020705 [日常]

 「ほれ」

 入社初日。紙の束が渡されました。いちばん大型のWクリップで、ギリギリはさめるかはさめないかの厚さの紙の束です。面食らった僕は、尋ねました。

 「え、えと、どうするんですか?」

 チラリと上目で一瞥を返して、社長は言いました。

 「今度ウチでさ、単行本作るの。お付き合いのある大学の先生が今度勲三等叙勲するから、その記念の随筆集。で、過去にいろんなトコで発表された原稿を集めたんだけど、40年前からのモンぜんぶ集めてっから、雑多すぎるのね。で、作品絞り込んで、毛色ごとに振り分けて章立てして、きちんとまとまったものを出したいワケ。今渡したのは割と適当に並んでるし選別もちゃんと済んでないからサ、キミ、読んで再構成して」

 はうあ。

 「読んで」と簡単に言われたものの、紙の束をパラパラとめくり確認してみると、ページ数にして320ページです。果てしない量のように思われました。長編小説ならば300ページ超くらいは普通の量ですし読むのに苦はないですが、「仕事として」読む320ページは一体いかほどの重量感をもって迫ってくるのか、当時の僕には想像もつきませんでした。ともあれ与えられたばかりで腰の落ち着かない椅子に腰掛け、長い長い「読み」に没頭することとなりました。

 いや、没頭、できればいいのですがあいにくそんな環境ではありません。始終他の仕事は舞い込んでくるし、ほうぼうから電話がかかってきて対応に追われます。5分と連続して読みに集中できることなんてありませんから、内容もなかなか頭に入らず、遅々としてページは先に進みません。それでもなんとかそれなりに緊張感を持続させることができたのは、新しい環境に突如として飛び込んだが故の、つまりは別の緊張感が背後にあったからだと思います。

 三日後。それは入社以来三日後でもあることも意味しますが、どうにか通しで何回か読んで内容を把握し、全体の雰囲気をつかんできた僕は、家でテキスト打ちした「構成表」を提出しました。章題であるとか改題であるとかも考えなければなりませんでしたから、この三日間はほんとにずっとこの紙の束(=ゲラ)とのお付き合いでした。そうして苦心惨憺の末にできた構成表を挟んで僕と社長は向かい合い、社長の一方的な質問に冷や汗をかきながら応戦しました。

 なにを質問されたのか。一言に集約すると、「意図」ということになります。この作品の次にこの作品を配した「意図」、この章にこの作品を入れ込んだ「意図」、この作品を改題した「意図」。すべてに答えられなければなりませんでした。ならなかったのですがそうもいかず、深い考えなしに組み上げた箇所に関してはしどろもどろな答弁になりました。ちょっとばかりの趣向を凝らしてつけた章題、改題も、「甘い」とばかりに真っ赤に修整されて返ってきました。先行き不安なスタートとなりました。

 「構成」の次は、「校正」です。左手に赤ペンを構え、誤字脱字をバッサバッサと正してゆきます。通常は初校、再校、三校といって三回も通して校正すればあらかた誤りは正されるのですが、なにぶん僕は本格的に校正に取り組むのは初めてです。三回校正しても五回校正しても十回校正しても、回を新たにするごとに要修正箇所が露見してきます。「どうして見逃していたのか」と首を傾げたくなるほど明白な誤字や脱字が次から次へと見つかります。「こんなこっちゃ不安でしょうがない」と、僕には通常よりも長めの校正の時間が与えられました。

 しかし与えられる時間にも限りがあって、工程は僕の校正作業の遅滞を横目に容赦なく進んでいきます。僕は製版所に乗り込んで校正、版が刷り上がってからも校正と、かなり見苦しくこの作業を繰り返すこととなりました。それぞれの部署の人にとってみれば迷惑極まりないお粗末さです。どうにか自分で満足ゆくだけの校正をすることができたのは、全工程も本当に終盤を迎える頃のこととなりました。赤ペンもインクがなくなり、かすれた字を息も絶え絶え出力する、そんな状態になっていました。ところでこの赤ペンは実は昔、馬券を買うときにあわせて購入した競馬新聞用のものを使い回しているのだ、なんてことは内緒です。

 これだけ校正が滞って堂々巡りになってしまったのは、僕の校正に対する認識の甘さによるものでした。それとともに自分がいかに言葉を知らないか、いかに誤って覚えているかを痛感することとなりました。ちょっとだけ保持していた自負も自信も、吹き飛びました。言葉に対する姿勢、認識を一度全部ぶっ壊して、再構築する必要がありそうです。そう思わせるほどに打ちのめされた、と言えるでしょう。それは少しの自分に対する落胆もはらんでいました。視点を変えれば、「新しい言葉の魅力に気付くことができた」と明るく言い放つこともできるでしょうが、まだそんな余裕はありません。

 中身と平行して、外見の制作も進んでいきます。ブックデザイナと打ち合わせを繰り返し、装丁を検討します。紙材、色、フォント、レイアウト。すべてについて様々な角度からアプローチを試みます。主としてデザイナと社長とのやり取りの中から方針が固まってゆくのですが、以前から「ブックデザインに興味がある」などと吹聴してきた僕のことですからそんな場で黙ってもいられず、ちょこちょこと意見を発してみました。デザイナはこんなへっぽこな僕の意見も取り入れて、案に反映させてくれました。各々の仕事に順位をつけるものではないですが、この装丁周辺の仕事はもっとも楽しいものでした。

 それぞれの工程がある程度進行して形が見えてきてから、著者のご登場、とあいなります。著者の自宅を訪問し、構成が固まり校正が入ったゲラを見せ、デザイナが制作した本の仕上がり見本を見せます。中身にしても外見にしても、基本的には著者の意向が第一となります。たとえば編集時点で「これを入れるのはどうかな?」と思った当落線上の作品があっても、あるいはデザイナが第三候補として用意した装丁案にしても、著者がゴーを出せばそれで進んでいきます。

 だけど著者の言うがまま、というのも問題で、そこは編集の意見、デザイナの意見も出しつつ妥協点を求めてゆかなければなりません。その「妥協」は決して下向きな妥協であってはならず、上向きな妥協であるべきです。「すべての人に満足ゆく仕事をさせるように環境を整えるのが僕たちの仕事だよ」と社長は言います。その通りであるのはわかるのですが、僕がそういった調整ごとをひどく不得手とするのも事実で、前段の装丁の仕事と対照的にこういったいわゆる「編集のお仕事」をするのに僕は難儀しています。

 編集もデザイナも満足な仕事をし、著者の確認が得られたら、あとは怒涛の最終工程に進んでゆくことになります。製版、印刷、製本です。この工程が実はもっともスケジュール的にはタイトでシビアなのだということも、僕は初めて知ることとなります。ここまできたらもう後戻りはできない、からにはスケジュールは密にしてどんどん流していく、というわけです。逆に言えばこうして手を離れる前に、でき得ること、成すべきことはすべて成しとかなければいけないのです。一冊の本ができるまでの工程とそれに関わる人の多さというのは僕の貧弱な想像を越えたものでした。

 「ほれ」

 昼過ぎ、印刷所からやや大きめの包みが届き、それを開いた社長が僕に一冊の本を手渡しました。社長は何を渡すにも、「ほれ」と、この一言です。渡されるほうの疑問も感慨もおかまいなしのようです。今度渡されたものの正体は、渡される前からわかっていました。入社以来二ヶ月近く、ずっと関わってきた本がついに、生まれ、手元にやってきたのです。しかし中身を見るのは、怖いのです。それは校正漏れが見つかるのが怖いから。だから僕はずっと本をなで回し、カバーを外し、あるいは表紙だけめくって見返しを確認し、化粧扉を確認し、悦に入っていました。社長は比較的冷静にそんな僕の姿を見、「みんなはじめはこんな感じなんだよな」と言っていましたが今度はこちらがおかまいなしです。今日のこの喜びをどう表現したらよいのでしょう。

 そしてその今日は、僕の、誕生日でした。

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