030401 桜が待っていた [随想]

 1997年3月31日、月曜日。

 その日、昼過ぎの新幹線に乗って僕は東京へ出てきた。

 天気はあんまりよくなくて、ビニル傘を持っていた記憶がある。

 出発前、駅ビルのうどん屋で母と妹と、親子3人向かい合い、食事をすませた。とくに感慨もなく、そのまま買物してバスで家に戻ってもよさそうな、実に自然な流れであった。ただ、大きな荷物を両手に持った僕が、ひとりで改札に向かったこと、それだけがいつもと違っていた。

 「岡山駅まで見送りに行こうか」

 と言うのを倉敷駅で制して、そこで「じゃあ、行ってくるね」と別れたのは、無論気恥ずかしさからによるものであった。

 ひとり暮らしについては、中学生のころから「するものだ」というアタマがあったので、ようやくその時がきたかなあ、という程度の心構えであった。よもやその地が東京になろうとは思ってなかったけれども。

 部屋は神田川沿いにあるアパートの3階で、築年数は結構経ているようだった。天井の板目を目立たせる染みが気になったし、多すぎる柱の傷も気になった。だけど変に新しく小奇麗なワンルームマンションなんかよりは、よっぽど自分に合っているように思われた。なにより、窓から神田川沿いの桜並木が見えて、そしてその桜がまさしく今、満開であったことが気に入っていた。これから毎年、この桜を見ることができるのである。

 そもそも部屋を決めたのが、わずか5日前のことだった。大学の合格発表の日程の関係で、身の振り方がなかなか決まらなかったからだ。新学期が始まろうかというこんな時期にいい物件が残っているはずもない……と思っていたのだけれど、運よく学校から程近い、手ごろな値段の物件にありつくことができた。古いし汚い部屋だが、とくに不満でもなかった。けどもしも例えば関西に住むことになっていたならば、半分の値段で倍の広さの部屋に住めたのになあ、とは少しだけ思っていた。

 東京に来て辟易したのが、電車の路線の多さだった。どこに行くのに、なにに乗るべきなのか、さっぱりわからない。当時はiモードなんてものは存在していなかった(そもそも携帯電話なんて持っていなかった)ので、頼りとするのはややっこしい路線図のみであった。歩いて大学に行ける部屋にして本当によかった、と思った。あとで気付いたのだが、この日を最後にJRの初乗り運賃は120円から130円に値上げされていたのであった。悔しい。そういえば当時は自動改札機への移行期だったので、駅員が手に持つハサミがカチカチカチカチ……と音を立てていた駅もまだ残っていた。リズミカルな、耳に心地よい音だった。その風景は今はない。

 さして広くもない部屋に、さして多くもない荷物が運び込まれ、僕は真新しい畳の匂いが立ち込める部屋にひとりで座っていた。ともあれ入学祝に買ってもらったCDコンポを接続し、ラジオを流してみた。耳に入る言葉がことごとく関西弁ではないことに、違和感があった。僕はラジオ大阪OBCや、MBS毎日放送を常日頃聴いていたのだが、その周波数に合わせても雑音しか入らない。深夜になると電波状態がよくなるのか、少しはクリアに聴こえるようになるので(それでも雑音混じりだ)、それを聴くことで飢えをしのいだ。そして眠りについた。

 翌朝。4月1日。吐き気とともに目が覚めた。しばらく嗚咽を漏らした。なにがなんだか、わからなかった。悶絶していた。数十分の後になんとか気分を取り戻し、どうにかこうにか入学式に出るための準備を整えた。あとで思うに、これはストレス性のものだったのであろうと。表面上は平静だったけれども、ひとり暮らしを始める、大学に入る、これらのことが知らずストレスになっていたのだろうと。僕の心はヤワだった。目覚めの吐き気は数日続いて、そしてパタリとなくなった。適応が進んだらしい。入学式、科目登録、大学初授業、歓迎オリエンテーション、サークル新歓コンパ……これらが押し寄せ、呑まれるままに時は流れた。それが僕の東京生活のスタートだった。

 2003年4月1日、火曜日。

 6年前の3月31日の明日が今日でも、

 何も不思議ではないように思われる。

 不安をごまかしながら出発した僕を

 見送ってくれたのも、桜だった。

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