■ 2001年6月
. | 010601 Side-B 浜崎あゆみ小論。 |
ファミリーレストランというものがあります。メニューには多彩な料理が並び、目移りしてどれを選ぶか悩みます。実際出される料理も写真とたがうものではなく、忠実な出来栄えを示し、かつ味は万人に受け入れられるべく可もなく不可もなく、一定の水準を保っています。少なくとも不味くはない。そして値段は普通のレストランと比して廉価。若年層から家族連れまで、幅広い客層を獲得して発展してきました。 しかしファミリーレストランの(文字通りの)台所事情はどうでしょうか? 様々なウラ話が漏れ聞こえてきます。食材の扱いがぞんざいであるとか、所詮その多くが冷凍食品であるとか。ですがここで言及したいのはそんなウラ事情に対する風説が蔓延しつつもやはり存在し続けるニーズです。もしもイメージを損なう調理行程があったとして、そんなものは当然隠蔽されます。客も内情に薄々は感づいていても利便性と値段を優先して、ファミリーレストランに足を運びます。客が問題とするのはテーブルに並ぶ料理の見栄えのよさと味と値段、ただそれだけということになります。 僕は浜崎あゆみにファミリーレストランのイメージをダブらせます。浜崎あゆみを中心に据えたプロジェクトチームは、歌詞、曲のみならず、顔、ファッション、声、キャラクタ、すべてを複合的にプロデュースしてテーブルの上に「浜崎あゆみ」という「料理」を提供しました。仔細な計算が、根底には働いています。客、つまり聴き手はテーブル上の「浜崎あゆみ」という「料理」を最初は見栄えのよさと異彩を放つキャラクタ、それに似合わぬ歌詞の重さで受け入れ、消化しました。1stアルバム発売時の世間の反応はこんなものでした。 メディアの洗礼を受けて目の肥えている大衆はすぐにその計算高さを見破りました。見破っても、求めました。シングルを乱発し、アルバムをさらに2枚重ね、ベストアルバムを発売するに及んで、歌手という枠を逸脱して存在そのものが肥大化していきました。ターゲットと設定したところの女子中高生に支持されて教祖、カリスマと呼ばれ、生い立ちまでもが神格化されました。計算を超えてしまったかもしれません。胡散臭さを備えていながらもなお、大きなニーズがあったのです。そして時代の寵児になりました。 ここまで支持を得た理由はどこにあったのでしょうか。 音楽性であるとか歌唱力云々であるとかはよくわからない僕は、歌詞に注目します。上で「仔細な計算」と書きましたが、実は一点、計算のなされていない個所があります。それが、歌詞です。浜崎あゆみ自身による作詞の段階に、計算は及んでいません。計算の元で作り上げられた偶像がいちばんの武器としているのは、計算されていない歌詞なのです。 浜崎あゆみの書く詩が、「すごい」とは言いません。椎名林檎のように飛んでないしaikoのように文学的でもない。もちろん宇多田ヒカルのように洗練されてもいない。しかし心に届くだけの真摯さは備えています。浜崎あゆみの詩に「行間」がないのは、その真摯さによるものです。詩だけですべてを語り切っています。単純な言葉が連ねられています。ストレートな感情の発露です。そこに隠喩はありません。ある人はそれを「浅い」と評するかもしれません。しかし飾りがないからこそ届く言葉もあります。 浜崎あゆみの詩に共通して漂う匂いは、「孤独」と「幸せ」です。 「孤独を感じる」こと、「幸せを感じる」ことは、もっとも根源的な感情です。「人がいる」から「孤独」だし、「人がいる」から「幸せ」なんです。これらの感情を、情景描写に頼らずに裸のままぶつけたから、共感した者が多くいました。支持を得ました。 「孤独」も「幸せ」も、抽象的な言葉ですから、「本当の孤独」も「本当の幸せ」も、結局は個人の感じ方に帰趨することになります。たとえ20年足らずしか生きてなくっても、「孤独」と感じたらそれは「本当の孤独」だし、「幸せ」と感じたらそれは「本当の幸せ」です。「本当の」というのが一体なんなのかわからないままに「孤独はヤダ」「幸せになりたい」と安直に言ってしまう風潮がある現在、そこをピンポイントで衝いてくる浜崎あゆみの歌詞は中高生ばかりではなく、「おとな」と呼ばれる人々の心にも届きうる、と思います。 浜崎あゆみの歌詞を「深い」と言う人がいますし、Web上の「浜崎あゆみ論」を巡回して読んでみれば分析解析のオンパレードです。「当人はそこまで深く考えてないんじゃない?」と思っている僕は、これらの歌詞解釈に違和感を覚えます。歌詞の真意を汲もうとする試みは意義あることですが、浜崎あゆみの歌詞に関してはこの作業は無効です。歌詞は歌詞以上のことを語っていません。「深さ」を読み取ることが出来るのならばそれは読み手の技量です。読み手にそれだけの「読み」をさせるだけのものを秘めていた、とするならばこれは書き手の技量ということになるのでしょうか。こうなるともう卵が先か鶏が先かの議論になってしまいますが。 最後に僕も、前段の持論に反発するのは承知の上で一つだけ、深読みをしてみます。根源的であるということは、言い換えれば幼稚でもあるということです。「孤独」「幸せ」をてらいなくぶつけるその歌詞の裏には、ただ無闇と孤独を恐れたり、幸せを求めたりすることからは脱却しよう、脱却しなさいというメッセージが込められています。僕はこう受け取ります。いささか好意的な解釈に過ぎるかもしれませんが。 一人きりで生まれて 一人きりで生きて行く 例えば今 急にここから姿を消したら 心から笑えて満たされる時には 君のコトなら全て何でも解ってるつもりでいた 楽しかったよ いつかもうずっと昔の話になるけれど 君にとって僕が必要なんだと思ったワケじゃない ここに咲いていたはずの花が 自分よりも少し不幸なヒトを 今日もどこかで出会い 果たして浜崎あゆみは消費されていく自分に対して恐怖を抱かないのでしょうか。それとも自己プロデュースを極めることでもっと揺るぎない地位まで上り詰めるのでしょうか。ひとつ年下の浜崎あゆみに対し多少の嫉妬心を抱きながらも、僕は曲を聴いています。 さてこの小論、オモテの日記のフォローになりましたかね?<微妙だと思われます 2001年06月01日 |