050517 「新札」 がなくなるとき [随想]

 5月も半ば。この春から新しい職場、新しい学校、新しいクラスに通い始めた人たちは、いったいいつ、どの瞬間に、新しい環境に 「慣れた」 と思うのでしょうか。気安く話せる友人ができたときでしょうか。ほっと一息つける場所を見つけたときでしょうか。通勤、通学の風景が自分のものになったと思えたときでしょうか。ところで――

 野口英世の1000円札を目にして、あなたはまだ 「新札だ!」 と思うでしょうか。

 「新札」 が発行されて、半年が経ちました。発行直後には、ATMや券売機やレジで受け取るお札が新札だったというだけで少し心が浮き立ったものです。その後、偽札対策等のために新札増刷を急ぐ日本銀行の意向も相まって、 「旧札」 は急速に消えつつあります。 「旧札」 を目にする機会は、日ごとに減ってきています。

 でも、やっぱりまだ、思うのです。野口英世や樋口一葉の顔を見るたびに、あるいはマイナーチェンジにとどまった1万円札のホログラム部分を見るたびに、 「新札だ!」 と。

 「新札だ!」 と思うということは、 「旧札」 のイメージが記憶として強く残っていることの裏返しといえます。そもそも 「新札」 は、 「旧札」 に対しての言葉。 「旧札」 の概念なしに 「新札」 はありえません。夏目漱石の1000円札の残像が、野口英世の1000円札の実体よりも、まだまだ色濃いということでしょう。

 20年さかのぼってみます。僕は、前の前の紙幣、すなわち聖徳太子の1万円札、5000円札、伊藤博文の1000円札を、ギリギリ知っている世代です。お年玉袋のなかに、褐色の伊藤博文に混ざった青色の夏目漱石を数枚発見したとき、もらった金額そのものよりも 「 『新札』 を手に入れた」 ということに無上の喜びを感じたことをおぼえています。20年前、夏目漱石の1000円札は、まぎれもなく 「新札」 でした。

 再び時を戻して――。1年くらい前、夏目漱石の1000円札を 「新札」 として認識していた人は、誰もいなかったはずです。では、 「夏目漱石の1000円札が 『新札』 ではなくなったとき」 は、いったいいつ、どの瞬間だったのでしょうか。それは、 「伊藤博文の1000円札を誰もが思い出さなくなってしまったとき」 であると、回答することはできないでしょうか。この言でいくと――

 誰もが夏目漱石の1000円札を忘れ去ったとき、
 野口英世の1000円札は、 「新札」 ではなくなるわけです。

 人が新しい環境に 「慣れた」 と思うとき、それは前の職場、前の学校、前のクラスを、少しずつ忘れつつある、ということでもあります。忘れたくないと、思う人もいるかもしれません。さみしいけれど、時の流れに人の記憶は勝てません。でも忘れたからって、 「なかったことになる」 わけではない。 「あった」 という厳然たる事実だけを、おぼえておけばよいのでしょう。伊藤博文の1000円札が、たしかに存在したように。

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