■ 「15歳の頃」特設スタジオ

ぴろ うめ もろやん くら りか
mama 石井浩郎 沙羅 たらふ Rana

Diary>>>

020921 わたしの15歳―――ぴろ


前半は中学生。

生徒会役員(書記・二期目)、滑り止めの私立高校(女子高)には落ち、滑り止めナシで、始めから志望していた公立高校に一本勝負で合格。かなり担任に心配をかける。視力が本格的に悪くなりメガネ人生の始まり。卒業生代表で答辞を読む。

そんな優等生。

後半は高校生。

念願の進学校で、部活動三昧の日々。マネージャーの仕事は面白い。そして一世一代の(と当時は思っていた)恋をする。勉強するヒマなんかありゃしない。数学教師によく呼び出され居残りさせられる。(後には政治・経済、化学などは危うく単位を落としそうになる)

そんな劣等生。

・・・すべて世は事もなし。

001/001

020921 スタジオ入り。―――うめ


私の15歳の頃のことも。
もろやんさん同様、生徒会に入ってました。
でも、前年度は何もしてなかったくせに急に会長になってみたりして、
変化球っぽい参入でした。
自分の知らないところでいかに多くの人が動いてくれているか、
というのを実感した一年間だったなあ。
あれ以来、ポスター一枚貼ってあるのを見ても、
「このポスターを作ってくれた人、貼ってくれた人…」とか考えて、
貼る人がポスターの束持ったまま一生懸命画鋲とめてる様子まで
思い描いてしまう人間になりました。
何に対しても疑いを挟まず、一番頑張ってた頃かも。
15歳独特の熱、というか。あれは今となってはもう無いなあ。
まあその分、ちょっとした不正やなんかにも過剰反応して激怒して、
社会では生きにくい生き方をしていたとも言えるな。
今は大人になったのか、丸くなったのか、腑抜けになったのか…。
「人生とは何ぞや」なんてこっぱずかしいことを平気で口にしてたのも
あの頃でした。
なんて甘酸っぱい記憶。よく分かんないけど、以上。

001/001

020921 15歳―――もろやん


15歳って中学3年生。
そのころ、僕はスト2にはまって親指から血を流していました。
部活は弱かったのでさっさと敗退し、あとは唯々諾々と勉強してましたね。
あ、そういえばこの前の年は、生徒会の副会長をさせられていたことを思い出しました。
そんで、次の年はオマエ生徒会長だろ、なんてプレッシャーをかけられながらも、期待を見事に裏切り、もう一回副会長をやったりしてました。
ひと思いに生徒会をやめないあたりが弱気です。
でも副会長、仕事がなくて楽だし。

あとこの年のイベントといったら、
らなくんもよく知っているPのやろうが転校してきたことかなあ。
かれこれ10年になるのか。長いのう。

001/001

020920 15歳―――くら


あの頃あまり学校に行っていませんでした。ぶっちゃけ、問題児でした(不良ではなく)。よく中学卒業できたと思います。
本を読み漁り、テレビをみてばっかりいた気がします。
そういえば、映画にはまったのもあの頃だったか。
何かの映画で「10代が美しいなんて言わせない」とかいうセリフがありましたが、まさにそれ。
20才過ぎてからのほうが、人生楽になりました。
これは生長したということなのか。何かを諦めたと言うことなのか。

なんてことをRanaさんの日記を読んで思いました。
村上春樹の新刊が読みたい。

001/001

020920 私も15の頃―――りか


15歳の頃。
今思えば随分無理をしていたのではないかなと思います。私はリーダーよりも、それを補佐するほうに力を発揮するタイプであるのに、当時はいわゆる優等生で学級委員やら何やら上に立つことが多くて己を知らなかったという感じです。高校に入ったら、私も肩の力が抜けて楽しかったけれど、友達関係で悩むことの多かった最後の歳でした。
戻るのなら16歳に。15歳には戻りたくないなぁ。

西武が巨人に4タテで勝利し、私が伊東ラブになったのも15歳の時です。なつかし〜い。

001/001

020919 遠い昔の15歳の頃―――mama


Ranaさんの日記を読んで遙か25年も前の私の15歳を
思い起こす事ができました。(現役40歳・・笑)
宗典さんと同じような時代を生きてきました。
立原道造の詩をこよなく愛し童話作家を夢見る夢子さんでした。
家庭の中は居心地があまり良くなかったけれど、本を読むことだけは自由だったので、Ranaさんのように貰ったお小遣いは
本や漫画に費やしていました。
本を読む・・・そのことが色々な意味で生きる力になり、今の
私があるんだなぁと大袈裟なようですが、そう確信する私です。

思い起こすきっかけをいただいて、小さい頃からの幼なじみに
久しぶりに電話をかけて声を聞くことができました。
ありがとう、Ranaさん。

001/001

020918 ぼくの15歳(激白?)―――石井浩郎


それから10年以上経っているのに、なんで一回も優勝してないの!
Tいがーす!
ああ、一回でいいからTの80勝みたいっす。(羨望)

001/001

020918 現役15歳のひとりごと―――沙羅


いきなりですが私は今、公立中に通う友達と違って、高校受験を控えている身ではありません。しかしやはり普通に高校へは進むわけですから、最近は自分のこれから進んでゆく道などについて漠然とした不安を抱えながら色んな考えを頭に巡らせています。
進む道だけではなくて、「自分はどういう考えを持って生きてゆけばいいのか」とか「15歳ってどういう年齢なのか」などということも帰りの電車の中でぼんやり考えている毎日です。
だから丁度そんな時期にRanaさんの日記を読ませていただいて、実にタイムリーだと思いました。

学園祭に向けて演劇部も忙しく、そして勉強においてもやらなければならないことがたくさんありすぎて少々不健康な日々(今日も貧血で倒れた)。夜明けまで作業していることもたまにある。時々「私はこんなにせかせかと何やってるんだろう」と思うこともありますが、Ranaさんのように10年経ってから今を振り返ったときに15歳の時の日々を充実していたものとして振り返ることができるのなら、今の忙しさも無駄ではないと思いました。

そして最後の「君はこれから世界でいちばんタフな15歳の少年にならなくちゃいけないんだ。なにがあろうとさ。」という一言にこの多忙な日々を生き抜く(オーバー?)チカラをもらってみたり。

では随分個人的な感情を盛り込みすぎてしまいましたが、今回はここらへんで失礼します。長たらしく書いてしまってすいませんでした。

p.s. Ranaさんはお忙しいようなのに、いつもきめ細やかなレスありがとうございます。同じくHP管理人として見習わねばっ。

001/001

020918 ぼくの15歳―――たらふ


 らなさんにならってぼくの15歳を書いてみる。

 12年前、地方都市の公立中学の3年生の僕は、部活動に燃えていた。放課後、水泳部の自由形の選手として、25mプールで毎日3千メートル泳ぐ。部長のぼくはスタートの掛け声をかけるのがなぜか好きだった。そして水の中の世界も。(雨の日にはくちびるを紫色にしながら泳いだ)。

 水泳部の練習が終わると、ひとり髪も乾かぬまま、南校舎の階段を音楽室へ上る。ぼくは合唱部のテノールをかけもちしていた。発声練習、パート練習、全体練習。3階にある音楽室から見えた綺麗な夕焼けはいまも覚えている。中学の夏は3度とも2つの部活の練習に消えたが、かわりに水泳で関東大会出場、合唱で全国大会金賞をとれた。

 本を読む楽しみにのめりこんだのは高校に入ってからだから、中学の頃はたいした読書体験はしていない。でも国語の武部先生は美人でしかも水泳部の副顧問だったから、勉強には熱が入った。たしか国文法の授業で、単語と文節を「お団子と串」という比ゆで説明してもらって感動した記憶がある。教科書に載っていた「あの坂をのぼれば」という小説を朗読する先生の声は、はかなげで胸がうずいた。ぼくは彼女が好きだったが、結婚して転勤されていった。

 そのほか、社会の鈴木先生は若くてオーバーアクション気味だったけど、ぼくは彼の目をじっと見据えて(先生はにらみかえしてくれた)授業を受けるのが好きだったし、美術の関沢先生は「構成」の基本や鑑賞の面白さなんかを伝えてくれた。英語は一番好きだった科目だが、NHKのラジオ番組を聴いたりして、時々来るネイティブの先生とどきどきしながらおしゃべりした。
 
 担任の須藤先生は色黒で少し髪が薄かったが、理科と道徳を淡々と教えてくれた。その頃のぼくはほとんどの科目のテストでトップレベルの成績をとれていたが、須藤先生は「90点で満足するな。100点をとれ。90点はそれだけでしかないが、100点がとれれば120点、150点をとる可能性がある」と厳しかった。それに奮起して、たった一度だが5教科500点満点を成し遂げたことがあったが、このときは先生も喜んでくれたと思う。進路指導の面接で、医者に興味があると漠然とした希望を言ったら、自分の息子も医者である先生はそれはいいと強く勧めてくれた。ぼくが医学の道を考え出したのはそのときからだ。(先生はいまは市内の別の中学の校長をなさっており、お孫さんも生まれたという)。

 このほか生徒会長もやったけど、これはろくな結果を残すことはできなかった。リーダーには向いていなかったのかもしれない。それでも典型的な優等生だったわけだが、それにおさまっていた自分がいま思うと恥ずかしい。

 こんなエピソードがある。ある休み時間、教室で自分の席にいたら、別のクラスで普段は接することもない、いわゆる不良の女子生徒2人組みが入ってきて、タバコを吸いながらキャーキャーふざけはじめた。クラスメイトはそんな彼女らに愛想笑いしたり、遠巻きにみていたりしていたが、そのうち2人は僕の席に向かってやってきた。困ったことになった、どうしようと思ったが、席を立つこともできず、硬直してしまった。生徒会長らしくタバコはやめろ、とか言うべきだったかもしれないが、こわくてできなかった。彼女たちは何かぼくに向かって言ったはずだが覚えていない。きっとからかいの言葉だろう。そのうち調子に乗って彼女たちはタバコの火をぼくの机の上でもみ消しはじめた。

 そのときBという男子生徒が「おい、それくらいにしとけよ」と止めに入ってくれた。彼はおちゃらけが得意で、普段はクラスを笑わせてばかりいる奴だった。正直ぼくはBをすこし軽蔑していた。そのときの彼も、注意するというより笑いながら冗談ぽく、彼女らを止めたのだ。2人はまたふざけながら教室を出て行った。
 ぼくはBに「負けた」と思った。優等生である自分が、本当は情けない奴なんだと思い知らされた。

 恋の話も少しだけしよう。

 部活なんかで派手に活躍していたから、女の子にはそこそこもてた。合唱部のすらりとしたアルトの子や、隣のクラスのぽっちゃりした三つ編みの子から、チョコや手紙をもらったりなんかした。うれしかったけど、つきあったりはしなかった。ぼくが好きだったのは、色白でおとなしく知的な感じのTさんだった。彼女は日本的な美人で、ショートカットの黒髪が素敵だった。でも、どうアプローチしていいかわからなかった。遠くからみつめるしかなかった。

 思い出は次々に流れ出してとまらない。この辺でやめにしよう。他人の過去を面白く読める人がそんなにいるとも思えない。
 
 20代後半のいま、「あの頃は若かった」と振り返るには早すぎるかもしれないが、確かにあったあの日々を、こころのどこかに大切にしまっておきたいと思うのは許されるだろう。

 あのころ、将来は漠然としていたが、べつに不安は感じていなかった。

 いま、「あの頃の将来」が現実としてやってきているのに、いまだ親に養ってもらっている自分の未来は確たるものではない。

 社会人として働く多くの同年代の友人たちに焦燥感を感じながら、また今日も過ぎていく。

001/001

020917 『海辺のカフカ』 村上春樹


 15歳の誕生日がやってきたとき、僕は家を出て遠くの知らない街に行き、小さな図書館の片隅で暮らすようになった。

村上春樹 『海辺のカフカ』

 15歳の頃の話をする。

 15歳。僕は中学3年生で、今より少しばかり子供だった。高校受験を控えてはいたがそれはそんなに切迫した問題でもなく、日々学校に行って家に帰って漫画を読んでゲームをする、穏やかな時が流れていた。友達は多くはなかったけれども自分の交際能力からすれば分をわきまえていたとも言え、時々カラオケやボーリングに行って遊びのための遊びに興じていた。田んぼに囲まれた公立中学校のごくごく一般的な黒髪の中学生はごくごく一般的な遊びに時間を費やし、身に充填されていたであろう活力のようなもの、あるいは蓄積されていたであろう熱のようなものを放出し発散し切れているとはとても言えなかった。それでもそれが僕の15歳であり、そこそこに満足していた。

 当時の僕は村上龍がお気に入りだった。ハルキじゃなくてリュウ。この点で今とは決定的に異なっている。今の僕はリュウが嫌いで、ハルキが好きだ。村上龍『69』で読書感想文を書いただなんて信じられない。そういえば僕は読書感想文という宿題が嫌いではなかった。「嫌いではなかった」なんて微妙な言い方をしているのは、どうやら読書感想文は「嫌いであるべきもの」のようであるからだ。しかしながら僕はそう、「嫌いではなく」、「気に入られるであろう」感想文を書いたり「気に入られないであろう」感想文を書いたりして周りの反応を計っていた。極めてかわいくない所業であるが、それはこのろくでもない宿題を少しでもマシなものにするための手段のひとつだった。

 小遣いの多くはマンガと文庫本の購入に充てられた。マンガを何冊、そして文庫本を何冊買えば小遣いが尽きる、なんてことは毎月の支出の中で身体でわかってくるから、読みたいヤツを吟味して検討してから意を決して一冊の本を買うことになるし、心して一冊の本を読むことになる。だから僕はそんなに「つまらない」と思う本に出会うことなく最も吸収のいい時期を過ごすことができた。これは幸福なことだと思う。逆に趣味が本に偏重していたため僕の周りに音楽はなかったし映画もなかった。これは不幸なことだったし今からすれば後悔だ。しかしテレビは普通に好きで観ていたので、辛うじて本以外の別の吸収口も保持されていたことになる。ダウンタウンが席巻していた当時のテレビ番組を、僕も多分に漏れず深夜に至るまで観ていたのであった。

 中学校の卒業文集、「将来の自分」の欄には、こう書いた。「イラストレイターになってる。」と。イラストを描かなくなった僕は、15歳の僕を裏切ったのだろうか。裏切ったのかもしれない。でもこんなことを書きながらも、「まあ可能性は低いかな」などと達観していた僕がいたことをよく覚えている。好きなことをやって食っていける人間がどれだけ少ないか、ということをよく知っていたし、自分の能力がそこに及ばないものであることも知っていたからだ。そのくらいのことは知っていた。その程度には大人だった。15歳の僕は10年後、今の僕の姿を想像しただろうか。今の僕の姿を見てどう思うだろうか。「ふん、やっぱりね」と鼻白むような気がする。人間そう大きくは変わらないし、期待するほど突拍子もないコトをしでかすはずもない。彼の延長線上に僕はいるし、僕の数メートル後ろに彼はいる。

 15歳の誕生日に僕はスーパーファミコンのソフトを買ってもらい、
 15歳の僕は家出をすることはなかった。
 家出をしなかった15歳の僕だけど、少しの物語はあった。
 25歳の僕は『海辺のカフカ』を読んで15歳の僕を想い、
 25歳の僕は10年の時というものを想った。

 君はこれから世界でいちばんタフな15歳の少年にならなくちゃいけないんだ。なにがあろうとさ。

001/001


2002 : 01-03 04-06 07-09
2001 : 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12
2000 : 01-02 03-04 05-06 07-08 09-10 11 121999