■ 2002年1月,2月,3月

020312 びっくりしたので思わず書いてみる。


 あたたかい日だった。

 新宿の某スクールに通ってる僕は午前のレッスンを終え、昼食をとるために外へ出た。

 エレベータを降り、ビルの外へ。就職活動で同じく新宿に出てきている某人と待ち合わせていて、マックでも行ってみるべかー? という心積もりであった。

 新宿駅西口、京王百貨店前の通りをテケテケテーっと歩いていた。

 と、左斜め前方に、不審な人影を発見した。

 不審、というのは何を指しての物言いなのかというと、そのシルエットの異様さである。

 小柄な女性が二人。その傍らに、やたらと長い野郎がぬひょーっと突っ立っている。計3人。男はこの3人の中でいちばん容積が大きいにもかかわらず、メンタルな面では女性2人に圧倒されていてビクビクオドオドと縮こまってプルプル震えながら胡桃を齧っていた(ように見えた)

 この3人、どうにも僕が見知っている人物のような気がしてならない。が、ちょっとにわかに信じられないようなシチュエーションだったし取り合わせだったので、「???」と思いながらも僕はするするすると3人に近寄っていった。そして確認した。

解:

154cm♀ × 150.8cm♀ × 180cm♂

ぴろ × まさぱん × takka

 ……。

 ぬあっ。

 な、なんで大坂の恋女房(マコちんの)ぴろねえやんと兵庫の爆弾娘(でもリトル)まさぱんと神戸の黄金の左足、takka(ただいま求職中)が、この大東京新宿の地に勢ぞろいしてるのか!(興奮してる)




 声をかけてみた。

 R: こ、こんちゃっす(普通)

 p, m, t: !!!(案の定びっくり)

 新宿の一隅を関西色に染め上げていたこの3人、お昼ご飯をいっしょに食らおうぜツアーの待ち合わせなのであった。そこに岡山出身の僕が加わり、この4人、かなりな勢いで西である。僕は今日、本当に、たまたま、新宿にいたし、外に出た時間も通った道も、まったくの気まぐれであった。そこをばったりと出くわすとは、げに偶然とは恐ろしい。いや、むしろ必然だったのかもしれない。それは赤い糸(誰と?)

 挨拶もそこそこに、僕は待ち合わせのためにその場を辞さなくてはならなかった。ファンキーな3人組とのつかの間の邂逅と即座の別離は、少なからず寂しいものであった。後ろ髪を引かれる、とはまさにこのようなことなのだろう。おっ、慣用句がピッタリはまってる。やったね。

 あまりにもびっくりしてしまったので、こうして勢いで日記を書いてしまったのだった。ウチワ話全開だがこれもびっくり故、ということで許していただきたい。普通の日記はまた後日(確約しないあたり卑怯。藤木君の次くらいに)。ちなみに、↑冒頭で「マック」とかヌかしてるのは、すっかり東京に感化されちまった僕自身に対する揶揄である。あしからず。


001/001

020214 今日アップしてこその日記。


 アイモカワラズ郵便局でバイトして日銭を稼いでいる。

 「配達日指定郵便」というのがあって、どういうものかというとまあその名のとおり、配達を希望する日を指定できるサービスなのである。先方の都合のよい日を指定すれば不在で不達、なんて事態にならずに確実に送り届けることができるし、相手の誕生日にプレゼントを届けてびっくりさせちゃおう、なんてちょいと小粋な演出をすることもできる。なかなか使えるサービスかと思われる。

 ここ数日、このサービスの利用率がとみに高かった。

 通常、日に3〜4件ほど扱えばよい配達日指定郵便物の数が、数十件ほどに跳ね上がったのである。配達日指定郵便物は普通の郵便物とは別個に処理しなければならない。数多ある郵便物の中からこれらをハジいて他所に置いておき、指定された配達日まで保管しておくわけだから、時間も手間も余計にかかる。

 ありていに言えば非常にめんどくさいのだ。

 そんな厄介なブツが激増した元凶は他でもない、

 2月14日。

 ↑コノヤロウの所為である(いろんな意味で憎しみがこもっているらしい)

 次から次へとやってくるチョコレート。「配達日指定:2月14日」のラベルが貼ってあって、コヤツに出くわすと思わず「ちっ」と舌打ちを漏らしてしまう。おめーら、かさばるし冷蔵庫に保管しなきゃなんないしでおれらの仕事増やしてんだよー、テヤンデーバーローチキショー、てなもんである。今日は慣れない文体で書いてるからどうにもぎこちない文章になってるけどそこはまあ気にすんな。

 さて。

 この郵便物が、2月14日、当日に会うことができない恋人同士の贈答ならばそれは微笑ましいお話である。仕事の都合、距離の障壁で14日には会うことはできない、けれども愛の証としてのチョコレートを愛しのあの人に送りたい、14日に確実にその人のもとに届けたい、こんな想いの発露としての配達日指定ならばこのサービスも本懐を遂げられるというものだろう。お兄さんも許してア・ゲ・ル。

 しかしちょっと雲行きが怪しい。

 これら郵便物を扱う際に、どうしたって差出人の氏名なり、受取人の氏名なりが目に飛び込んでくる。別に好奇心や暇つぶしで逐一チェックしてるわけじゃないぞ、ほんとだぞ。

 すると、この両者の関係性に偏りがあることが容易に見出されるのである。つまり、一人の女性がめったやたらと多くの男性にチョコレートを贈りまくっていることに気づくのである。そして、その男性の家ではなく、会社宛に贈られていることも共通項として浮かび上がってくるのである。

 わかりやすく類型例を下に示そう。

差出人:○○アケミ

↓↓↓

受取人:△△商事 総務課 ××様

 どう考えてもこれは彼女から彼氏への愛の贈り物ではないような気がする。いや、きっと違う。これは一体どのような事情によるものか? この謎は、僕が働いている郵便局の管轄が銀座である、という事実を併せ考えるとひとつの解答に導かれ解決される。

 解答例。

差出人:○○アケミ
(アタシは銀座のクラブのおねーちゃん。日ごろの常連さんへの感謝の意を込めてチョコレートを贈るの。ついでにこの機に名前おぼえしてもらってさらなる顧客の獲得につながれば一挙両得なの。うふ)

↓↓↓

受取人:△△商事 総務課 ××様
(私は妻子ある身のサラリーマン。行きつけのクラブの娘を気に入っちゃって、結構熱心に通っちゃってるのさ。ねーねーアケミちゃん、今度外で会わないかい? え? ダメ? ちぇっ、ツレないなあ。おっとそうだアケミちゃん、チョコレートは会社に送ってくれたまえよ。家に送られちゃうとカーチャンがうるさいからね。私は品行方正なエリートサラリーマンなんだからね。うふうふでへでへ)

 大方こんなところだろうと思われる。ていうかこれが正解。納得。仕事が増えている要因の根っこにこんな攻防があるんだと思うとだんだんハラがたってきた。けっ。なんだバカヤロウ(荒井注)

 ……そんな恨みつらみを抜きにして思うのだが、果たしてこんなシステマティックなチョコレートの贈答はいかがなものか。果たして受け取ったとて喜びは込み上げてくるのか。愛を感じるのか。愛を受け取ることができるのか。そこに愛はあるのかい? 心にダムはあるのかい?(狙いすぎて滑ったコピーの典型)。煽るマスコミもデパートも、チョコだのチャコだのチェコだのまったくもって騒々しい。キミら浮かれすぎ。この日の本質はどこにあるのか小一時間問い詰めたくもなるのだが紙面の都合によりその項は割愛させていただく。今日は2月14日木曜日。平日。平らな日。武双山の誕生日。ただそれだけ。それだけのことさ。愛なんてないさ。愛なんてうそさ。ねぼけた人が見間違えたのさ。冷蔵庫に入れてカチカチにしちゃおう。

 きーーーーーっ(破綻)

 以上、本日のオブジェクションでした。


001/001

020208 いつか、向こうへ。


船に乗っている。
どこを目指す?
向こう。
いつ、たどり着く?
いつか。




変わりたがってる人がいて、
いつかを期待している人がいて、
ここではない何処かを夢見てる人がいて、
向こうに行きたがってる人がいる。


だけど、


あなたは、どこへも行かない。
あなたは、何にもならない。
あなたは、いつまでもあなただ。
あなたは、あなたのまま。
あなたは、あなたの先にあるあなたになるしかない。


いつか、なんて待ってられない。
向こう、なんてある保証はない。
今、なにかをする。
ここが、すべてなんだと知る。


"いつか"になったら、"いつか"は"今"になる。
"向こう"に行ったら、"向こう"は"ここ"になる。
"今"は、昔のあなたが考えていた"いつか"で、
"ここ"は、昔のあなたが考えていた"向こう"。



いつも、船の上。


001/002


演劇を観に行きました。

学生劇団。

数多くの劇団がひしめく学校です。

大学構内には数多くの立て看板が連なります。

その中のひとつが目に止まったのは偶然でした。

脚本・演出の項に友人の名前を発見し、

感嘆と嫉妬のため息をもらしつつ、

観に行ったわけです。

その劇のテーマというのがまあ、上に書いたようなモノで。

観た後に湧いた言葉をつかまえて整理したらこんなんなりました。

劇中の科白も用いさせていただきました。

脚本があって役者がいて演出があって、

舞台の上でぶつかってその日その瞬間だけの色を見せて、

その色の鮮やかさに魅了されて呑み込まれて引っ張られて、

爽快のある終幕に連れてかれる。

演劇ってのはやっぱいいなと。

ありがとう、いい芝居でした。

This lyrics is inspired by てあとろ50'.


002/002

020206 騒ぐタイミングがズレてませんか。


 ほんとは4日前、2日に更新したかったんです。なぜかっちゅうと、↑の日付の表記が、"020202"になるからです。キレイです。こういうの好きです。だからこれまで、割と日付にこだわって更新してきました。"001001"とか"001010"とか"001122"とか"010101"とか"011111"とか、「おっ、今日日記書いたら日付がエレガントじゃん」って思った日にはがんばって更新してきました。しかし今回、無常にも日付は変わってしまい"020206"という、特におもしろみのない表記になってしまいました。無念です。2日はのたさんの誕生日でもあったのに。そんな素敵な日に更新できなかったのが返す返すも悔しいです。放置プレイは好きですが、日記を放置するのはいけないと思います。更新するぞ更新するぞ更新するぞ。わ、こうして連呼すると危険な宗教みたいだ。のたさん、お誕生日おめでとうございます(遅いです)

 では、本編のスタートです。どうぞ。↓


001/002


 きた。

 ついにきた。

 我が家にブロードバンドの波がきた。

 ADSL、である。

 ついに我が家もADSL導入、である。高速通信の世界へようこそ。56kさようなら。

 申し込みから数週間、忘れかけていたころにモデムが到着し、即座にLANボードやらLANケーブルやらを購入。パソコン開けてボードを挿して、ケーブルつないで電話線つないでPC立ち上げて、マニュアル通りにコトを進めていけばあら素敵、そこはブロードバンド。広い帯だぜうれしいな。国境の長いトンネルを抜けるとそこはADSL。石の上にもADSL。東の空にはADSL。ADSLの行方は、たれも知らない。あはははは〜(さあ、キミもいっしょにお花畑を走るんだ)

 ……盛り上がってはいるものの、僕、モデムってのがナニモノなのか、LANボードってのがナニモノなのか、ちいっともわかっとらんのですがね。こやつ等いったい、どんな働きを見せてくれるんでしょうか。指示されるがままに接続し、設定しました。言われるがまま、なすがまま。そうさおれはマニュアルな男。まあそんなことは気にしない。電子レンジのしくみがわからなくても冷凍食品は食えるし、FAXのしくみがわからなくても24時間テレビに応援メッセージは送れます。

 それはさておき。

 接続。

 どきどき。

 わくわく(アラレちゃん)

 …………。

 !

 早い、早いぞ、ADSL。クリックした途端にリンク先に飛ぶぞ、ADSL。画像がパラパラパラパラと表示されるぞ、ADSL。「はらだしき村」もサクサク歩けるぞ、ADSL。flashサイトもラクショーだぞ、ADSL。ホームページの更新作業も一瞬だぞ、ADSL。横顔が凛々しいぞ、ADSL。目元すっきり、ADSL。リレーの選手だ、ADSL。日本代表の救世主、ADSL。称えすぎだぞ、おれ(だってうれしいんだもん)

 ダウンロードが早い早い。

 アヤしい動画も落とし放題だぜイェイ。

 …………。

 だなんてことはありません。僕は精錬潔白純情可憐、清潔清楚純米精製です。

 ほんとです。

 …………。

 とにかく。

 これでもうネットに接続するのに23時まで待たなくてもいいし(23時になるのが待ち遠しかった、そんなテレホ人間卒業)

 昼間にメールをチェックして、なにも受信しなくても、「ああ、これで10円なのね、くすん」と嘆かなくてもいいわけですね。ビバ・常時接続。

 ビッグウェーブはとうの昔に過ぎ去ってるにもかかわらず、小波にさらわれてるヤツがここにいます。興奮しすぎで支離滅裂。


002/002

020128 三角関係ってこういうこと。


 僕が原田宗典ファンであるということは、関係各所でつとに有名です。高校時分に氏の文章に出会ってそのセンス・感性に惹かれ拘泥して以来常に、敬愛する作家ランキング上位に名を連ねてきました。このランキングにはなんの権威も栄誉もありませんあしからず。熱は大学生になってからも冷めることなく、ファンサイトに入り浸るわサイン会、講演会を行脚するわ帰省にかこつけて岡山まで追っかけるわと、アイドルに群がる女子中学生ばりの情熱を注いできました。オフ会を通じて、「らなさんムネちゃん」と呼び合うくらいにまで親しくさせていただき(ウソですウソですごめんなさい)、果ては公式サイト「はらだしき村」制作にまでも関わらせていただいております(011013)。なんたる果報者でしょうか。追っかけもここまでくると立派です。自分で誉めます。

 と同時に、僕は京極夏彦ファンでもあります。大学1年時に『姑獲鳥の夏』を読んで衝撃を受け、夏彦、あなたにフォーリン・ラヴ。値段をものともせず講談社ノベルスを買い揃え、厚さをものともせず朝な夕なと読みふけりました。大学に入って以来しばらく遠ざかっていた読書の愉しさを思い出させてくれたという意味で、感謝の対象ともなる氏の作品群は、本棚のいちばん手前に鎮座ましましています。全作品を一列に並べたときの存在感威圧感といったら、もう。その潔癖なまでのこだわりぶり、偏執なまでの妖怪好きっぷりもまた、僕の心を捕らえて放しません。罪な男。

 原田氏には幾度かお会いする機会に恵まれてきた僕も、京極氏との邂逅の機会はこれまでありませんでした。唯一チャンスがあったとすれば、2年前、『どすこい(仮)』出版時に池袋で開かれた手形会だったのでしょうが、情報を得るのが遅くて整理券を入手できませんでした。「会いたい」と思った作家にはことごとく会ってきた僕も、京極氏にいたってはなかなか機会が巡ってきません。最後の砦と言えるでしょう。ちなみに友人もろやんは京極氏の講演会を聴きに行き、共に写真を撮り、言葉を交わした経験があります。この経験をして「おれは夏彦に会ったことがある」と吹聴しています。「おめえ、それ、「会った」って言わねえよ」と突っ込みたくもなるのですが、「目撃した」という圧倒的なアドバンテージを譲っている以上は何も言えません。悔しいです。


001/003


 と、そこに素敵な情報が飛び込んできました。

  今度、トップランナーに京極夏彦さんが出るそうです。
  らなさん、いかが? もろやんさん、いかが?

 BBSにおけるたけたけっさんの書き込みです。NHKのトップランナーに京極氏が出演されるとのこと。早速NHKのサイトへ飛び、情報を得ました。確認するとどうやら今月末に収録、そして2月中旬に放映、とのこと。観覧希望者を募っていたので一も二もなく入力フォームに飛び、応募しました。こういうとき僕の行動は普段の3倍速になります。当選すれば生京極が拝めるのです。なんだか興奮してきました。興奮ついでに「生」をカタカナにしてみましょう。ナマ京極。おお、なんかこっちの方がソソリます。やっぱり、なにごともナマがいいのです。なにごとも。

 そして応募から一週間ほど経った24日夜のこと、携帯電話が鳴りました。着信メロディはaikoの「あした」です。余計な情報です。

 「もしもし」

 「あ、もしもし、わたくし、NHKトップランナー制作部の○○と申します。えー、らな様でしょうか?」

 「あー、はい、ぼく、らなですけど(この時点で胸躍ってます)

 「あのですねー、先日らな様が申し込みなさいましたトップランナーの京極夏彦さん出演の回の収録に、らな様をご招待させていただきたいと思いましてお電話さし……」

 「(声をさえぎって)あーっ、はいはいはい、応募しました応募しました。了承です了承です。行かせていただきます行かせていただきます。うれしいですうれしいです」

 「(コイツ、興奮しすぎだ、と思いながら)あ、そうですか。ではですね、ちょっと急な話なんですけど、27日、17時にですね、渋谷のNHK放送センターの方へ集合していただけますでしょうか?」

 「ええ、ええ、ぜひとも、ぜひとも。27日ですね? がってん承知ノ介です。ええっと、ちょっと待ってください? メモしますから。27日、日曜日ですね? と、にじゅうしちにじゅうし……」

 ん?

 27日?

 瞬間、僕の頭の中でカレンダーが高速回転でめくられ、スケジュール帳が巨大スクリーンに投影されて展開されました。

 1月27日:「はらだしき村」制作会議

 うああああ……(声にならない叫び)。

 ダメじゃん。

 行けねえじゃん。

 27日は僕が現在もっとも真摯に取り組んでいる活動であるところの「はらだしき村」制作会議でありました。ダブルブッキングになっちまいました。なんてこったい。この制作会議は欠席するわけにはいきません。と、なると当然の帰結として収録を観覧することは不可能なのですが、あきらめの悪い僕は脳細胞をフル動員させ、なんとか両方に出席できないものかとの計算をし始めました。

 ええとええと、会議は13時からで予定では15時には終わることになってるけど会議はいつも白熱して延長するから17時までと思っといたほうがいいよな? となると渋谷17時はどうしたってムリなわけだが、会議を途中退場するとすればどうだろう? 会議の場から渋谷までは早く見積もって1時間半強。となると15時過ぎに退出すればどうにか間に合うのか? でもなあ、今回の会議は新しい企画について詰めていくという重要なものでちゃんとフルで参加しときたいし、なによりあのエキサイティングな場を途中退出するなんてそんなもったいないことできっこないし。あああああ、やっぱムリじゃん。どう考えたってムリだよ、これ。トップランナー、あきらめるしかえねえよ。でも京極。愛しの夏彦。ナマ京極。ああ、ああ……。

 こんな思考を巡らせていました。この間コンマ5秒です。なにせ電話中ですから。こんなに頭使ったのってセンター試験以来ではないでしょうか。一拍置いたのち、僕は声を絞り出しました。

 「え、ええっと、すみません、27日、ちょ、ちょっと、都合悪いんです。辞退させていただきます」

 「あー、そうですか。わかりましたー。またよろしくお願いしますー。ガチャッツー・ツー・ツー(あっさり)


002/003


 ……(電話の余韻)

 断っちまった……。

 なんて苛烈な両天秤なんでしょう。原田氏をとるか、京極氏をとるか。二人の狭間で僕の心は激しく揺れました。例えるなら、自分をよく慕ってきててこちらとしても悪い気はしない可愛い系の後輩と、いろいろと世話を焼いてくれてときには二人で外出もする、どうやら向こうもこちらを憎からず想ってくれてるみたいだ、そんな気配感じる美人系の二つ年上の先輩、どちらに告白しようか悩むようなものでしょうか。違いますか、そうですか。

 ともあれ、またもや京極氏とはすれ違い。接近遭遇はいまだ果たせず。おとなしく京極道シリーズ新作『陰摩羅鬼の瑕』の出版を心待ちにしつつ日々をやり過ごすことにします。あああ、27日じゃなかったら。よりにもよって27日。その他の用事だったら、たとえ就職活動でもすっぽかして観覧しに行っただろうに(たぶん本気で)。返す返すも無念です。

 夏彦、逢いに行けなくてごめんね(なれなれしいにもほどがあります)

 原田さん、夏彦を捨ててあなたの元へ走りました。感じて、この愛(ふてぶてしいにもほどがあります)


003/003

020118 2周年、それは3日前の話。


 2周年です。適当にスタートして適当に継続してきた当サイトも、いつの間にやら2周年です。びっくりです。僕がかつて、こんなにも長くひとつのことを続けてきたことがあったでしょうか、いやありません(即答)。スタート時には方向性が定まっておらず(そもそも定めようとする意思がない)、本線がどこにあるのかさっぱり見えない不安定さを誇っていましたが、どうやら日記サイトに落ち着いた模様です。ライオンズファンサイトにしようとか、書評サイトにしようとか、中国語学習サイトにしようとか、やさしい生物学講座サイトにしようとかいう野望は一体どこに行ってしまったんでしょうか。唯一[Books]というコンテンツにその名残を見つけることができますが、[Baseball]だとか[Chinese]だとか[Biology]だとかいう初期コンテンツは影も形もありません。初代トップページを見ると隔世の感があります。と、歴代トップページを振り返ってみて気付いたのですが、今も昔も[MAEYAO]というコンテンツが異様な存在感を示しています。[Diary]よかよっぽど目を引きます。ひょっとしたらここは、メーヤウサイトなのかもしれません(ありうる)

 3年目に突入して今、僕はときどき、「さて、いつやめようかな」と思います。継続のすぐ脇には終焉の影がちらつきます。最近、僕が足しげく通っていたサイトの休止、閉鎖が相次いだため、否応なしに自分のサイトの行く末に目を向けることとなりました。所詮は個人サイト、趣味の世界なのだからいつやめるも自由、という考えもあるのですが、自身が大いに遊び楽しみ、かつ多くの人々に集っていただいている場を閉ざすからには、相応の覚悟と理由が必要になってきます。

 僕は、サイト制作者の「サイト閉鎖(休止)のお知らせ」を読むのは――もちろん一抹の寂しさはあるものの――嫌いではありません。自身が心血を注ぎ、労力を費やしたサイトをやめる、この決心に至る言葉が連ねられる「閉鎖のお知らせ」からは、作者の意思がもっともストレートに伝わってきます。読んでいると、ときに清々しさを、ときに身を切る痛みを感じます。

 清々しさ――と書きましたが、こう感じるのは「サイトの閉鎖」は、実は「別離」だったり「終焉」だったりを意味するのではない、からでしょう。作者の身辺になんらかの「変化」があり、心中になんらかの「決意」があった結果の選択ならば、これに拍手し喜ぶこともできるわけです。作者の人生こそがまさに、「更新」されたんだ、と考えることもできるでしょう(うまいこと言うな、おれ)。この意味で、ここで使われる「閉鎖」って単語は、特殊な響きを帯びますね。そして、僕自身はサイトを閉じるとき、果たしてどんなコメントを残すのか、楽しみにもなります。

 作者本人の意に反して閉鎖に追い込まれるケースというのもままあるわけで、それをいくつか目撃してきました。こんなときに感じるのが、身を切る痛み――ということになります。自分のサイトがこのような目に遭わないことを願いますし、今まで大禍なく平和にやってこれたのは幸いです。

 森博嗣は、自サイト浮遊工作室において公開していた日記(2001年12月31日をもって終了)の幕引きに、次の言葉を残しました。

 「話を聞いて下さい」とお願いしたことは一度もないので、「ありがとう」、とは言いません。もちろん、「さようなら」でもないわけで、まあ、普通に幕を下ろしたいと思います。

 かっこいいな、と思いました。でもたぶん僕は「ありがとう」とは言うんでしょうけど。

「更新しなきゃ」と思ったときは、更新しない。
その日あったことは、書かない。
日常、身辺は遠ざけて(極力ね)
慣れない、飽きない、をモットーに、
口八丁、手八丁(ん?)

 こんな日記サイト(日記じゃない)ですが、今現在、当人は楽しんで制作してますんで、やめる気は毛頭ない模様です。性格的に、深いことは考えられません。重いことは考えられません。日々楽しければそれで幸せ、な僕は成否はともかくとして楽しい場所を目指し制作してゆきます。もしも縁ありまして足を運んでいただけましたらそれだけでうれしいです。もしもお気に召されましたら、足を留めていただき、言葉を残してってください。喜びます。どう転ぶかわからない試みの世界に、いましばらくおつきあいくださいませ。3年目もよろしくお願いします。


001/001

020111 珍しく嫌いなものについて語ってみよう。


 この日記、というかサイトのスタンスとして、自分が嫌いなものについてはスルーでよろしく、というのがあります。それはまあ、嫌いなものについて書くより好きなものについて書くほうが楽しいし筆が進むよね、というのが単純な理由です。怒ったり批判したりするのが苦手な人間だから、というのもあるんですが(010701)。

 でも今回はちょいと趣向を変えて、嫌いなものについて語ってみたいと思います。「もの」と言っても具体的な「モノ」ではありません。例によって抽象的な方面から攻めます。僕の日記は抽象的なことばっかりベラベラ語ってやがる、と関係各所でつとに有名です(そうなんですか?)。じゃあなにについて語るのかっちゅうと、毎度こだわりを見せておりますように、ここでもやっぱり「言葉」について語ります。すなわち、「嫌いな言葉」。

 僕は自慢じゃありませんが言葉を操るのが苦手だし語彙は貧困です(ほんとに自慢にならない)。だけど言葉そのものは、好きです。おもしろい。もちろんその中に「好きな言葉」というのもたくさんあります。逆に「嫌いな言葉」というのはそう多くはないのですが、今回の日記のテーマと設定した以上、思いつかないことには話が進みません。敢えて3つ挙げてみます。

 「ムカつく」 「ウザい」 「癒し」

 いずれもよく耳にする言葉たちです。それもここ最近。7、8年前、僕が高校生だった時分には馴染みのない言葉だったかと思うのですが。僕はこれらが、嫌いです。

 「嫌い」というのは端的に過ぎるので言い換えますと、「自分には絶対使えない」となるでしょうか。もちろん生活してれば「苛立つ」ことはあるし「疎ましい」人はいるし「安らぎ」を求めることはあります。だけどこれらの感情は僕の中では「ムカつく」 「ウザい」 「癒し」には変換されません。それは、自分が物心ついたころには存在してなかった言葉たちである、というところに起因するのでしょうか。新興してきた言葉であり、自分より下の世代によって育てられた言葉であるからでしょう。自分の中にない言葉を、しかも嫌悪感すら抱く言葉を、僕は使えません。これが理由のひとつです。

 「ひとつ」と言うからには、「もうひとつ」があるわけです。連載エッセイならばここで「続きは次週」と引っ張って気をもたせるのが手ですが、いつ更新するのかは風に聞いてくれ状態な僕の日記でこれをやると見放される恐れがあります。なのでこのまま勢いで書いてしまいます。


001/002


 もうひとつの理由は、これらの言葉が強すぎる、というものです。ここで言う「強い」には複合的な意味合いがあります。個々について検証してみましょう(おお、えらそうだ)

 「ムカつく」
 攻撃的です。全方位にトゲを出してるイメージです。聞くものを不快にさせときながら、その実本人がほんとうにムカついているのかは疑問です。「頭にくる」 「気分悪い」 「ヤだ」 「嫌い」 「最低」。意味するところはこれらと同じなのでしょうが、救いがありません。それは、その原因たるところの追求を放棄している響きがあるという意味で。

 「ウザい」
 排他的です。「どうウザいのか」「なぜウザいのか」という説明や理由を排除する勢いがあります。説明・理由を放棄してただ「ウザい」とのたまっている姿は美しくないです。嫌いなら嫌いで、疎ましいなら疎ましいでいいわけですが、「ウザい」この言葉が持つ反論の余地のなさ加減はなんなんでしょうか。

 「癒し」
 短絡的です。「癒しを得られるもの」なんて本来そこらへんに転がってるものではないはずです。人をして安易に癒しを求めさしめ、誰かを癒そうという能動的働きかけを阻害する作用があります。価格が暴落して、しまいには冠せられる対象を揶揄しているかのようにしか聞こえなくなった言葉の一例です。

 「強い」というのはすなわち、他の言葉を殺し、他の言葉を探す努力を放棄し、他の言葉への道筋を否定してしまう、容赦のない強さです。言葉がこれだけの強さを保持することは一面では、すごい。けれどその強さゆえに他の言葉の光を遮断し、ついには人の心まで侵食してきました。

「ムカつく」という言葉を知ってしまったから、
 ムカつくようになってしまった。

「ウザい」という言葉を知ってしまったから、
 ウザい対象ができてしまった。

「癒し」という言葉を知ってしまったから、
 癒しを求めるようになってしまった。

 まず感情があって、それを誰かに伝えたいから、数多あるものの中から自分にもっともフィットするものを選択して発信するのが、言葉というものでしょう。どの言葉を選択するかに、発信者の意思が反映されます。正の言葉であれ、負の言葉であれ、意思を感じさせる言葉は潔く綺麗です。だけど、

 「ムカつく」 「ウザい」 「癒し」

 これらの言葉たちは、言葉まずありきで感情を生じさせます。結果他の言葉を選択させる余地・余裕を人に与えません。強烈な言葉たちです。ゆえに発信者の意思を隠してしまう、怖い言葉たちです。だから僕は、使うことができません。

 ストレスという言葉が先にあって、人々はストレスを感じるようになった――私はそう思うのだ。

原田宗典『し』(星星峡 2001 October)

 初期の日記を髣髴とさせるタッチで書いてみました(確信犯)。

This essay is inspired by takka.


002/002

020106 白い時。


「こんにちは」とあなたは言って
「こんにちは」とわたしは言った
その日 なにかが始まった

時が回った
心が育った
あなたとわたしはたびたび会って
甘い言葉を囁き合った
あなたはわたしの心を奪って
わたしはあなたの言葉に酔った
あなたはわたしの手を握って
わたしはあなたの心を知った
溢れる気持をわたしは持った
それは言葉にならなかった
あなたは ただ見守って
わたしは ただ黙って
そばにいたい と 思った

冬になって
白い夜に雪が降った
あなたはわたしに指輪を贈って
わたしはあなたに時計を贈った
時が止まって
永遠になって
と わたしは 願った
あなたはちょっと笑って
白の向こうに 溶けていった

時が移った
心が変わった
あなたからの便りはなくなった
ただひたすらにわたしは待った
気持がはじけて涙になって
涙はこらえきれなくなった
わたしはあなたに手紙を送って
ふたりあの場所で再び会った
交わす言葉はほとんどなかった
「さようなら」とあなたは言って
「さようなら」とわたしは言った
あなたはちょっと手を振って
白の彼方に 消えていった

「ありがとう」とわたしはつぶやいて
物語はひとつ
終わった


001/001

020103 このサイトが迎える2回目の正月。


 元日の真昼間。新宿を歩いていた。毎週訪れる街で、毎度人ごみに揉まれる街だがこの日ばかりは少し様子が違っていた。人は少なく車は皆無。スクランブル交差点も苦もなく渡れる。空は雲ひとつなく晴れ渡っていて、この街で余裕を持って空を見上げることができたのは初めてだということを思う。空気は心なしか常より清浄で、肺の奥まで吸い込んでも不快を感じない。今日の日の特別を実感するのは、存外このような日常の中のちょっとした異様によってなのだった。馬鹿騒ぎの年越し番組や垂れ流しの正月番組によってでは、ない。もちろんやたらと豪華版で分厚く重いくせに中身はスカスカな朝刊によってでも、ない。

 ショッピングモールの各店頭には福袋が並べられ、売り子は懸命に声を張り上げて客引きをしていた。元日からお仕事とはなかなか大変なことだが自分だって明日の夜からバイトなのだということを思い出すと憂鬱になる。福袋をためつすがめつしている客を横目にしてテケテケと歩く。新しい一年の自分を思う。多分また、いろんな出会いがあり、新しい体験があり、少しの別れがあり、いくつかの忘却があるのだろう。去年も、一昨年も、その前の年も、素晴らしかった。今年も素晴らしくあれますように。何者かになるための漸近線を僕は今、描いている。何者かになれるかどうかはわからないけど、日々何かを描いているのだという実感は、欲しい。

 ふと思い立って実家に電話をしたら、妹が出てきてお年玉の報告をしてきた。例年よりも少し多くもらえたよ、と声が弾んでいたけどそれは兄である僕が今年初めてあげてみたからなのだよ、ということをわかっているのかい? 妹よ。お礼はどうした? ん? そう、いつの間にかお年玉をあげる立場に回ってしまっていたのだった。いい加減いい歳になったしそれなりに収入も得ているから当たり前なんだけど、この転換は予想外に静かにやってきた。もっと感慨深いものかと思っていたのに。両親の様子を訊いてみると、母はバラエティ番組を見、父は実業団駅伝を観ているという。いつもの風景で、容易に想像できる光景だ。実家を離れて迎える正月も3度目だけれど、長年繰り返された正月の家族の横顔は頭から消えることはない。同じものを食べて同じテレビ番組を見て同じ神社に初詣に行って。だけどやっぱり時は移ろい変化は進行している。まず正月の食卓から僕が消えたことはちょっと大きな変化ではあるのだろう。今年高校3年の妹は、どんな変化をもたらすのだろう。電話を切って、帰路につく。JRも地下鉄も、極端に人が少ない。

 家に帰って、めったにつけないテレビをつけたら各界の筋力自慢体力自慢が一堂に会してナンバーワンを決しようじゃねえか、という実に汗臭い番組をやっていた。僕はこの番組が割と好きなのでそのままぼんやりと鑑賞。どいつもこいつも並外れた運動能力を発揮している。自分の運動不足を省みて、腕立て伏せのひとつもやろうものなら殊勝だが、そんな心意気は欠片もない模様だ。そして僕は非力さなら自信がある。中学時代に腕相撲で女の子に負けて、以来それがトラウマとなって大の腕相撲嫌いとなってしまったのは有名な話だ。ところでケイン・コスギは俳優で照英はモデルだそうだが本業をこなしている姿を見たことがないのは気のせいなのか。

 ネットを散策していたら、浜崎あゆみが「Dearest」でレコード大賞を受賞したことを知る。そいつはめでたいことだったが全体どうしてこの曲で受賞したのかはよくわからなかった。「Dearest」と言われて即座にメロディが思い浮かび歌詞を口ずさめる人はさほど多くはないのではないか。いや、僕は大丈夫ですけど。お祝いにニューアルバム『I am...』を流してみる。発売日は今日だが当然のごとく僕はその5日前、店頭に並ぶ日にいち早く購入していた。浜崎の歌声が鳴り響く部屋で元日の夜にひとりキーボードを叩く背中は結構かっこいいと思う。まあそれはいいから浜崎よ、早いところ長瀬とは別れよう。そして僕と結婚しよう。それが、今年の目標。

 あけましておめでとうございます。年賀状、届きましたでしょうか。そしてお送りいただいたみなさん、ありがとうございます。

 本年もよろしくお願い致します。


001/001


2001 : 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12
2000 : 01-02 03-04 05-06 07-08 09-10 11 121999