■ 2001年8月

. 010801 ストーカー。

 一ヶ月ほど前のお話である。

 僕は視線を感じていた。

 視線。

 この存在を実際に証明することはできないだろう。だけど人はたしかにこれを感じるし、届けよとばかりにみずから投げかけることもある。思いの込められた視線は物理法則を無視した熱や重力を携える。視線には好意あるものと嫌悪溢れるものとの2種類があって、この違いもまた人は敏感に察知する。

 僕が感じていた視線は――かれこれ10日間くらい同じ視線を感じていたのだが――、この2種どちらとも判断できない奇妙なものだった。それが、気味悪かった。学校からの帰り道や近所のスーパーへの行き帰りに感じるこの視線の送り主ははっきりしていた。

 年のころなら二十も半ばであろうか。僕と同年代である。体躯は小柄で顔も小さい。黒目がちで小さめの目は決して悪い印象を与えるものではなく、むしろ愛嬌があるものであった。しかしながら表情はどこかいびつで、できるものなら長時間見つめることはご遠慮したかった。僕がこうまで人の顔に嫌悪を抱くことは珍しいが、これは見つめられていることの気味悪さに起因する。長い髪を後ろに束ねていて、手入れは行き届いているようだった。身体の小ささと髪の量との不均衡が全体としてのアンバランスな印象を決定づけていた。

 この人物が、視界に入ってくるのである。外出するたびに。そして僕を凝視する。スーパーで、本屋で、僕が商品をためつすがめつしているその先に、いる。僕と目が合うと顔をそむける。偶然で片付けられる頻度ではない。怖くて確認したことはないのだが、おそらくは歩行中も、僕の10メートル20メートル後ろを尾けているのであろう。すなわち、

 ストーカー

 というヤツである。

 オーケーわかった、キミはストーカー。決定。こう定義すると得体の知れぬ気味悪さは少しばかり緩和される。ストーカーと名付けることで安心を得るわけだ。ヘンなもんだね。だけど問題はいかばかりも改善されてはいない。だからもうちょいと考えてみる。へいへい、キミはなにゆえ僕をストークするの?

 前に書いたとおり、この視線はその根元にある思いの正体をたぐり寄せることが困難な類のものであった。思慕によるものか、はたまた嫌悪によるものか、それすらも判断つきかねるのである。この場合どちらの状況の方がマシなのだろうか。嫌悪。これは勘弁していただきたい。下手すりゃ命が危険にさらされる。だけどそんなに恨まれるだけのことをした覚えがないのだ。なにしろどこで僕と接点があったんだかもわからない人物なのだから。嫌悪もへったくれもあったもんじゃない。

 じゃあ思慕か。こっちも厄介だ。自惚れてるとかそういう問題じゃなくて。そもそも会った覚えのない人に心寄せられる謂れはない。街角での一目惚れか。いや、だから自惚れじゃなくて可能性を挙げてみてるだけであってさ。でも一目惚れにしたってどうして僕の家を知ってる? これも尾けられてたのか。ぞっとしないね。それに愛情表現ならもうちっと気持ちのよい手段でやっていただきたい。ストーカーはないだろう。

 考えてみたところで余計に不気味さが増すだけであった。逆効果。対処しようにも実際的な被害はないわけで、こちらから動くことができない。話し掛けていって 「ねえねえ、キミはどうして僕を尾けているの?」 とストレートに訊いてみたい欲求もあったが、恐怖がこれを抑えつけた。視られることに慣れてしまう、こんな状態にもなりかけていた。

 その日――。

 僕は食料品を買い込みにスーパーへ行こうと部屋を出た。

 アパートの階段を下りた先にある電柱の脇に、なじみの視線の送り主は立っていた。なんだい、こりゃまた今日は随分と積極的だね。このクソ暑い中ご苦労なこったね。――と、軽口たたいてるが内心冷や汗もんである。

 歩く。尾けられる。いつもより距離が詰まっている。5メートル、いや3メートルばかり後ろにぴったりと。

 気持ち悪い。

 いい加減我慢も限界で、詰問してやろうかとの衝動に駆られたが、やっぱり怖い。まずは平和的にやり過ごそうと、僕は行きがけにあるコンビニに立ち寄った。入ってこない。出入り口付近をうろうろしている。しばし雑誌を読んでいよう。諦めて帰ってくれないもんだろうか。

 30分経過。疲れた。雑誌は尽きた。外を見る。いない。しめたとばかりに外に出る。

 いた。電柱の影に。携帯電話に向かって会話している風を装いながら。

 うわ、なんてベタな尾行なんだ、キミ。それも下手クソだし。そもそも尾行のつもりじゃないから下手もなにもあったものじゃないのかも知れないが。

 恐怖に先んじて気味悪さがゴール板を駆け抜けた僕は、もはや買い物しようなんていう気概は消え失せ、家に戻ることにした。やれやれだ。

 また、尾けられる。予想通り。おれはもう帰るからね、諦めてくれたまえ。ほらほら、早足で歩いちゃうぜ。スタスタスタスタ。・・・・・・離れない。等距離を保ってついてくる。小柄なクセに足が速い。ひい。

 アパート前に着き、階段を上る。これで安心かと思いきや、

 ヤツも階段を上がってくる。

 え。

 ちょちょちょ、ちょい待ってくれ。接近戦? 本土決戦? やめてやめて。心の準備ってものが。いや準備するつもりはないけど。うわうわうわうわ。さらに足を速める。

 階段の折り返しのところで目が合った。その目は三日月をひっくり返したような形に歪んでいて精一杯の笑顔を作ろうとする意思は感じられるもののそれは失敗に終わり、万人に嫌悪感を抱かせるであろう表情に終着していた。発せられる視線は粘着質で我が身に二重にも三重にも纏わりついてくるかのような錯覚を呼び起こした。瞬間僕は残りの階段を全速で駆け上がり部屋の前にたどり着き鍵を開けドアを開け身体を滑り込ませドアを閉め鍵を閉めチェーンをかけた。直後、

 ガチャガチャッ

 ドアノブが回る音。日常、動かざること山の如しな僕もこの時ばかりは震え上がった。

 ガチャガチャッ、ガチャガチャッ、ガチャガチャッ、ガチャガチャッ、ガチャガチャッ、ガチャガチャッ、ガチャガチャッ、ガチャガチャッ、ガチャガチャッ、ガチャガチャッ。

 執拗にノブを回すストーカー。ダメだ、尋常じゃない。警察に電話するか? と思った刹那、音は止んだ。

 静寂。

 逆に怖い。部屋を窺う手段をなにかしら講じているのかもしれない。こちらも物音を立てぬようにしながら外の気配を窺っていると、

 ガタンッ。

 びくっ。

 郵便受けに何かが差し入れられたらしい。階段を下りる音。遠ざかる。安堵。

 郵便受けをおっかなびっくり確認してみる。一枚の紙片が入っていた。名刺だった。会社名――驚いたことに会社員だったらしい――、名前、電話番号、メールアドレスが記載されている。名刺の裏を見て、意図するところが判明する。美麗な筆跡で、こうしたためられていた。

 今日はすみませんでした。嫌わないで下さいね。電話かメール、待ってます。

 怖い。

 電話なぞ、できようものか。恐怖体験の直後である。鼓動が激しい。今後行動がエスカレートしていくことは十分に考えられる。次になにかコトが起こったら警察だな。いやそんな悠長なこと言うより先に、今から話は通しておこうかな。でもこの程度で対応してくれるとも思えないしな。いやはや、わけのわからんことに巻き込まれたもんだな。――こんなことを考えながらもそれでも身体は素直に休息を求め、やがて寝入った。

 一ヶ月が経った。

 この日以降、視線は消えた。数日ほどは外出するのに躊躇するくらいの軽いトラウマに見舞われたが、それも消えた。タフというか鈍いというか。して、なにゆえぷっつりと気配を絶ってしまったのか。まがりなりにも接触に成功したことで満足したのかも知れない。これは願望をまじえた予測なのだけど。沈黙が不気味を語り、いまだ油断はならないものの、見かけ上は平穏無事な日々が過ぎている。

 ストーカー。

 よもや自分が標的になるだなんて。誰の心にもその素養がある、というところにストーカーの不気味の所以がある。観念に、感情に、囚われた人間は何をしでかすかわかったもんじゃない。手段に、方向に、問題があったながらも自分のことを想い、その想い余っての行動ならば無下に否定できない。善意的な解釈に過ぎることは承知の上だ。こう思うことによって、相手の行動原理を常識において解釈できる範囲内に落ち着かせて恐怖を薄めさせているのである。

 ただひとつ納得いかないのはそのストーカーが、

 男

 だったことなのであるが。

2001年08月01日


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