030119 親父の引っ越し [日常]

 転勤で東京勤務となった父が、僕の家から地下鉄で一本と、そう遠くない距離に引っ越してきた。その当日、つまり今日だが、僕は引っ越しの手伝いのために休日らしからぬ早起きをして外へ出て、前夜父が滞在していたホテルへと向かった。

 僕がホテルに着いた時には、折よく父はチェックアウトの手続をしている最中で、そこには広い背中と、その傍らの少しの手荷物があった。それは、昨年の夏以来、半年ぶりに見る姿であった。僕らは「おう」とのみ言葉を交わしてホテルを出て、程ない距離にある駅へと歩いた。僕は荷物の半分を引き受け、「元気か」「メシ食ってんのか」「会社はどうだ」との質問に対して相応の相槌を返していた。

 地下鉄に乗り込み、二人並んで座る。休日の朝に都心から郊外へと走る電車に乗客がいるはずもなく、車両には僕ら二人のみであった。世間一般の二十代半ばの息子と、五十過ぎの父親とが二人きりになった時、はたしてどのような挙動をとるべきなのか、僕には知る由もないが、僕らはまあそれなりに自然に、少しだけぎこちなく、時と空間をやりくりしていた。

 駅に着き、改札を出るとまず、有線がやかましく流れる商店街が目と耳に飛び込んできた。それは実に健全で正しく模範的な商店街で、スーパーがあり蕎麦屋がありラーメン屋があり薬屋があり雑貨屋がありパチンコ屋があった。手近にあったチェーンの牛丼屋で腹を満たしてから商店街をくぐり抜け、父の新しい住居へと向かった。父とて下見の際に一度訪れたのみの見知らぬ土地なので、地図を見ながらのゆったりとした行脚だった。

 父が新しく入居することになった単身赴任寮は、所謂ベッド・タウンの閑静な住宅街に埋もれている建物で、新しくも古くもない、といった印象を与えた。やたらと愛想がよく世話見のいい管理人が出迎えてくれて、僕らにあれやこれやの説明を施した。頼りになるな、と思う反面、少々うるさ型なのではないかと思うくらいであった。

 案内されて部屋に入ると、そこにはいかにもなワンルームがあった。せまいキッチンとユニットバス、無駄に広い玄関と下駄箱。会社が用意していたテレビと冷蔵庫以外は何もなく、これから到着するはずの荷物を、冷たい床に座って待つことにした。「せまいよなあ」と父は言い、「せまいよねえ」と僕は言った。九州にいた頃に入っていた寮と比べることは、諸条件を考えてみても虚しいことのように思われた。東京には東京の寮があるのである。

 荷物が届く。ダンボールにして三十六個。運送屋の二人と父と僕、男手が四つもあると運び入れるのはあっという間だった。問題は言うまでもなく積み重ねられたダンボールの処置で、ひとつひとつを開けて中身を確認し整理し配置していく作業に数時間が費やされた。僕は引っ越し屋のバイトをしたことがあったし友人の引っ越しの手伝いをしたことも一度や二度ではなかったので、てきぱきてきぱきとよく動いた。この働きは父にとっては意外だったらしく、「お前、わりとやるなあ」とやや心外なことを言われたので、「ふふん」と勝ち誇ってみた。一体何に勝ったつもりになっているのか。

 落ち着いたところで、実家の母と妹に報告がてら電話をすると、センター試験から帰ってきたばかりの妹が一言、「あかんわあ」と叫んでいた。英語が思うようにできなかったらしく、自己採点の結果に少々落ち込んでいるようだった。「まあ、しゃあないわあ」と父と二人して慰めたが、これがはたして慰めになっているのかどうか。なってないような気がする。僕もセンター試験は二回受けるハメになって二回とも芳しくない成績だったわけで、この兄妹にとって鬼門のようである。まあ挽回はいつだってどこでだってできるよ、というメッセージを僕は背中から発しているつもりなのだが、そのメッセージは多分に弱すぎるのだろう、妹に届いている気配はない。

 あらかた部屋の片づけが終わると、なかなか悪くない部屋のように思われてくるから不思議である。「いい感じだなあ」と言う父に、「いいねえ」と返す僕。これは慰めではない。こうなると、町自体のこともよく見えてくるというもので、駅近くで大概のものは取り揃えることのできる環境を確認して満足した父は、「いい町じゃないか」と言う。「ん、住みやすそうだね」と言う僕の言葉もまた、決して慰めではないのである。本当に、いい町だと思ったのだ。数時間の滞在で断言できるものではないけれど、最初の数時間の印象が大事なのだということもまた事実である。

 引っ越し祝いを兼ねて、駅近くの居酒屋で食事をする。生中で乾杯し、「向こうじゃ送別会の連続でなあ、疲れちまったよ」とこぼす父に、「ま、今日は早く寝れるじゃん」と言った。「明日も明日で歓迎会なんだけどな」と苦笑いする父の顔には、年相応の皺が刻まれている。「おれも明日から出張だよ」と言うと父は、「そうか」とうなずき、「お前も色々やってんな」と言った。二人とも飲めない性質ではないのだが、お互いの明日のことを考えてか、酒量は控えめだった。それでも疲れを癒すためだかなんだかでしっかり食べるものは食べて、二人して満腹のため息を漏らしていた。

 店を出る間際に、僕は先日出たばかりの、自分が解説を寄せた文庫本を手渡した。「あとで読んでみて」との一言のみを添えて。父は瞬間眉根を寄せてその表紙をじっと見詰め、何も言わずに懐へ収めた。外は冷たい雨が降っていて、用意していた折りたたみ傘ではいかにも心許なかった。少し歩いて地下鉄の駅の入り口に着き、「じゃあ、ここでな」と父は言い、「ああ」と僕は言った。「今度、おでんでも作るか。お前もまた、来いな」と階段を降りかけた僕の背中に向けて浴びせられた父の声は、懐かしく、近く、そして、遠かった。

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