060515 ロール・プレイ [随想]

 ファンタジー色を帯びた古典的なロール・プレイング・ゲームにおいて、主人公としての 「勇者」 は 「魔王を倒して世界を救いなさい」 という 「役割」 を与えられます。プレイヤーは 「役割」 を果たすために 「勇者」 を操作し、仲間を集め、敵を蹴散らしレベルを上げて、ラスボスとしての魔王に挑みます。これが、おおざっぱな構図です。

 ここでいう 「勇者」 は、本来 「役割」 を果たして初めて 「勇者」 と称されるべきなのですが、ゲームの進行上は 「暫定勇者」 として、特権的立場で主人公を務めます。どこの馬の骨ともわからない若者のもとに、 「戦士」 「僧侶」 「魔法使い」 「踊り子」 のような立派な職業の人々が集い、 「暫定勇者」 の指揮に従って命を賭した戦いに身を投じるのですから、よくよく考えてみれば不思議な世界でした。

 「勇者」 の唯一無二の強みは、 「魔王を倒して世界を救いなさい」 という 「役割」 を与えられているという点です。王様だかクリスタルだか、とにかくその世界における 「絶対的な存在」 から 「役割」 を授かっているがため、彼はチームを指揮し、主人公たりえます。プレイヤーもまた、明確な 「役割」 がみえているからこそ、クリアするために何十時間も費やすだけの興味を持続させることができるのです。

 日常においても、 「役割」 の有無は人を衝き動かす活力の源として大きな意味をもちます。仕事のうえで、初めての大役を任されたとき。家庭のなかで、たとえば父親・母親としての自分を意識したとき。もちろん責任の重さをズシリと感じもするでしょうが、生活のなかのハリというか、生き続けるための支えというか、 「役割」 からはそういうものが(理想的には)もたらされるものだと思うのです。

 小学生のころを思い出してみるに、 「飼育がかり」 「図書がかり」 「給食当番」 といった 「役割」 を担うことは、 「めんどくさいなあ」 という気持、 「なんだか誇らしい」 という気持、半々ではなかったかと思います。ここで忘れてはならないのは、 「役割なんて知らねえよ、けっ」 などといった負の気持もまた、反発という活力を生む 「役割」 の正当な一作用であるという点です。

 逆に、 「役割」 が与えられない状況、これはつらい。会社で閑職に追いやられたり、試合で出場機会を得られなかったり。相応の理由があれば納得もできるでしょうが、意に反して、時として理不尽にも 「役割」 を奪われる状況、俗にいう 「ホされちまった」 状況は、多大な打撃を人に与えるものです。人が社会的な存在であろうとするとき、そこには大なり小なり何らかの 「役割」 の遂行がともなうからです。

 さて今日、 「ドイツに行って日本に勝利をもたらしなさい」 という 「役割」 を割り振られた23名が発表されました。一方、諸々の事由によって 「役割」 を与えられなかった人物がいて、その報道は驚きとともに巷間に受け止められたようです。彼が、 「役割」 の喪失をどう消化するのか、みずからの次の 「役割」 をどこに見出していくのか、この経験をどう活かすのか、いまは酷と思われるかもしれませんが、多くの人々が注目しています。8年前の彼が、別の 「役割」 のなかであがいているように。4年前の彼が、同じ 「役割」 を変わらず追い続け、ひとつの関門をクリアしたように。

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