080819 1345個目のフォアボール [野球]

 プロ野球、オリックス・バファローズの清原和博内野手が今季限りでの引退を示唆する会見をおこなったのは8月2日のことであった。最後の姿を拝もうと、17、18日、続けて西武ドームへ行ってきた。

 僕が埼玉西武ライオンズに入れ込むようになったのは清原が入団したからこそなのだけれども、そのライオンズに声援を送りつつ、現在は相手チームに所属している清原の登場を待ち望むという、複雑な心持での観戦であった (手術した左ひざが癒えぬまま一軍復帰した清原の起用法は 「試合終盤の代打」 に限定されている) 。

 17日は、一塁側内野指定席を確保した。ホームチームを応援するため、というのは今回に限っては建前で、第一義は 「清原が座る三塁側バファローズベンチを凝視するため」 であった。 「談笑する清原」 「チャンスに拍手を送る清原」 「ベンチ裏に消える清原」 の姿を、逐一確認していた。

 結局この日は 「代打・清原」 がコールされることはなかった。リーグ3位以内でのクライマックスシリーズ (プレーオフ) 進出をめざしているバファローズのチーム状況にあって、 「代打・清原」 策をとりうるか否か、その判断の前には戦略と温情、勝負と興行、試合展開と本人のひざの状態、さまざまな因子が交差する。

 翌18日は、バックネット裏のボックスシートを確保した。こんなに値が張る席で観戦するのは初めてだ (ふだんは最安値の外野自由席) 。ひとえに清原の一打席のための出費であり、これで登場しなかったら泣くに泣けない。ただ、この日は清原41回目の誕生日ということで、「おそらく出場するよね」 との予測があった。本来、プロ野球選手の出場の有無に誕生日もへったくれもないのだけれど。隣のボックスには 「KIYOHARA 3」 のロゴが入ったメガホンを振る家族連れがいて、父親は僕と同世代と思われた。小学校低学年に見受けられる息子が着ていたのは 「H. NAKAJIMA 3」 のTシャツだった。

 登場は7回表。一死二塁の場面で 「代打・清原」 。瞬間、球場全体に轟音が響いた。一球一球に歓声と悲鳴。フォアボールで出塁という結果に拍手。代走を送られてベンチに下がる姿にまた拍手。こんな花道が用意される選手も稀有だよなあ。考えてみれば僕は初めて、この球場で清原の打席を見たのだった。

 試合後、清原は球団広報を通じて 「自分にとっての最後のシーズンの誕生日を西武球場で迎えることができて、本当に感謝しています」 とコメントした。 「示唆」 から 「表明」 へ。大阪・朝日放送 (当時) の植草貞夫アナウンサーが 「甲子園は清原のためにあるのかっ!」 と絶叫してから、23年が経っていた。

参考資料
清原引退決意 「野球人生の最後」 1軍復帰 - 野球ニュース : nikkansports.com
清原41歳誕生日に 「最後のシーズン」 明言 - 野球ニュース : nikkansports.com

『週刊 甲子園の夏』 朝日新聞出版 2008年6月22日号 vol.01

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