030828 先輩 [随想]

 僕には、先輩社員がいませんでした。

 飛び込んだのは入れ替わりの激しい業界であり、入ったのは小さな小さな会社です。入社時には、同期入社の社員が1名、いたばかりでした。それも僕と同様に未経験ということで、スタートラインは同じです。よって仕事は、「先輩社員」というありがたき緩衝材を間に挟むことなく、社長からダイレクトに仕込まれることになりました。

 1年と少しの間に、多くの社員が入社し、それと同じ数だけの社員が辞めていきました。ほんのひとときでも「同僚」になった社員それぞれには、さまざまな経歴がありました。編集プロダクションに在籍していた人とか、フリーでライターをやっていた人とか。いずれ劣らぬ個性的なメンツで、僕も学ぶところ多かったものですが、学び切る前に社を去ってしまうことになるので、残る僕としてはいつも複雑な心持でした。

 業界内では先輩にあたる人々を相手にして、社の中では僕が先輩ということになりますから、仕事を教えなければならない、そんな微妙な人間関係が、そこにはありました。たとえば20も年齢が上の人から敬語で話しかけられ、僕も当然のことながら敬語で応じ、仕事を説明するという、どうにも曖昧な距離感です。ここで僕が「やだなあ、敬語なんか使わないでくださいよ」という意思を、言葉ででも態度ででも伝えることができていたならば、少しはこの違和感も解消されていたのかもしれません。しかしあいにく僕に、そういった器用な振る舞いはできませんでした。

 そんな僕に、本当の意味での「後輩」ができたのは、この5月のことです。

 僕と同じ年齢の、僕と同じような経歴をもった彼の、入社後数日の所作は、ちょうど1年前の自分を思い出させる、実にぎこちないものでした。「ああ、僕もこんなんだったなあ」と、懐かしくも恥ずかしくも、当時の自分を思い起こさずにはいられませんでした。彼に教えるべきは仕事だけではなく、電話の応対、原稿やデザインやイラストを依頼するときの言葉づかいといった、基本的なところからはじまりました。

 ここで戸惑ったのは、僕自身です。「先輩」から教えられた経験のない僕が、突如「後輩」をもつこととなったのです。そもそも昔から「先輩―後輩」的な関係性が苦手で、避けてきた部分があります。1年あまりのキャリアで、一体何を教えられるというのか。「先輩として」何ができるというのか。自問しながらほんの僅かな知識と経験を総動員して「編集の何たるか」について伝授している姿は、滑稽ですらあったことでしょう。

 しかし、ほぼ同じ立場、ほんの少しだけの先輩だからこそ、与えられるアドバイスというものがあることに、やがて気がつきました。1年前の自分が、何を知りたかったか、何が不安だったか、思い出しながら助言していきました。キャリア30年超を誇る社長ではできない教え方をしようと、心がけました。

 教えることは昔から、苦手でした。向いていない、と思っていました。教育学部に籍を置いていながら教職課程を履修しなかったのは、自らの適性を考慮してのことでした(開放性の教育課程とやらを実施していたので、そういったことが可能でした)。ですが一度「せざるを得ない」状況に身を置くとどうにかなるもので、たどたどしいながらもわかりやすく、仕事を伝授をしてこれたのではないか、と思います。あくまで自己評価ですが。

 そうして3ヵ月。僕にも先輩としての自覚がある程度根付きはじめた矢先、彼が辞めることになりました。

 それはありていに言えばクビであり、せいぜい好意的に表現してみても、「話し合いの上での自主的な退社」でした。この3ヵ月、当時の僕にも増して四苦八苦しながらついてきていた彼を間近で見てきた僕は、少しの驚きはありながらも「やっぱりな」という思いが浮かんでくるのを否定できませんでした。社員が辞めていく、という事態に対しての免疫ができてしまったということもありますが。

 仕事には、適性があります。また、環境との相性もあるでしょう。適性も相性も、せいぜい働き出して1年あまり、自身についての判断すらもまだ下せていない自分が語ることは非常におこがましいのですが、彼にとってこの仕事は向いていない、この環境は合っていないというのは、時々感じることでした。この感覚はそっくりそのまま自分に対しても折に触れて向けられるものですから、対象が他者に向けられて客観的な評価が可能な状況にあると、余計に増幅されるものなのです。

 彼はあと3週間だけ社に在籍してから、僕の後輩ではなくなることになりました。同年齢の彼に対して何かしらの慰みを言うことは、侮蔑にも等しいことであるように思われるので、言うつもりはありません。心配することそのものも、彼の人生に対して失礼なことのように思われます。だから残りの期間もこれまでと変わらず、淡々とした先輩―後輩としての関係性を保ちながら経過していくのではないかと、予測します。淡白に過ぎるかもしれませんが、それしかできません。

 ただ、彼が最後の勤めを終えて、後輩ではなくなったその瞬間に、どんな会話を交わすことができるのかは、少し楽しみにしています。

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