020923 機会 [随想]

よく言われることだが。

「数学はなんの役に立ちますか?」

とか、

「古文を習って意味があるの?」

とかいう疑問が提示される。
僕も学生時代、ちょっとだけ思っていた。
けど、「役」だとか「意味」だとかうだうだ考える前に
とにかくやってみっか、てな思いで取り組んでいた。

今だったらこう思う。

それは結局、機会の均等化なんだな、と。

ある人にとってみれば至極つまらないように思える数式も
他のある人にとってみれば興奮ものだったり、

ある人にとってみれば退屈極まりないように思える古典も
他のある人にとってみれば魅力溢れるものだったり、

ある人にとってみれば意味不明に思える楽譜も
他のある人にとってみれば旋律の源だったりする。

だけどそういったものに出会う機会って年若なうちは
学校以外ではなかなかない。

そして年若なうちにこういった機会に恵まれのめり込むことが
後のために大切だったりする。

もちろん幸福な出会いばかりではないだろうから
「つまんねえ」「わかんねえ」「くだらねえ」と思うこともあるだろう。

けどそういった負の感想であっても
感想を抱いたこと自体が大切なのであって、

感想を抱く機会すら与えられないこと、
これがいちばんの不幸だったりする。

触れてみて、「無理」だと思うことも、
かじってみて、「合わない」と思うことも、
足を突っ込んでみて「引き返そう」と思うことも、

いずれも経験であり進歩なのである。

塾講師をしていた、ある友人が言っていた。

生徒に、
「古文なんか普通に生活してたら使わへんやろ」とか
「文法なんか知らんかっても、日本語しゃべれんで」とかってよく言われた。

と。

彼はこう答えた。

知らへんより、知ってるほうがたのしいやろ?

さらにこう継いだ。

知っていても仕方のないこと、やっても仕方のないことを
あえて知ろうとしたり、やってみたり。それが楽しいんだと思う。
自分のすべてに意味を求めるのは窮屈だもの。

そのとおりなんだと思う。

技術の時間に文鎮を作らなかったら
真鍮を旋盤で切るときの音も感覚も知らないままだったろうし、

体育の時間にサッカーをしなかったら
ボールが顔面に当たった痛みも泥の味も知らないままだったろうし、

古文の時間にカ行変格活用を習わなかったら
現代の言葉につながる歴史も日本語の美しさも知らないままだったろう。

また人の話の引用をする。

研究室時代、先輩が言っていた。

衝撃的学術論文に出くわすとウキウキする。
それはまるで推理小説最後の50ページを読んでるみたいな感覚だよ。

と。

そう、論文は面白い。

こんな着想があったのか! とか、
すげえ証明だ! とか。

僕の数少ない経験の中でもそういう論文はあった。
けど僕はその面白味を理解しきれないまま、
自らは面白味を提出できないままにリタイアしてしまった。

この自分の経験からも同じことが言える。

機会は与えられた、けど合わなかった。
それだけのことで
そう思えたことは幸せだった。

そして声援を送る。

数式を読んで震える人も、
古典を読んで涙する人も、
楽譜を読んで口ずさむ人も、

出会いの機会に感謝し究めてもらいたいと思う。

難解な学術論文に光を見出せる人は、
その能力を備えた時点で少しの義務も背負うのだと思う。

あなたのその仕事は、あなたにしかできないのだから。

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