060110 ひと昔前のこと [日常]

 3夜連続の視聴率20%超えで有終の美を飾ったドラマ 『古畑任三郎FINAL』 ですが、僕は予約録画した6時間分のビデオテープを前に 「……いつ見られるかなあ」 と、途方に暮れています。HDDレコーダー隆盛のご時世、 「ビデオ」 という単語もずいぶんレトロな色合いを帯びてきました。

 『古畑任三郎』 には、苦い思い出があります。いまからちょうど10年前、古畑2ndシリーズ放映初日のことでした。1stシリーズであるところの 『警部補 古畑任三郎』 を再放送で見てすっかりハマってしまっていた僕は、2ndシリーズの開始を心待ちにしていました。初回の犯人役は明石家さんま。いやがうえにも期待は高まるというものです。

 ところがその日、正確にいえば1996年1月10日の夜、僕は風邪による40度近い高熱に苦しめられていました。吐き気をもよおしながらも、母が作ってくれたおかゆを胃袋におさめ、どうにかこうにか薬をのんで時刻を確認すると午後8時半。朦朧とした意識のなかで僕は、

 「ああ、古畑がはじまってしまう……」

 と気づき、そして、

 「録画予約しなくちゃ……」

 古畑ファンここにあり。2ndシリーズはすべて録画してやるぞと、前々から意気込んでいたのでした。2階の自分の部屋にあるビデオデッキを操作しに行くべく、フラフラゼエゼエと腰を浮かしかけたとき、

 「あんた、どこ行くん?」

 母に訊かれました。正直に 「 『古畑任三郎』 を録画予約しに行きます」 と答えては、呆れられてしまうに決まっています。 「や、ちょっと……」 と、思春期らしく最小限の言葉を返し、居間をあとにしました。初回はスペシャル版で、たしか放送時間が長いのだったな。予約時間、まちがえないように気をつけなくちゃな。こんなことを考えられるくらいには余裕があったのです。が、

 階段から転がり落ちました。

 気づけば、慌てふためいている母の姿、心配そうにのぞきこむ妹の顔が視界に。なんだか頭と腕が痛い。 「のぼる途中で意識を失い、階段から転がり落ちた」 という状況を認識するまで、数分を要しました。階段のどのへんまでのぼっていたのかは、記憶していませんでしたが。 「ああ、うう、えと……」 意識を取り戻したこと、言葉を発したことに、母も妹も一応の安堵の表情を浮かべたものの、 「息も絶え絶えの息子(兄)が階段下に横たわっている」 という非常事態に変わりはありません。少しでも安心してもらうべく、 「大丈夫だから大丈夫だから」 と口にしましたが、母は厳しい口調で 「何言ってんのっ。じっとしてなさい! 頭打ってるかもしれないんだから!」 「あ、う、は、はい……」

 「救急車呼んだからね!」

 え。

 ちょっと待ってください。

 古畑任三郎が見られないではないですか。

 痛む頭部は自分でも心配ですから、救急車で搬送という大事になってしまうこと自体は厭いません。しかしこのまま搬送されてしまっては、録画はおろかリアルタイムで視聴することもかないません。録画予約の必要性が、いっそう高まったわけです。

 「ちょ、ちょっとその前に2階行かせて」 制する手を払い、もそもそと起き上がって母に言いました。 「え? どうして?」 「や、ちょっと……」 この期におよんで、ごまかす僕。それが思春期。 「大丈夫? 動ける?」 「ん、大丈夫っぽいから……」 この時点では意識はむしろはっきりしており、高熱のつらさもそれほど感じていなかったのでした。困惑する母を階下に残し、這うようにして自分の部屋にたどりついた僕は、滞りなく録画予約を完了しました。近づくサイレンの音のなかで。

 搬送された先の病院で、問診とCT検査。とくに異常は認められず、入院するまでもなく家に帰されました。それはそうです、 「滞りなく録画予約」 ができるくらいなのですから。こんな事態になってしまった真の理由が 「古畑任三郎を録画予約しに行く途中で階段から転がり落ち、気絶」 だったなんてこと、医師には、そしてもちろん母にも、言えませんでした。10年経ったいま、告白し、謝りたい。昨今社会問題化している 「過剰な救急車要請」 が、僕にとっては身につまされる話題なのです。母ちゃん、すまんかった。

 後日見たビデオは、期待にたがわずおもしろかったですよ、うん。 「うん」 じゃない。

 そんな高校3年生、大学入試センター試験3日前の思い出でした。

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