060118 世代を規定するもの [随想]

 「宮沢りえっていい女優になったよなあ」

 という言葉を口にするとき、発言者はデビュー当時の、アイドル時代の、バラエティ番組にも出演していた、宮沢りえを知っていなければならない。 「こんなにいい女優になるとは思っていなかった」 という前提があってこそ、 「いい女優になったよなあ」 発言が導き出される。

 こないだより、もう一歩先へ飛んでみたい、でも飛べるかな? っていう不安は、お芝居のときはいつもあります。

宮沢りえ 『広告批評』 NO.299 2005 DEC

 その意味で、発言者の年齢には、ある下限が存在するものと考えられる。 『とんねるずのみなさんのおかげです』 に出演していたころ、写真集を出版したころ、貴花田との婚約記者会見をしたころを、リアルタイムで知っていなければならない。その他もろもろのワイドショー的報道にも逐次的に触れていてこそ、実感のこもった 「いい女優になったなあ」 が、口から漏れる。 『たそがれ清兵衛』 『父と暮せば』 といった映画や、 『伊右衛門』 『フィーノ』 といったCMでの現在の姿を観て、 「ふうむ」 と嘆息できる。 「物心ついたころから、宮沢りえは 『いい女優』 でしたよ」 という世代と、ここで確実に断層が生じている。

 個人の経験の積み重ね、引いては世代共通の経験は、だからこそ世代内において特に親密な意味をもって迎えられ、世代間において時に新鮮な印象を伴って語られる。アイドル時代の宮沢りえを知っている僕であるが、松田聖子と郷ひろみがかつて交際していて、破局記者会見の際に 「生まれ変わったら一緒になろうね」 なんて涙ながらの誓いがなされたということは、情報としてしか知らない。 「へええ、そうだったんですか」 てなもんで、ピンとこない。同質の感覚は、いわゆる 「ジェネレーション・ギャップ」 が生じる瞬間に、そこかしこで生まれている。 「宮沢りえ、昔、貴乃花親方と婚約してたんだぜ」 「へええ、そうだったんですか」

 経験(していること/していないこと)の差は、個人的認識のレベルにおいて実に顕著な差となる(けれど、その違いを言葉で表すことは、存外むずかしい)。 「宮沢りえっていい女優になったよなあ」 という言葉もまた、ひとつの世代を規定する。世代内の団結、世代間の断絶が、そこに生じる。

 ただ僕は、 『キン肉マン』 を知っている世代同士で盛り上がるのもいいけど、知らない世代に、その荒唐無稽さ、無茶苦茶さを伝えるのもまた、いいもんなんだよな、と思っている。

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