムを買うのはほんとのファンじゃない」と思ってきたからだ。 しかし。 近頃浜崎あゆみのアルバム3枚をエンドレスで流している僕がいることは事実で。 曲を聴きながら身悶えしている僕がいることも事実で。 歌詞に敏感に反応しちゃってる僕がいることも事実で。 有線で浜崎あゆみの曲が流れたときに「あ、バージョンが違う。ベストに入ってるのかな? これ」と気付いてしまう僕がいることも事実で。 そうこうしているうちにベストアルバムも欲しいという気持ちが膨張している僕がいることはもはや疑いようもない事実なのである。 はあはあ。 だから僕は買ってしまうだろう、『A BEST』を。それはいいのだ。勝手に買うさ。この問題は近い将来解決すると思われる。 しかし。 もう一つ僕の心を占めている問題があって、今からこれについて語る。ここで問題提起。 僕は「好きな歌手は誰ですか?」と訊かれたときに「浜崎あゆみ」と答えることに躊躇する。 なぜか。 それは彼女が高額納税者ランキング歌手部門の第3位に君臨することからもわかるように第一線で活躍するバリバリのメジャーでありその曲はヒットチャートをにぎわししかも女子中高生の教祖とまで言われる現代のカリスマであることに起因する。 そんな彼女のことを好きだといっても回答者の個性を明らかにするものではないのである。 言わば現代の多数派。それは、 「好きな球団は?」と訊かれたときに「巨人」と答え、 「好きな作家は?」と訊かれたときに「宮部みゆき」と答え、 「小泉内閣を支持しますか?」と訊かれたときに「はい」 と答えるようなるようなものなのである。対象がどうあれ、また本人がいくら真剣に好きであれ、回答に面白味がない。それよりは「日本ハムファイターズ」とか「法月綸太郎」とか「いえ、支持しません」とか答えた方がなんだか味がある。気がする。 「浜崎あゆみ」と答えることはこれらと同じく「自分は多数派ですよ」と宣言しているようなものだ。別に少数派に属していたいという思想があるわけではなく、回答に面白味がないことが僕にはひっかかるのである。 僕だって同じ女性歌手なら少しばかりマイナー路線を狙って通っぽい回答をしたいし、あるいは「洋楽が好きなんですよ」とか言ってなんとなくかっこよさげに振る舞ってみたい。 しかしながら僕はこう言わざるを得ない。数々の物的証拠(購入したアルバムだったりシングルだったり)とそれを上回るだけの状況証拠(カラオケで嬉々として唄ったりナチュラルに鼻歌で唄ったり)が僕に逃げることを許さない。だからここで宣言しよう。 「浜崎あゆみが好きだ」 と。 23歳男子(もうすぐ24)が公然と宣言できる時点で味がある、とも言える。 これだけで終わるのもなんなんで、ウラでフォローしておきます。長いです。 2001年06月01日 |