061023 絵画をわかるということ [随想]

 まことに、ほんとうにまことに残念なことなのだけれども、僕は絵画を語る言葉をもたない。前回の日記で 「 『美術館』 と名がつく施設だけでも8ヵ所巡りました。」 と書いておきながら、そして実際短期間で数百点もの絵画を鑑賞しておきながら、悲しいかな達した結論は、これであった。

 さらに先日、新宿の居酒屋で父と呑んでいたとき、 「ヨーロッパ旅行に行ってきたぜ。美術館、8つ行ってきたぜ」 という話をした。父は 「そうか。お前、絵が好きだったもんな。逆におれ、絵、わかんねえんだよな。 『いい絵だ』 とは思っても、 『どこが、どういいのか』 が、言葉にならないんだな」 と、言った。

 その場で 「いや、実はおれも同じなんだ」 とは言わなかった。 「やっぱりこの人の息子なんだな」 と思ったけれども、これももちろん言わなかった。あいまいに頷く僕を横目に、父は続けた。 「おれは理系だからなあ。文系だったら、絵、わかるんかな」

 人の資質を、いわゆる 「文系」 「理系」 に大別し、絵画の理解度を測ることはいかにも乱暴だし、父も本気でそう思っているわけではない様子であった。ただ 「そういう部分もあるかもなあ」 と、思わず納得してしまいそうになったのは事実で、核心の周縁を突いているようにも思われた。その日、絵画にまつわる話はここで打ち止めになってしまったけれど、この発言を契機に僕は、 「絵画をわかるということ」 についてあらためて考えてみたくなった。

 セザンヌは、光の波とともに浮動する印象主義の風景を何んとかして安定させようとした。彼の眼は、自然の拡 (ひろが) りより、自然の奥行に向けられ、瞬間の印象より、持続する実体を捕えようとした。そうして出来上ったセザンヌの絵の独特の魅力は、建築的という意味で、普通言われているが、それは、やはり音楽的だと言っても差支えないと思う。

小林秀雄 「近代絵画」 ( 『小林秀雄全作品22』 所収)

 まず、 「絵画は、わからなければならないのか?」 という問題がある。そして、 「絵画を 『わかる』 とはどういうことか?」 という疑問もある。あまりにも根本的な問いなので容易には答えられないし、答えようとすると頭がパンクしそうだ。少なくとも現在の日本では絵画を含めた美術鑑賞が高尚な趣味だと考えられていること、そのため、絵画に接するからには 「わからなければならない」 とする空気が支配的であるのはたしかだと思う。

 こうした状況を踏まえ、次に 「絵画がわかった」 ことはどうすれば表明できるかを考えてみる。感動を伝える、あるいは批評を加える手段は、やはり言語化しかないのではないか。非言語的表現である絵画を見て 「わかった」 ことを表明するために、言語を用いざるを得ないという点。 「絵画はわからなければならない」 という前提でもって絵画に接しようとするとき、いつも感じる敷居の高さはここに由来するのではないかと思う。そして言語化は、いわゆる 「文系」 の人々のほうが得手とする (とされる) ところなのであって、先の父の発言も僕の納得も、この背景に起因するものだったろう。上に引用した、小林秀雄がセザンヌについて語った文章は、いかにも 「文学」 である。こういう文章を読むと、絵画と文学とは実に親和性の高いものだと感じる。

 では、前提を崩してみたらどうだろう。 「わからなくてもいいじゃないか」 という姿勢を許容するならば、絵画の楽しみはおおいに広がるのではないか。 「なんかいい」 「この青がキレイ」 「この裸体は魅惑的」 ――このような 「わかってないけど、いい」 を素直に表明しても冷たい目で見られないような土壌があれば、敷居はぐっと低くなるのではないか。 「わからん」 絵画のなかから 「なんかいい」 絵画を一点見つけ出し、記憶に留めるだけで、それはすでに 「絵画鑑賞」 なんですよと、僕は言いたい。言ってもらいたい。

 最後に、僕自身の絵画の楽しみ方を整理してみる。僕は美術史に精通しているわけではないし、何らかの絵画的表現を実践しているわけでもない。くり返しているように絵画を語る言葉ももたない。そんな僕が絵画を見に美術館に足を運ぶ動機のひとつは、 「世界にひとつしかないものに出会うこと」 に対する、いくらかの喜びにあると考えている。

 もちろん想像力を働かせれば、どんな建築物も工業製品も、たとえばいま目の前にある僕のパソコンも、いずれも 「世界にひとつしかないもの」 であるという意味で等価ではある。しかし絵画の場合、ひとりの画家が長時間キャンバスに向かい製作したものであること、加えて数百年の評価に耐え、国を移り持ち主を移り、保存され、修復され、いま自分の目の前にあること、これらのストーリーが付加されることにより、 「世界にひとつしかない度合い (変な言葉だ) 」 が格段に増幅されているように感じる。 「ある日本の展覧会で出会ったことのある絵画に、ヨーロッパの美術館で再会すること」 は、この上もない喜びであることも、先日知った。 「わかるようになりたい」 という願望は依然もち続けているものの、 「こういう楽しみ方もいいじゃないか」 という自負はある。

[…] あらゆる人間があらゆる芸術を等しく理解できると想定することが、そもそも無理なのです。 (中略) 何なら、芸術全般全て駄目、であっても、別に構いません。芸術以外の全てに対してもまるで鈍感というのでもない限り、人生は、おそらくですが、何か別の楽しみを提供してくれるでしょう。 (中略) 音楽が判るより、絵が楽しめるより、小説を味わえるよりはるかに大切なことは幾らでもあります。

佐藤亜紀 『小説のストラテジー』 青土社

 小林秀雄が、昭和27年から28年にかけての8ヵ月にわたる海外旅行のあいだ、もっとも熱心におこなったのは絵画鑑賞であったという。 「当時得た感動を基として、近代絵画に関する自分の考えをまとめてみたいと思い」 、毎月雑誌に発表し続けること4年。そうしてまとまったのが、 『近代絵画』 という本であった。かの小林秀雄が4年かけて考え続け書き続け、やっと1冊の本に至る。絵画について真に語るとは、こういうことなのではないか。1枚の絵画を目にし、一言の言葉も出てこなくとも、何も恥ずべきことはない。絵画を語れない言い訳をこうして書き連ねるより先に、まず1枚の絵画の前に立つことだ。

参考資料
小林秀雄 『小林秀雄全作品22 近代絵画』 新潮社
佐藤亜紀 『小説のストラテジー』 青土社

comments

「絵画」を「人間」に変えても成り立ちますね。
もしかしたら、「○○」も成り立つのかな。
深いなぁ。

  • by ishii
  • at 061024 12:24

ishiiさん>
お、たしかにそう言えるかもしれません。<「人間」
言語化する苦労は、何にだってまとわりつきますからね。
いま、おおいに苦しんでおります。

  • by Rana
  • at 061024 21:39
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