041023 受け取るのは、本だけじゃなくて [随想]

 藤子・F・不二雄氏は、週に一度、3人の娘に本を与えていたという。

 興味の幅が広いF氏のこと、選ぶ本のジャンルはさぞかし多岐にわたっていたろう、と推測する。長女の土屋匡美さんは、 「今でも記憶に残っているのはレイ・ブラッドベリのSF短編集 『火星年代記』 です」 と語る。傾向としては、科学もの、歴史ものの本が多かったようだ。さらに土屋さんは、 「高校に入ってからは読み残すことが多くなり、父もあきらめたようですが」 とも語っている。

 「親に与えられた本」 ということで僕が思い出すのは、幼稚園のころに買ってもらっていた、絵本の数々だ。

 通っていた幼稚園で、希望する親たちからの注文を取りまとめて購入してくれたのだった。月に一冊ずつ、それは園児たちに配られる。ふだん登園拒否をしていた僕も、絵本が配られるその日だけは、絶対に休まなかった。 『おおきなかぶ』 や 『スーホの白い馬』 、 『ぐりとぐら』 シリーズや 『だるまちゃん』 シリーズといった有名どころの絵本から、今となっては内容はおろか題名すらも思い出せない絵本まで、ほんとにたくさんの絵本に触れることができた。

 ただ、以降、 「親に与えられた本」 の記憶は、ぱったり途絶える。

 小学校に上がってから読む本は、図書室で自分で選ぶ本が主だった。高学年あたりから中学にかけては、両親の本棚から適当に本をみつくろって読んでいた。高校のときは、小遣いをやりくりして古本屋で文庫本を乱買いした。僕はてんで勝手に本を選び、勝手放題に好きな作家をつくっていった。この間、親があえて 「これを読め」 などと薦めてきた本はなかった。

 僕にとっては、そちらのほうがありがたかった。強制されなかったからこそ、嫌いにならなかったのだ。自分で選べたからこそ、高校生になって、やがて親の 「おさがり」 ではない自分の作家を手に入れたときに、大きな喜びが得られたのだ。

 このように息子の読書欲の矛先に無頓着でありながらも、それでも親は親で、子どもがどんな本を読んでいるのかが気になるものらしい。たとえば父は、原田宗典や北村薫の作品を読んでみたらしい。そして、 「おれはあんまり好きじゃない」 という感想を抱いたらしい。

 それを聞いて僕は、けっして落胆はしなかった。むしろ、ほっとした。なんでもわかり合える、分かち合える父と子、そんな関係ではないほうが、いいと思った。

 将来、僕に子どもができて。

 僕はどちらの立場の親になるのだろう、と思う。F氏のように積極的に本を与える親か。うちの両親のように放置しておく親か。まあ子どもの性格にもよるのだろうから、いま考えたってしょうがないことではある。

 だけど、ひとつ思う。やがて子どもが自分の作家を手に入れて、僕がその作品を読んでみて、「おもしろくないなあ」 という感想を抱いたとしても、それを快く受け入れられる親にはなっていたいなあ、と。

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