060315 誇り [随想]

 「わたし、昭和を一年でも生きたこと、誇りに思う」

 街中で、不意にこんな言葉が耳に飛び込んできたら、誰だって声がした方に顔を向けてしまうと思う。

 平日の昼休み、新宿の書店だった。僕は写真集売り場をふらふら歩いていた。

 「だってわたしたちのイッコ下なんて、平成しか知らないんだよ?」

 発言者は、金色に近い髪に、厚い化粧に、ふわふわした衣服に包まれた、少女だった。僕は 「この子、昭和六十三年生まれなんだな」 と、合点した。彼女は、傍らの友達(同じような背格好の)に、語りかけていたのだった。

 彼女の手には、写真集があった。それは、 「いわゆる昭和な」 風景を集めた写真集であることが、横目でもわかった。そういえば冒頭の発言の直前に、 「これ、ちょー昭和だよねー」 「ねー」 という会話が、二人の間で交わされていたようにも思う。

 事情が呑み込めると、 「昭和」 「生きた」 「誇り」 という、彼女の風貌にはあまりにも似つかわしくない単語が続けざまに発せられたことに、その現場に居合わせたことに、なんというかこう、 「おもしろい!」 と思ってしまった。彼女にとっての昭和六十三年は、すなわち零歳児のころ。記憶になんて残っちゃいない一年のことを、彼女は 「誇り」 に思っているという。

 してみると昭和を十二年間生きた僕は、彼女の十二倍、誇りを抱いていいはずだ。だけど僕には、そんな発想は微塵もなかった。 「昭和時代を生きたことを誇りに思う」 という発想。これは、あっていい発想だし、抱いてしかるべき誇りだと、気づかされた。ふだんは、 「元号って、なんのためにあるの?」 とか 「西暦に換算するの面倒なんだよなー」 とか思ってしまっている僕なんだけど。

 もっと言ってしまうと、僕はちょっと感動していた。 「誇り」 という、いささか気恥ずかしい単語をサラリと言えることとか、それを 「ある時代を生きたこと」 に結びつけて考えられることとか、無垢だとか若さだとかで片付けたくない瑞々しい感性に触れた思いがした。ひょっとしたら彼女はいま、平成十八年を誇りに思えるように生きているのかもしれない。ああ、その生き方はいいなあ。

 「わたし、昭和を一年でも生きたこと、誇りに思う」 と言った十七歳の少女は、僕のそんなささやかな感動を知る由もなく、気づけば姿を消していた。惜しかったな、 「感動をありがとう!」 って御礼したかったのに(通報されます)。

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