061027 中田英寿さんと槇原敬之と安倍氏 [随想]

 昨夜友人から、 「君の日記は長い」 という指摘を受けました。僕もそう思います。あと、 「オチをつけろ (もろやんのように) 」 とも言われました。つけられるものならつけたいです。 「短く、簡潔にまとめる能力」 と 「オチをつける能力」 とは近しいものがあると思いますが、僕はどちらも持ち合わせていないので、毎度無駄に長い日記になってしまいます。とくに最近の日記の冗長化はひどいものがあるとも自覚しています。長い文章が敬遠されがちなご時世、携帯端末から読んでくださっている方も少なくないなか、いつまでも長ったらしい文章ばかり書いていては読者を失います。僕も徐々に改善していきたいと思っていますので、あたたかく見守っていただければ幸いです。

 と言いつつ、今日も長いです。

 サッカー日本代表の通称 「ヒデ」 が、自身のサイトで現役引退を表明した2006年7月3日を境に、報道における彼の表記は 「中田英寿」 から 「中田英寿さん (あるいは、中田英寿氏) 」 へと、ちょっとだけ変わりました。

 公人と私人 (一般人) の別について厳密に言及しようとすると話がややこしくなるので省きますが、報道において一般に芸能人やスポーツ選手たちは、その認知度ゆえ公人に近い存在とみなされ、敬称略で表記されることが多いようです。 「松井秀喜 復帰後第1号本塁打」 とか。これがもしも 「松井秀喜さん 復帰後第1号本塁打」 だったら、違和感を通り越して滑稽な印象すらあります。

 中田英寿さんも、現役選手時代は当然のように 「中田英寿」 「ヒデ」 と呼び捨てられていました。あるいは 「中田英寿選手」 という無難な表記、これも多かった。引退したとたん、こぞって 「中田英寿さん」 と表記が変わったわけです。僕は、この表記にいまだに慣れないでいます。無理やり肩書きを設けるとすれば、 「旅人」 でしょうか。 「中田英寿旅人」 。変だ。

 もっとも、このようにある日を境に突如として所属・肩書き等がなくなり一般人の立場になるなんてことは、かなり特殊なケースと考えてよいでしょう。スポーツ選手でいえば、引退後も所属は変わらなかったり、すぐさま 「コーチ」 「解説者」 などといった新しい肩書きが付与されることが多いはずです。あるいは引退とともにメディアへの露出もしだいに減少し、公人から私人への移行が緩やかになされるケースもあります。もしかしたら多数派はこちらでしょうか。

 7月3日を境に 「日本一有名な一般人」 になった中田英寿さんは、このいずれでもありません。いまなお 「中田英寿さんの逆転敗訴が確定」 「中田英寿氏、J2湘南のユニホームをデザイン」 などと見出しに登場し、そこはかとない違和感を僕にもたらしてくれています。

 公人・私人の別や敬称の要・不要をどう判断するかは、報道される媒体や、置かれる文脈によっても異なる問題です。中田英寿さんの例のように、原則に従おうとすると世間一般の感覚とのズレが生じる場合もあります。以下の見出しおよび記事本文ではどうでしょうか。

 松本零士さん、槙原敬之の盗作騒動収束へ
 漫画家の松本零士さん (68) が、シンガー・ソングライター槙原敬之 (37) 作曲の 「約束の場所」 の歌詞が 「銀河鉄道999」 のセリフを無断使用していると主張した問題で、双方は25日、ともに収束させる姿勢を打ち出した。 (以下略、 「槙原」 の表記は原文ママ)

日刊スポーツ (2006年10月26日)

 「松本零士さん」 と 「槙原敬之」 という表記が同居する、やや違和感のある見出し・記事になっています。普段、記者たちは表記の統一を第一に心がけているでしょうから、このような表記の不統一に無自覚であるはずはありません。作家・漫画家を含めたいわゆる 「文化人」 は要敬称、歌手を含めたいわゆる 「芸能人」 は敬称略で表記するという原則に忠実に、 「これでいい」 という合意が、報道する側でなされているわけです。

 一方、いわゆる 「クリエイター」 という同じカテゴリーでは 「松本零士」 と 「槙原敬之」 は等位置であり、敬称に差をつける必要はないのではないか、という見方もあるでしょう。そのとき問題となるのがキャリアの差で、御大・松本零士先生に敬意を払う一方、現役の槇原敬之は敬称略でよかろうという考えが、表記を判断する要因のひとつとなった――こう考えることもできるかもしれません。表記を選択・判断した記者の心中を知りたいところです。

 こうして 「報道と敬称」 の話を進めるうえで、日本のトップにまつわるごく最近の出来事に触れないわけにはいきません。2006年9月20日、自民党総裁選に勝利を収めた安倍晋三氏です。首相就任から1ヵ月が経ち、 「安倍首相」 「安倍総理」 「安倍総裁」 という表記にも馴染んできました。

 しかし、僕は忘れていません。自民党総裁選のまっただなかにあっては、 「安倍氏」 という表記が隆盛であったことを。この表記は、 「麻生氏」 「谷中氏」 と併置するうえで、公平性を保つ正しい選択といえます。ただこれは、僕のような 『週刊少年ジャンプ』 黄金世代をおおいに喜ばせるものでもありました。以下の見出しを例としましょう。

 自民党新総裁に安倍氏
 安倍氏 大差で新総裁選出
 決定! 新総裁は安倍氏

 「安倍氏」 を、ひらがな表記します。

 自民党新総裁にあべし
 あべし 大差で新総裁選出
 決定! 新総裁はあべし

 ビックリマークをつけます。

 自民党新総裁にあべし!
 あべし! 大差で新総裁選出
 決定! 新総裁はあべし!

 『北斗の拳』 です。

 総裁選の最中、僕は新聞の見出しを見るたびに 「安倍氏」 を 「あべし!」 に変換し、ひとりほくそ笑んでおりました。日本のトップ、総理大臣という役職に就いてしまった今後、見出し・記事上での安倍晋三氏の表記は 「安倍総理」 「安倍前首相」 「安倍元総理大臣」 という限定されたなかでのみ変遷していくでしょうから、再び 「安倍氏」 に戻ることはありません。刻々と変化する報道のなか、つかの間 「安倍氏」 という表記が大量生産され心を躍らせたあの日々を、僕は決して忘れることはないでしょう。

 長々と書きましたが、 「報道と敬称」 について考えるフリをしつつ、要は 「あべし!」 と言ってみたかっただけの日記でありました。そりゃ友人も 「長い」 「オチがない」 と指摘するはずです。

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