041222 ハチベエになれなかった [随想]

 ポプラ社の 『ズッコケ三人組』 シリーズ(那須正幹)が完結するということで、最後の巻となる50作目 『ズッコケ三人組の卒業式』 を購入した。

 ハチベエ、ハカセ、モーちゃんという3人の少年が活躍するこのシリーズを、僕は小学生時代に愛読していた。出会いはたしか2年生のころで、図書室に置いてあったシリーズはじめの4作を繰り返し読んでたんだけれども、やがて飽き足らなくなって1冊、また1冊と親にねだって買ってもらったのだった。 「ようやくマンガ以外も読むようになったか」 と、このシリーズの購入にあたっては親も悪い顔はしなかった。

 既刊すべてを読破してからは、半年に一度の発売日が楽しみで仕方がなかった。最新刊を読み終えると、すぐに半年後に思いを馳せる。巻末の 「あとがき」 に次作のタイトルが発表されてるもんだから、読みたさは募る。けれど当時、半年はすなわち1学年の半分であり、それは途方もなく長い期間に思われた。ので、やはり再び既刊を手にして、飢えをごまかすことにする。何度読み返したかわからない。1ケタじゃきかない。何十回だろう。

 ファンクラブにも入会した。設立早々だったので、かなり若い番号だった。いまや会員数は4万5000を超えているそうだ。ファンクラブ手帳と会員証は、実家の机の引き出しにおさまっている。

 しかし、やがて僕は 『ズッコケ三人組』 を読まなくなる。小学6年生の夏に出たシリーズ第20作を最後に、買わなくなってしまう。 「もう、ズッコケはいいかな」 と思いながら、より字の小さい本を探し、より刺激の強い本を求めるようになる。児童書には、そういう側面がある。いつか別れる。都合5年間、たった20作しか読んでいなかったんだと、いまの僕は思う。

 アニメ化されたりドラマ化されたりして知名度がグンと上がったのは、僕が遠ざかったのとちょうど入れ替わりだった。だから僕は、アニメもドラマもまともに観ていない。すっかり情報に疎くなり、たまに書店で新刊を見かけて 「あ、まだ続いてたのか」 と思うにとどまるようになっていた僕の 『ズッコケ三人組』 との付き合いの変遷は、薄情というかむしろ、ごくありふれたものなんだろう。

 「完結します」 というニュースを耳にして、初めて自分のお金で購入したシリーズ最終巻が、 『ズッコケ三人組の卒業式』 。15年ぶりに読んでみて、 「変わってないなあ、この3人」 と思い、 「こんなに短かったっけか」 と思い、 「時代も変わったなあ」 と思う。ノートパソコンが登場し、携帯電話が登場し、モーちゃんは 「なんだか二十六年くらい、ずっと六年生やってたみたいな気がする。」 と、ニクイことを言ってくれている。

 読み終えるのに、1時間もかからない。3人の卒業に涙するということはもちろんなくて、気づくのは子どもに向けて書かれる文章とはどうあるべきかということだったり、その実践としての那須正幹の文章の巧さだったりする。そういう読み方になってしまっている。 「児童文学」 という言葉を知り、 「児童文学である」 ということを意識しながら読んでしまうということは、もう二度と小学生のころのような心持でこの作品を読むことはできないのだ、ということを意味する。

 ひとつだけ、当時と同じ思いが沸き起こってきた。僕はやっぱり、ハチベエにはなれない。なれなかった。もの知りめがねのハカセや、まんまるスローモーなモーちゃんは、自分と重なるところも多くて感情移入できるのだけど、色黒で活動的、トリックスター的に立ち回るハチベエは対極で、遠い存在だった。彼みたいに周囲をぐいぐい引っ張っていく(ときには、ぶち壊す)キャラクターに対し、僕は羨望とやっかみの視線を送っていたのだ。3人組のなかで最初に名前が挙がるのはハチベエだし、表紙でいちばん目立っているのもハチベエだ。ハチベエになれない自分が、歯がゆかった。

 けれど、 「ハチベエじゃなくても大丈夫なんだ」 ということを教えてくれたのもまた、このシリーズだったのだ。

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