070128 自分にしか [随想]

 仕事、あるいは学問で、大小問わず何らかの結果を得たとき、さらにそれが望ましいものであったとき、心にもたらされる感情の昂ぶりは、日々を生き抜く糧となるし、次の課題に向き合う力となる。 「よっしゃ!」 と拳を固め、ささやかな達成感や優越感や万能感に酔う。その一瞬は爽快である。

 自分のことで言えば、原稿を書き上げたときに訪れるのが、その第一波である。ディスプレイ上で読み返し、プリントして読み返し、自分なりに満足のいく原稿が書けたと思えたとき、身体がつかの間こわばって、 「ふーっ」 というため息とともに弛緩する。

 その後、衆人によるチェックを通過して最終稿が上がったとき、校了になったとき、印刷物になったとき、折々に感情の昂ぶりの波は訪れるものの、初稿時の第一波に比べれば断然小さい。大げさで傲岸不遜なようだけれども、 「この原稿はおれにしか書けないぞ」 とまで思う。

 しかし次の瞬間に頭をよぎるのは、 「そうじゃないかもしれない」 という疑念である。同時に 「誰にでも書けるような原稿かもしれない」 と思い直し、さらに直後、 「うん、やっぱり誰にでも書けるような原稿だった」 ということを確認する。このくり返しだ。

 ――もう、あれ以上の仕事は出来ない。
 それで、絶望を感じることはなかった。跳んで伸ばした指の先が、創作者なら誰でも憧れる高みにただ一度でも届いた。そのことを喜ぼうと思った。自分には自分のなし得る――いや、自分にしかなし得ない仕事がある。プロである類は、それに誇りを持っていた。

北村薫 『ひとがた流し』 朝日新聞社 p.124

 創作や表現を生業とする人々、あるいはそうありたいと願う人々にとって、 「自分にしかなし得ない仕事」 を達成することはひとつの目標であろう。義務、とまでは言い過ぎかもしれないが、少なくとも達成をめざし努力する義務はある。

 僕自身の仕事においては、創作や表現は (背景としては要求されるかもしれないが) 前面には出てこない。中途半端な創作・表現はただのスタンドプレーだし、全体の調和や制約を乱すため製作過程で排除される。

 それは承知のうえでの仕事だけれども、 「創作したい」 「表現したい」 という欲目が心の奥底にあることは否定できない。むしろ、この欲目はあっていい。だからこそ、感情の昂ぶりが得られる。かりそめとわかっていながらも、 「この原稿はおれにしか書けないぞ」 という一瞬に酔うことができるから、仕事を続けていられる。

俺はここで水を撒くことしかできない。だが、君には、君にしかできない、君にならできることがあるはずだ。

加持リョウジ 『新世紀エヴァンゲリオン』 第拾九話

 残酷なのは、 「君にしかできない、君にならできること」 なんて、そうそうないということである。 「自分にしかなし得ない仕事」 は、ごく一握りの人々以外にとっては、幻想でしかない。自分が、いま目の前にある事象に対して 「ごく一握りの人々」 であるのか否か、いずれかの時点で線引きしなければならない。その線は、どこにも見えないのに。残酷だ。

 それを了解しながらなおかつ 「自分にしかなし得ない仕事」 の達成をめざすならば、建設的である。自分の仕事に対して 「誰にでもできる仕事だ」 という視点をもつのは勇気が要るかもしれない。だが、そうすることで仕事を客観視できるようになり、自己批判が生まれ、結果仕事の質が上がる可能性がある。後ろ向きなようで前向きな姿勢だと思う。

 過去に僕が書き、掲載された原稿についてみても、初稿時の満足が持続しそのまま送り出したものよりも、鬱々とした気持で書き直しを重ね、おずおずと差し出したもののほうが、いま読み返したときに再読に耐えるものが多い。自信と不安は、仕事の質に必ずしも反映されない。むずかしい。

「 […] 私が患者に対して行った治療の成果のいくつかは時間がたてば自然に起こったことである.あるいは素人にもできることである.また,いくつかは私の経験と努力と鍛錬の賜物であり,他人にはまねができない.さらに,患者の問題のいくつかは,私にも他人にも,またいくら努力したとしても変えられないであろう.そして,これら3つの区別はいまの私にはわからない. (中略) この曖昧さを受け入れる心の落ち着きをもち,そして自分のやり方を実証的な経験に応じて誠実に変えていく勇気をもつこと,この2つができれば私はたいしたものだ」

『医学のあゆみ』 医歯薬出版 Vol.219 No.13 2006.12.30 p.978

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