020918 ぼくの15歳―――たらふ
らなさんにならってぼくの15歳を書いてみる。
12年前、地方都市の公立中学の3年生の僕は、部活動に燃えていた。放課後、水泳部の自由形の選手として、25mプールで毎日3千メートル泳ぐ。部長のぼくはスタートの掛け声をかけるのがなぜか好きだった。そして水の中の世界も。(雨の日にはくちびるを紫色にしながら泳いだ)。
水泳部の練習が終わると、ひとり髪も乾かぬまま、南校舎の階段を音楽室へ上る。ぼくは合唱部のテノールをかけもちしていた。発声練習、パート練習、全体練習。3階にある音楽室から見えた綺麗な夕焼けはいまも覚えている。中学の夏は3度とも2つの部活の練習に消えたが、かわりに水泳で関東大会出場、合唱で全国大会金賞をとれた。
本を読む楽しみにのめりこんだのは高校に入ってからだから、中学の頃はたいした読書体験はしていない。でも国語の武部先生は美人でしかも水泳部の副顧問だったから、勉強には熱が入った。たしか国文法の授業で、単語と文節を「お団子と串」という比ゆで説明してもらって感動した記憶がある。教科書に載っていた「あの坂をのぼれば」という小説を朗読する先生の声は、はかなげで胸がうずいた。ぼくは彼女が好きだったが、結婚して転勤されていった。
そのほか、社会の鈴木先生は若くてオーバーアクション気味だったけど、ぼくは彼の目をじっと見据えて(先生はにらみかえしてくれた)授業を受けるのが好きだったし、美術の関沢先生は「構成」の基本や鑑賞の面白さなんかを伝えてくれた。英語は一番好きだった科目だが、NHKのラジオ番組を聴いたりして、時々来るネイティブの先生とどきどきしながらおしゃべりした。
担任の須藤先生は色黒で少し髪が薄かったが、理科と道徳を淡々と教えてくれた。その頃のぼくはほとんどの科目のテストでトップレベルの成績をとれていたが、須藤先生は「90点で満足するな。100点をとれ。90点はそれだけでしかないが、100点がとれれば120点、150点をとる可能性がある」と厳しかった。それに奮起して、たった一度だが5教科500点満点を成し遂げたことがあったが、このときは先生も喜んでくれたと思う。進路指導の面接で、医者に興味があると漠然とした希望を言ったら、自分の息子も医者である先生はそれはいいと強く勧めてくれた。ぼくが医学の道を考え出したのはそのときからだ。(先生はいまは市内の別の中学の校長をなさっており、お孫さんも生まれたという)。
このほか生徒会長もやったけど、これはろくな結果を残すことはできなかった。リーダーには向いていなかったのかもしれない。それでも典型的な優等生だったわけだが、それにおさまっていた自分がいま思うと恥ずかしい。
こんなエピソードがある。ある休み時間、教室で自分の席にいたら、別のクラスで普段は接することもない、いわゆる不良の女子生徒2人組みが入ってきて、タバコを吸いながらキャーキャーふざけはじめた。クラスメイトはそんな彼女らに愛想笑いしたり、遠巻きにみていたりしていたが、そのうち2人は僕の席に向かってやってきた。困ったことになった、どうしようと思ったが、席を立つこともできず、硬直してしまった。生徒会長らしくタバコはやめろ、とか言うべきだったかもしれないが、こわくてできなかった。彼女たちは何かぼくに向かって言ったはずだが覚えていない。きっとからかいの言葉だろう。そのうち調子に乗って彼女たちはタバコの火をぼくの机の上でもみ消しはじめた。
そのときBという男子生徒が「おい、それくらいにしとけよ」と止めに入ってくれた。彼はおちゃらけが得意で、普段はクラスを笑わせてばかりいる奴だった。正直ぼくはBをすこし軽蔑していた。そのときの彼も、注意するというより笑いながら冗談ぽく、彼女らを止めたのだ。2人はまたふざけながら教室を出て行った。
ぼくはBに「負けた」と思った。優等生である自分が、本当は情けない奴なんだと思い知らされた。
恋の話も少しだけしよう。
部活なんかで派手に活躍していたから、女の子にはそこそこもてた。合唱部のすらりとしたアルトの子や、隣のクラスのぽっちゃりした三つ編みの子から、チョコや手紙をもらったりなんかした。うれしかったけど、つきあったりはしなかった。ぼくが好きだったのは、色白でおとなしく知的な感じのTさんだった。彼女は日本的な美人で、ショートカットの黒髪が素敵だった。でも、どうアプローチしていいかわからなかった。遠くからみつめるしかなかった。
思い出は次々に流れ出してとまらない。この辺でやめにしよう。他人の過去を面白く読める人がそんなにいるとも思えない。
20代後半のいま、「あの頃は若かった」と振り返るには早すぎるかもしれないが、確かにあったあの日々を、こころのどこかに大切にしまっておきたいと思うのは許されるだろう。
あのころ、将来は漠然としていたが、べつに不安は感じていなかった。
いま、「あの頃の将来」が現実としてやってきているのに、いまだ親に養ってもらっている自分の未来は確たるものではない。
社会人として働く多くの同年代の友人たちに焦燥感を感じながら、また今日も過ぎていく。
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