■ 2002年10月,11月,12月

021224 『劇場の神様』 原田宗典


 原田宗典の新作のレビューを書く日を待っていた。

 僕は短篇小説が好きで、同じ作家の小説でも、選んで短篇集を手に取っていた。それは僕が元来読書というものが苦手で、集中が持続しないし記憶力が弱い(010420)からである。10ページくらい読んだら眠くなり、読んでるハジからストーリーや登場人物を忘れてしまう困ったヤツである。だから、ほんの数十分から一時間程度で完結したひとつの物語を見せてくれる短篇小説は、こんな僕に適合している。逆に長篇小説には腰が引け、願わくば御免こうむりたいところである(その割に京極夏彦が好きなのは何故)

 ネガティブな理由のみからではない。短篇小説は、ただ単純に、面白い。それも出来のいいものとなると、読み終わったときの感動は途方もなく鋭く深い。短いからこその驚嘆や衝撃がある。短篇と長篇とは、同じ小説の二形態であるのだが、まったく別物のようにも思える。村上春樹も言っていた。「作法が違うし、心構えも違う」と。両方を“書ける”作家は少ない。“書ける”作家の一人である宮部みゆきにしても、僕は短篇集、連作短篇集のほうが好きだ。長いぞ、『模倣犯』(挑戦中)

 そこで原田宗典である。高校時分に氏の短篇に出会って、「すげえ」と思った。一心不乱に読んだ。短い文量で、少ない言葉で、これだけの世界を語り、閉じることができるのだな、と思った。すっと物語に導かれ、のめり込み、驚いて、ぽんっと突き放される。そんな短篇小説の醍醐味を味わうことができた。加えて小説としての一篇一篇の味もあり、短篇“集”として集まったときに作品全体に漂う空気も好きだった。『0をつなぐ』の張り詰めた緊張の中の冷たい空気とか、『人の短篇集』の幾度もの嘆息がもたらす温かな空気とか。

 だがしばしの間、短篇小説の刊行は途絶えた。種々の事情によるものだったが、僕は待っていた。いつの日か新刊が出るのを待っていた。この一年あまりは傍にいて、その創作活動を目の当たりにしていたし文芸誌他各媒体に作品が発表されていたから、待ちくたびれることはなかった。もうすぐだ、と思っていた。

 そして実に六年ぶりの新作短篇集、『劇場の神様』が刊行された。公式な発売日に先んじて書店に並ぶその日、会社の昼休みをフルに使って新宿の紀伊國屋まで往復し、購入した。ザラリとした触感の紙質に、原研哉の手によるすっきりとした装幀。大切に、持ち帰った。仕事の合間に盗み読みしたい衝動と戦いつつ、家に着くまで待つことにした。六年間待ったのだから、短いものだった。

 家に着いて、本を開く。そこには今までの原田宗典“らしからぬ”筆の運びと、原田宗典“らしからぬ”世界があった。六年という歳月がもたらした作家としての変化があった。だがそれはやはり紛れもなく原田宗典の短篇で、久しぶりに目にする短篇“らしい”短篇だった。一篇を読み終えるごとに一旦本を閉じ、また態勢を整え直してから次の一篇に臨んだ。深く、身体に染み込ませようと、ゆっくりと文字を拾った。一息一息、深呼吸をするように。

 サイトをやっていて、本のレビューを公開している僕は、過去の原田作品のレビューもいくつか書いてきた。しかし作家は、生きている限りは現在進行形で語られなければならないものだ。こういう作品を“書いた”原田宗典、ではなく、こういう作品を“書いている”原田宗典、と紹介したかった。その願望がようやく、かなえられることとなる。中身にちっとも触れていないこんな文章は、レビューとは言えないのかも知れない。だけどそれでもかまわない。これがまさしく僕の『劇場の神様』レビューであった。それは六年間の、レビューであった。

 『劇場の神様』は、今日、発売です。

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021211 人の本棚を見るのは楽しい。


 takkaさんが「Photo日記」を始めたのを見て、うらやましくなったので、僕もマネしてみます。パクリは僕の十八番です(自慢するな)

 そのtakkaさんも言ってますが、「写真が語ってくれる」というのはまさしくその通りで、一枚の写真が千の言葉を凌駕することは往々にしてあります。光り輝く存在感のある一枚の写真の前では、言葉は影に回ることとなります。

 一方、よく聞く表現として「本棚がその人を語る」というのがあります。本棚を見ることでその所有者の趣味や思想がわかっちまう、というもので、よくよく考えてみたらなかなかコワイことではあります。だからこそ、人の本棚を覗き見する、というのは大いに興味をそそる行為となるわけですが。

 というわけで今日は、「写真」と「本棚」と、二重に語らせてみようと思います。Rana版「Photo日記」です。これで一回更新を稼ごうだとかいうヨコシマな考えからではございませんので邪推せぬよう。それでは、どうぞ。

今日TVドラマが最終回を迎えた、
山下和美『天才柳沢教授の生活』。
隣に舞城王太郎があるあたり、
ミスマッチ。さりげなく麻耶も。
ノベルス棚です。
京極夏彦がむやみと
幅を利かせています。
奥には森博嗣のVシリーズや、
殊能将之が。
北村薫のハードカバーがずらずらと。
奥には『海辺のカフカ』、
さらに奥には『どすこい(仮)』が
結びの一番を。
村上春樹の文庫本は、
講談社のノベルティグッズ
「庫之介」に納まっています。
そして原田宗典。
初期小説と最近のエッセイ集が
並んでいます。
なぜかその上に舞城『熊の場所』。
ラブリーベア。

 ……と、こんな感じです。いかがでしょうか? え? どうしてズームばっかりで、引きのショットがないのかって? そりゃあーた、カメラを引いちゃったら、とてもじゃないけど掲載に耐える写真にならないからに決まってるじゃないっすか! 生活感溢れ過ぎてて赤裸々にも程がある状態になっちまうじゃないっすか! そんな恥ずかしいことできるわけないぢゃないっすか! え? つべこべ言わずに掲載しろ? それは不可! 却下! 見せるもんか! 文句あるヤツぁウチに来やがれ!(おっ、微妙にずれたまとめ [(c) もろやん] になったぞ)

 写真の加工だとかHTMLの編集だとかで、結局いつもと同じくらいの時間がかかったような気がします。

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021208 彼。


彼が描いた世界を

僕らはまだ 手にしていない

彼が願った世界を

僕らも願っているはずなのに



彼が描いた世界は

すごく単純な世界

彼が願った行為は

すごく単純な行為



彼が描いた世界は

たったひとつの世界

彼が願った行為は

ただ 考えること



僕はただ 考える

願う

彼が歌う世界を

願う



僕もまた 願う

彼が描いた世界を

君もまた 願い

彼が願った世界に

君とともにあることを

君とともにいることを



ジョン・レノンが

去って

二十二年が

経った

This lyrics is inspired by Munenori Harada.


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021206 電飾祭り。


電飾が花盛りである。

日が傾き、空が紫に色を変える頃、

豆電球がポツリポツリと灯り始め、

赤、青、緑、黄のドットが、

集合して形を成す。

それはサンタさん。

それは赤鼻のトナカイ。

それは巨大なクリスマスツリー。

わかってない。

まったくもって、わかってない。

帰宅時に、
 電飾まっさかりな新宿の街を通らざるをえないサラリーマンの気持を。

紀伊國屋に行くために、
 ひとり電飾アーチをくぐらねばならない野郎の気持を。

東急ハンズに行くために、
 えらくムーディーな橋を渡らなければならない男の気持を。

わかっていない。

間違っても「イルミネーション」だなんて言うもんか!(言ってる)

「新宿サザンライツ」は「新宿駅南口電飾」で結構!

「ミレナリオ」は「ルミナリエの二番煎じ」で結構!

「エレクトリカルパレード」は「電飾大行進」で結構!

日本の心は線香!

日本の心は蝋燭!

日本の心は提灯!

日本の心は精霊流し!

日本の心は大文字の送り火!

それでいいじゃないか!(なんでこんなに壊れてるんだ、キミ)

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021202 テープを、起こそう。


 この一ヶ月ばかり多く回ってきた仕事に、「テープ起こし」がありました。インタビューなり、対談なり、座談会なりで収録したテープをテキスト化するのです。テープを繰り返し聞いて発言を拾い、文字にしていきます。こう書くと機械的な作業のように聞こえ、面白味のない仕事だと思われるかもしれません。しかしどっこいこれが結構取り組み甲斐のある仕事なのです。ちょいと説明します。

 まず、テープを「素起こし」します。素起こしとは、あくまで発言に忠実に、過不足なく文字にしていく作業です。これはたしかに、機械的にならざるを得ません。

 続いて、素起こしした原稿を、「文章化」していきます。話し言葉ですから内容の重複や省略があるのは当たり前で、接続詞その他を補うことによって、読んで意味の通る文章に加工してゆくのです。この加工の際に内容の飛躍があってはならず、あくまでも発言者の意図を汲み、それに沿った言葉を選んでいかなければならないという点で、機械的な部分は残ります。

 そして、「構成」に入ります。記事を発表する媒体、読者、文字量を考慮して、文章を整形してゆく作業です。時間軸の入れ替えや思い切った割愛がなされることもあります。この段階になると、書き手、すなわち編集者の意向であるとか、ある意味においての好みを反映させることができます。こうしてできた原稿を発言者へと戻し、加筆・修正を入れてもらったのちに一本の「完成原稿」とします。

 以上が大まかな三つの過程です。慣れた人ならばこれら「素起こし」「文章化」「構成」をいっぺんにこなし、最初に上がった原稿である程度形にしてしまえるのですが、当然慣れてなぞいるはずがない僕ですから、ひとつひとつステップを踏んでいかなくては不安です。丸一日、あるいは二日三日かけて一本の原稿を書き上げることになります。

 と、なかなかホネな仕事ですが、僕が先ほど「取り組み甲斐のある」と言ったのは「文章化」の部分です(もちろん「構成」の部分もそうなのですが)。「機械的な部分は残る」作業ですが、この機械的なところが逆に、魅力(と同時に難しさ)を帯びます。

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 ここでの「文章化」とは、「話し言葉」と「文章」との間の橋渡しです。話し言葉を文章化したときに生じる、文章としての苦しさや違和感を削ぎ落としていく作業、と言い換えることもできます。念頭に置かなければならないのは、「文章は活字によってのみ構成される」ということで、他に頼れるものがない、ということです。

 どういうことでしょうか。話し言葉の場合を考えてみます。収録の現場には、当然のことながら発言者がいます。発言者の顔があり、身体があり、表情があり、身ぶり手ぶりがあります。加えて発言者が男であるか女であるか、あるいは何歳であるか、といった情報を視覚的にとらえながら、話し言葉が「耳から」入ってくるという状況です。このとき発せられた話し言葉は、極端に言えばこの状況の中でのみしか意味をなしません。

 逆に文章の場合はどうでしょうか。文章には顔も身体も表情も身ぶり手ぶりもありません。文章とともに数点の写真が掲載されることはありますが、それ以外に発言者の素性を伝える要素はありません。そんな自分自身以外に頼れるものがない文章は、自分自身のみによって発言者の意図を読み手に伝えなければなりません。そしてその文章を生むのは、他でもない書き手です。

 書き手の立場となった僕は、苦心惨憺しながら「文章化」することとなります。できる限り発言者の意図を伝えたい、ニュアンスを伝えたい、表情を伝えたい。この目的に沿いつつ文章としての体を整えるために、話し言葉を少しずつ加工していかなければなりません。だけど(ここが微妙なのですが)、話し言葉としての雰囲気も残したいのです(だからこそのインタビューや対談や座談会の記事なのですから)。これはせめぎ合いです。

 このせめぎ合いが、好きなのです。数分かけて、ひとつの単語を選択する。その単語を、推敲ののちにバッサリとカットする。原稿を上げるのが遅い遅いとせっつかれる。そうしてできた原稿に、たっぷりの赤字が入れられて返ってくる。格闘です。けど入社以来半年経って、赤字が少しずつ減ってきた感覚があって、これもまた推進力となって、まあ日々やってるわけです(やっぱりマゾなのか)

――手元にある雑誌や書籍の、インタビュー記事をちょっとだけ読み返してみてください。そこにはおそらく、書き手の技だったり苦心だったりが、見え隠れしているはずです。

 僕が「文章化」の際に使ったツールとして、語尾にくっつける「〜ね」「わけです」「ですよね」「?」「!」「……」があります。これらをくっつけるだけで文章がやわらかくなり、かつ話し言葉的ニュアンスが出てきます。自分の文章ではあんまり使わない「(笑)」も、使ってみたりしました。けど安易に頼りすぎるとワン・パターンで全体が同じトーンになってしまう。難しいものです。

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021116 そろそろもろやんを出演させるのに飽きてきました。


 この日記は、同日のもろやんの日記も合わせ読むと、より一層お楽しみいただけます。「りりばーす」については、もろやんの日記、および昨年の僕の日記(011104)を参照。

 「りりばーす2」が、できたそうです。

 「そうです」と伝聞形なのは、この日記を書いている11月16日現在、僕はまだ現物を手にしていないからです。そりゃそうです、「りりばーす2」ができたのはまさしく昨日、15日のこと。北海道で生まれたこの雑誌が、東京にいる僕の手元にあるわけがありません。時差があります。

 僕はこの雑誌に、装幀という立場で関わっています。前回は勝手がわからず随分と試行錯誤しましたが、今回の進行はスムースでした。デザインの検討でもろやんと交わしたメールの数は20通以上になりました。そのメールタイトルですが、最初は「りりばーす02」と普通だったのが、いつの間にか「りり表紙」「Re: りり表紙」「りり表紙改」「Re: りり表紙改」と、省略甚だしくなりました。「りりばーす」を「りり」に省略とは、省略形の究極です。「あやや」とかいって一字増えている松浦亜弥にも見習って欲しいものです。

 今回苦労したのは、ただタイトルをドーンと売り込めばよかった第1号とは違い、その第1号を踏まえた上でのプラスアルファ的要素を盛り込まねばならなかったことでしょうか。具体的には、第1号で用いたタイトルロゴを活かしつつも、特集のテーマであるところの「ミステリー」とどう結びつけるか、加えて、どうコンテンツを散りばめるか、です。

 また、「2」と名がつくものを制作する時には誰しもがぶつかる問題なのかもしれませんが、「『1』を越えてやろう」という意識をいい方向に転がさないと失敗します。それは映画でもしかりで、例えば『ダイ・ハード2』はいい具合にスケールアップしましたが、『スピード2』は見事にコケました。『スターウォーズ』シリーズや『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズなどのように、はじめから三部作、あるいはそれ以上を想定しておいて、「シリーズの中の一作としての『2』」として制作するならば話は別なのですが、そんな壮大な青写真を描いてから制作に着手できることは稀です。むしろ世の中には『スピード』タイプが溢れ返っています。

 僕の場合、「りりばーす2」に臨むときの心境というのは明らかに『スピード』タイプでした。「1」の勢いや若さに気圧されて、なかなか方向性が定まりません。加えてプロのブックデザイナさんとのお付き合いもするようになってきた昨今です。いざ自分がやろうとすると変に肩に力が入ってしまいます。できる限り意識をゼロに巻き戻し、サラな気持で制作に臨もうとしました。今回はそんな自分との闘いだった、と言っても過言ではないでしょう(過言です)。言うなれば『LOVEマシーン』を世に出す前のつんくの姿勢に戻ろうよキャンペーンでしょうか(わかるようなわからないような)

 そんな制作初期のウラ話も吐露しつつ。昨日、もろやんからの電話で「『りりばーす2』できたぜ」という一報を得たときは、思わず「わーい」と口にしてしまったのでした(かわいさアピール)。僕の手元に届くのは来週になります(時差があるからね)。楽しみにしています。


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 それにしてもこの雑誌、

 編集:もろやん 装幀:らなたん 雑誌名:りりばーす2

 とあらためて並べてみると、やたらかわいいのですが。当人たち、および雑誌そのものの中身の濃ゆさを考えると、そのギャップはもはや詐欺です。

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021105 日本シリーズ。


 スコット・マクレーンのバットが空を切った。ライオンズ監督伊原春樹は、三塁コーチャーズボックスから小走りで引き上げた。三塁ベンチから飛び出てくるジャイアンツナインの、歓喜のダッシュに呑み込まれてしまう前にその場を辞すこと、それだけを考え、そそくさと逃げるように。その姿に、ペナントレースをぶっち切りで制覇し、名将と謳われた面影はなかった。敗軍の将は、「惨め」と評されても言い返しようのない戦いの後で、ただただ背を向けて走るのみだった。



 マウンドに駆け寄るジャイアンツナインの中に、清原和博がいた。試合が決した瞬間、いの一番にスタートを切ったけれども、限界を超えていた太腿は言うことを聞かず、他の選手に次々と追い越された。そもそもトレーナーに「走るな」と警告されていたが、我慢できようはずもなく、満面の笑みでよちよちと走り、歓喜の輪に加わった。一塁ベース上でこの瞬間を迎えられなかったことは彼にとっては無念だったろうが、もうかまわなかった。

 清原和博は思っていた。

「野球の神様はおるな」

 と。

 たしかに彼にとっては、神はいたのかもしれない。引退も覚悟して臨んだシリーズで放った3本の安打は、いずれも試合の流れを決する重要なものであった。12年前、彼が4番に座っていたライオンズはシリーズ4連勝してジャイアンツを下し、当時ジャイアンツのセカンドを守っていた岡崎郁に「野球観が変わった」という言葉を吐かせた。ジャイアンツに移籍し岡崎の背番号5を受け継ぎ、今度はライオンズの野球観を粉々にしたわけである。松坂大輔から放った150M超のホームランによって。

 神が微笑まなかったのは、その松坂大輔であった。いや元来神は微笑まないものであり、慈悲に溢れてもいないし公平でもない。むしろ残酷でエコ贔屓である。努力にも苦節にも祈りにも誘われない。今年の松坂を、神が救うことはなかった。シリーズ開幕前に、「球速にこだわりたい」と宣言した松坂は、神に敬遠された。ジャイアンツのエース上原浩治が「勝敗にこだわる」と言っていたのと対照的で、決定的な違いだった。

 松坂だけではない。ライオンズの選手の多くは、シリーズ前に「楽しみたい」という言葉を吐いていた。今年、ジャイアンツの選手が声を揃えて「とにかく4つ勝つ」と吼えていたのと、これもまた対照的だった。楽しむことを目標とするチームが、勝負に勝てるわけはない。楽しむことは目標ではない。結果に対する感想に過ぎない。心構えの点で、既に勝負は決していた。12年前のジャイアンツが負けたのは、ライオンズが強かったからだった。至極当然の論理。しかし今年ライオンズが負けたのは、相手が強かったからではない、自分たちが弱かったからだった。出し尽くすべきところの力すらも見えなかった、惨敗。



 いい意味でも悪い意味でも耳目を集め、怪物と呼ばれた2人の選手がいた。一方のチームは怪物の幻影に惑い心中し、一方のチームは怪物に引っ張られ頂点に立った。「勝てばすべてを得て、敗れればすべてを失う」と日本シリーズは形容される。その通り、勝者は銀座を40万人のファンに囲まれ凱旋し、敗者は粛清人事の真っ只中だ。マクレーンの姿も来年は見られない。語るところの少ないシリーズだったが、ささやかなストーリーが、そこにあった。来年は、もっと多くのストーリーを。もっと饒舌なシーンを。それらを提供してくれなかったら、野球ではない。

 これをアップした数日後に、予想に反してマクレーンの残留が決定し、格好のつかないことになってしまいましたが、このママにしておきます(うーむ)。

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021101 年賀状の逆襲。



 企画立ち上げ経緯は昨年の日記参照 >>>

 年賀状、販売開始です。

 昨年、同じくこの年賀状企画をぶち上げ、思いのほかの反響を得て人生史上最高の年賀状交換数を記録した(おおげさ)のに気をよくした僕は、今年も募集することを決意しました。

 Ranaさんの年賀状をもらってください。

 どうですこの文句。路傍のダンボール箱に書かれた「ひろってください」とかいう文句と同じくらいに哀愁が漂っています。ただしダンボール箱の中に入ってるのは4匹のかわいい子猫たちではなく、20も半ばの野郎です。ニャーニャーニャーニャー。

 昨年とちょっと違うのは、基本的には「もらってくださる方募集」という点です。ですから、忙しかったり諸般の事情で出せないけど「かわいそうだからもらっちゃる」というスタンスでもオッケーです。もちろん「交換までしてくれる」という奇特な方は、いただければそりゃもう大喜びです。

 ちなみに昨年この企画に乗ってくださった(=子猫をひろってくれた)みなさんには、「お主、かかりおったな。もう逃れられんわ。ふわははは」という勢いで今年もお送りさせていただきます。「もういらんわ」あるいは「住所変わったよ」な方々は、お手数ですがご連絡ください。また、「今年も参加するよっ」てなメールをいただけたらわりと喜びます。

 以上、郵便局バイト経験者の販促キャンペーンでした(企画要項下記)


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企画要項。


□手順

1.Ranaさんに「年賀状送りやがれこのやろうメール」を送る。
>>> rana_catesbeiana@hotmail.com(企画終了しました)

2.Ranaさんから「ご参加ありがとうございますメール」が届く。(交換してくださる場合)このメールにRanaさんの住所氏名を添付します。

3.Ranaさんにあなたの住所氏名をお知らせする。

4.(交換してくださる場合)年賀状を買いましょう。

5.(交換してくださる場合)年賀状を書きましょう。

6.(交換してくださる場合)年賀状を投函しましょう。

7.元旦にご家庭に年賀状が届きます。郵便事故がない限りは。

8.Ranaさん幸せ。

9.Ranaさんから届いた年賀状は、1月15日のお年玉くじ抽選結果発表までは保存しておいてください。あとは煮るなり焼くなり。

10.めでたしめでたし。

□補記

1.最初のメールにて住所氏名をお知らせしていただくのも手ですが、段取りとしては上記のものがまっとうかと思われます。

2.古き風習が廃れつつあるのを憂いているわけではないみたいです。

3.本企画を通じて知り得た個人情報は本企画の遂行(つまり年賀状送付)以外の目的には使用しません。漏洩しません。

4.この企画のために新規購入したばかりのプリンタ(hp deskjet 3420)を駆使したいという目論見がある、なんてことはないです(実話)

5.反響がなかったらこの企画自体こっそりとなかったことにして、Ranaさんは旅に出ます。

以上。


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021024 日記を、書きます。


 今日は、取材でした。相手がわりと大物なので(わりと?)、社長もいっしょです。社長と2人きり。ルンルンです(針のむしろです)

 ラブラブ2人旅、1時間ほど電車に揺られて目的地に着きます。ちょうどお昼どき、取材前に腹ごしらえをしなければなりません。腹が減っては(以下略)

 駅前のチャイニーズ・ファミリーレストランに入ります。効率を優先した故か普通のファミレスとは違って食券制です。入り口で食券を購入します。

 社長の背後からコソコソと券売機を覗き込みます。何を食いましょうか。若鶏の唐揚げ甘酢あんかけ定食が最有力候補ですが、麻婆茄子定食も魅惑です。焼きビーフンカレー風味をランチセットでいただくのも捨てがたい。と、悩んでいたその時、社長が言いました。

 社長:メシ代、オレが出すからな。

 社長、愛してる。

 さっすが社長、さっすが代表取締役、太っ腹です(内心期待してました)。自らの財布を緩める必要がないならば、食欲も増すってもんです。餃子セットにしようかな、でもそこまで頼むのは図々しいかな、と僕が葛藤しているその前で、社長が食券を購入しました。

 ラーメン。

 ↑360円(最安値)

 ……。

 しゃちょお。

 しゃちょおにラーメン食われたら、オレ定食食えません。

 そんな僕の思いを斟酌することなく、社長は「ホラ、何にすんだ、おめえ。早く決めな(江戸っ子)」ってな目で僕を見ます。僕は言いました。

 R:あ、オレ、中華丼(380円)お願いします。

 さようなら若鶏の唐揚げ甘酢あんかけ定食。

 ほどなく運ばれてきた中華丼(380円)は、微妙な味わいでした。ウズラの卵は最後まで残しとく派です。





 ……そしてしゃちょお。

 この日記、会社で書いてます、ごめんなさい。

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021023 お金の問題。


「損するのが分かっていても、出さなきゃいけない本て多いでしょう。本屋って、たまたま損するわけじゃあないのよ。本屋が稼ぐっていうのは、売れない本のため。ね、社員のためじゃないの。一億入ったら、《ああ、これだけ損が出来る》と思うのが、本屋さんなの」

北村薫 「走り来るもの」(『朝霧』収蔵)

 先日、取材からの帰り道、次のような質問をされました。

「あの、本って、高いじゃないですか。ハードカバーだと2000円近くもする。あの値段って、不思議だなあ、って思うんですよ。本の値段って、一体どうやって決まるんですか?」

 不意をつかれた僕は、ちょっと考えて、「僕も入ったばかりで、ちゃんとわかってるわけじゃないですが……」と前置きしてから、答えました。そのときの答えは、次のようなものでした。

 たしかに本は、モノそのものを見たら、ただの紙の束です。それに印刷されているインクの量なんて、一冊あたりにしてみたらたいした量ではありません。紙とインク、ただそれだけのモノとして見た時に、その値段はいいとこ数十円でしょう。そんな紙の束に定価2000円は、随分と高い。ですが、本は製造物です。「本の原価」を考える時には、「製造原価」を算出せねばなりません。

 ではその製造費にはどのようなものがあるかというと、それはもう多岐に渡ります。刷りや製本のような実際的な製造工程にかかる費用もあれば、版下代、組版代、製版代、印税原稿料、編集料、デザイン料等、人の仕事に対して発生する費用もあります。そうして本が作られていくことを考えると、一冊2000円、あるいはそれ以下、というのはとても安い話だ、と思います。もっとも、これは実際に本作りに携わるようになってからの思いではありますが。

 ……このような僕の返答に、質問を投げた人は狐につままれたような顔をしていました。無理もありません。僕だって実のところはよくわかっちゃいないのですから(えっ?)。おそらくはこのような原価に加えて、出版社が利益を上げるために何らかの規定に沿って、特別な計算法で定価が算出されているだろうとは思うのですが、そこんところはトップシークレットのようです。僕は知る由もありません。

 では、少し本を離れてみましょう。食べ物の場合ではどうでしょうか。例えば、北海丼。ご飯の上には、カニが、イクラが、ホタテが。もしこれが寿司屋だったら、その三つを延々とローテーションさせてもよいとさえ思える組み合わせですもろやん・談/10月20日の日記より)。これを2000円で供する店があったとしたら。たしかに魅惑の食べ物ではありますが、一食、丼一杯に2000円とは、ちょっと高いように思われます。吉牛だったら、7.14杯食えます。

 この問題に絶妙な回答を与えてくれた人物がいます。上岡龍太郎です。「パペポTV」で笑福亭鶴瓶が、僕と同様の(メシの値段ってなんであんなに高いの? という)疑問を呈した時、こう返しました。

 上岡:じゃあキミ、2000円やるからコレ作れ、言われて、作れるか?

 そうなのです。

 北海丼が2000円で作れるわけがないのです。北海道に行ってカニを獲り、サケを釣り、ホタテを拾わなければなりません。サビが必要な人ならば、静岡でわさびを育てなければ。そして忘れちゃいけないのが、米。やっぱり新潟産コシヒカリでしょう。苗を植え、収穫し、脱穀し、精米しなければなりません。大仕事です。そんな苦労を考えたら、2000円なんて安いものです。

 (さあ、どんどん煙に巻いてきました)本も同じことです。作る工程を考えたら、作っている人々の思いを考えたら、高い安いを云々言うのは趣味が悪いことのように思われます。そして、日本全国どこへ行っても同じ価格で本が売られ、(新刊本については)値引きすることが禁じられている今のシステムは、出版社・本屋を守るのみならず、ひいては文化を守ることにもなっているんだ、と好意的に解釈します。おお、なんか大きくまとまりました。

 しかし、「金返せ!」と叫びたくなる本があるのもまた、事実です(あっ)。

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011022 シャッター・チャンス



シャッター・チャンスは

一瞬

8分の1秒かもしれないし

500分の1秒かもしれない

例えば夕日が

最高の輝きをし

絶好の高さに落ち

究極の鮮やかさに空を染めるとき

その瞬間を切り取るために

カメラマンは

1時間でも2時間でも

待つ

汗流れ蚊に刺されても

待つ

その瞬間を逃したら

その日の夕日はもう撮れないから



チャンスも

一瞬

言うべき言葉

とるべき行動

例えば貴方が貴女に

望む言葉を

欲しい行動を

求めたられたとき

その瞬間に少しの躊躇があったならば

その瞬間を逃したならば

貴女は

それまでの関係性を疑うだろう

貴方は

それまでの関係性を失うだろう

疑われ失われた関係性は

1時間待っても2時間待っても

戻らない

言葉費やし行動重ねても

戻らない

その瞬間を逃したら

二人の時はもう返らないから

チャンスは二度ないから


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021021 小説・物語 その3。――阿刀田高『朱い旅』


 その1はこちら、その2はこちら

 ギリシャ神話に、アンフィトリオン伝説というものがあります。大神ジュピテル(=ゼウス)がテーベの武将アンフィトリオンの妻、アルクメーヌを見初めて通じ、英雄ヘラクレスが誕生するストーリーです。この伝説を基にして、古来、いくつもの戯曲や叙事詩が作られています。

 紀元前には、
  プラウトゥスが「アムピトゥオ」として神への畏敬を表わす戯曲を。
 17世紀には、
  モリエールが「アンフィトリオン」としてルイ王朝を揶揄する戯曲を。
 19世紀には、
  ジロドゥが「アンフィトリオン38」として人間賛歌と実存を謳う戯曲を。

 前回、「物語は太古の昔からあって浮遊していて、それを掴み取って掬い取って言葉を与えて小説に加工するのが作家というものだ」と書きましたが、このギリシャ神話こそ、「太古の昔からある物語」の一つであると言えます。そしてそうした物語の構造は、分解してみると至極簡潔になります。

 アンフィトリオン伝説ではどうなるでしょう。――Aという男と、Bという女がいます。AとBは、夫婦です。Cという男がBに横恋慕し、Aが不在の隙にBに求愛し、そして手に入れてしまう――こんな、ごくごく単純な構造です。単純だからこそ、いろんな作家が取り組み、モチーフを付加させ、時代に寄り添わせ、一つの作品として完成させることができるのです。

 阿刀田高は講演で、次のように言いました。

 数多あるストーリーの類型から、どれを選び、どれを盗み、どういう視点で踏み込み、どういうモチーフを付加させ、そして自分の中にあるどのストーリーと結合させるかが、作家の仕事です。

 と。

 その阿刀田高もまた、アンフィトリオン伝説を素材とし、運命の根源を問い、人間の知性に迫る小説、『朱い旅』を書きました。現代の日本を舞台に、一人のサラリーマンを主人公として語られるこの小説は、モリエールの戯曲「アンフィトリオン」を呑み込み、ギリシャの海の色を想起させるスケールの大きなものとなりました。が、そのスケールに比して小説自体はそれほど長くはありません。ショート・ストーリーの名手、阿刀田高でないと書けなかった小説でしょう。

 僕はこう思います。確かに作家・阿刀田高はアンフィトリオン伝説を「選んだ」かもしれない。けど、「選ばれた」のは実は阿刀田高の方で、プラウトゥスやモリエールやジロドゥと同じく、アンフィトリオン伝説に見初められ、この物語を今の世に出すために手を動かすよう仕向けられたのではないか、と。北村薫が表現したところの“必然”が、ここでもまた阿刀田高に働きかけたのではないか、と(その2参照)。

 物語の背後には“見えざる手”があり、自らを紡ぐ才ある書き手を、誘っているのではないか、と。



書き手が物語を選ぶのではないのだ。物語が書き手を選ぶのだ。

作家こそが、物語の道具なのだと。作家を通じて、物語は真実を伝えるのだと。そう、真実を語るのは、作家ではなく、あくまでも物語なのだ。

舞城王太郎 『The Childish Darkness 暗闇の中で子供』

 次回は、作家を飛び越えた物語、のお話です(まだ終わらないのか)。

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021020 楽屋がバレる。


 お付き合いのあるブックデザイナさんから聞いた話です。

 楽屋がバレる、という言葉があります。

 そもそもは漫才の世界の用語のようです。類義語として「ネタがワレる」というのがあります。こちらは少しわかりやすいですね。漫才で、オトシどころが事前にバレてしまったり、ネタが読めてしまったりしたら、興趣は半減してしまいます。そうしたことを指して、「楽屋がバレる」と表現します。

 「楽屋がバレ」てしまっては興ざめですから、芸人はいかに「楽屋を隠す」かに執心します。予測もつかないところにオトシて笑いを得られるように、前フリを練って話術を磨いて、自らの計算や意図であるところは必死に隠します。観衆は表層の軽妙な掛け合いに引き込まれて、いつか不意に飛んでくるオトシにハマって、思わず笑ってしまうのです。芸人の勝利です。

 同じ用語が、デザインの世界でも用いられています。デザインで「楽屋がバレる」とは一体どういうことか。こちらもやはり、「デザイナの計算や意図が簡単にわかってしまう」ことを意味します。デザインで用いた、ある一本の線。ある一つの図形。あるいは、色。これらの意味が、鑑賞者に一発で読めてしまうようなデザインは、「幼稚」と言われます。

 デザインは、モチーフを記号化します。テーマを抽象化します。それが一枚の紙や、あるいはモニタに映し出された時、「あっ、この線形は○○を図案化したものなんだ」とか「この色は○○な雰囲気を狙って使っているんだな」とか、意図がスケスケに読めてしまったら、これもまた興ざめなわけです。これをして、「楽屋がバレ」た、と言います。

 しかしながら意図のまったくないものはデザインとは呼べません。デザイナたちが最も神経をすり減らすのはこの点、いかに意図を下層に潜ませるか、だと言います。意図を読ませないで、いかにファースト・インパクトを与えるか。一枚のポスターを見せた時に、エッセンスとしてのデザイナの意図をぶわっと漂わせて、「よくわかんないけどなんかキレイだと思った」という言語化できない感動を与えられたら、至上の喜びなのでしょう。この話を聞いた僕もまた、ゾクゾクとした興奮を覚えたのでした。プロの話には、凄味があります。

 もう一つの落とし穴として、「楽屋ウケ」の危険性の話も伺いましたが、これについてはまたの機会に。この場合、「幼稚」が、逆に肯定されます。

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021019 もろやんのミステリな日常2。


 もろやんからメールが届きました。ドッキドキ! LOVEメールです(違います)

 も:次の「みすよむ」は『哲学者の密室』(笠井潔)だから。

 ぎゃふん。

 「みすよむ」とは、もろやんらが開いている読書会「ミステリを読む」の略称(詳しくは011019の日記参照)。そのチラシ制作をやらせてもらうようになってからもう1年以上にもなります。回を重ねて今年度の4回目、僕の作るチラシも10作目になります。その記念すべき10作目が、『哲学者の密室』。

 ぎゃふん。

 なぜ悲鳴をあげているのか。その理由はのちほど。さて、チラシを作らせてもらうからには、その材となる作品をしっかりと読んでから取りかからねばならぬ、がモットーです。そうでないとデザインの方向性もイメージも湧いてきません。

 この場合、読んだことがある作品が読書会の題材に選ばれれば話は早いのです。実際、過去に『龍は眠る』(宮部みゆき)とか『姑獲鳥の夏』(京極夏彦)とか『空飛ぶ馬』(北村薫)とかが提示された時は、即座に制作に着手できました。いずれも読んだことがあり、かつ好きな作品なだけに、方向が固まるのも早かったです。

 ですがそう読書量が多いわけでもない僕のこと、当然ながら読んだことがない作品がテーマになってくるケースもあります。『生ける屍の死』(山口雅也)や『倒錯の死角 201号室の女』(折原一)がそうでした。これらの場合は、材を与えられてから古本屋で購入、しっかりと通読してから制作しました。いずれの作品も大変面白く読めましたし、読んだことでイメージも喚起されました。僕の知らない作品・作家でしたが、他の作品もいつかは読んでみたくなりました。こういう出会いは幸福です。

 さて今回、『哲学者の密室』です。


 
1182ページ。

 ぎゃふん。

 ぶ厚い。長い。そして中身は濃厚。

 笠井潔、もろやんの口からさんざ聞いていましたから、名前は知っていました。そしてこの作品自体も、本屋で目にしていました(当時はハードカバーでした)。この重厚さを前々から知ってたので、こうして材として与えられた時に思わず「ぎゃふん」と叫んでしまったのです。ううう、もろやん、これはキツイよ。

 ですがそうそうぎゃふんぎゃふんとも言ってられないので、読みましたよ。作りましたよ。いや大層面白く興味深かったんですけど、なかなか疲れました。この厚さじゃ携帯できないし。文庫本のクセに生意気な。とりあえずもろやん、今後も題材は選ばないけど、長さ的には中位程度のものまでを上限としてくれたまえ(無理な相談)

 「みすよむ」チラシライブラリ
 『哲学者の密室』は内容に反比例させてあっさり目です。


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021018 インタビューの話 その1。


 インタビューは苦手なんです。

 いや、そもそも話すこと自体が苦手だもんで。話すことが得意だったら、もっと違う道を模索していたというもんです。そんな僕にインタビューさせようだなんてあーた、そんなご無体な。

 苦手とはいえ、インタビューの仕事が別に嫌いなわけではありません。いろんな職種の方に話を伺い、それを文章にして校正してもらい、最終的に掲載できる記事までもってく過程は緊張感溢れ刺激に満ちたものです。この過程自体はむしろ好きだと言えます。

 しかしですね、やはり難しいんですよ、インタビューというのは。いかにインタビュイー(=相手)の話を引き出すか。いかにインタビュイーをノせつつ、自分が記事にでき得るであろう方向にもっていくか。会話の中での駆け引きが重要となってきます。ある程度の計算なくしてインタビューはできません。

 その計算とはどういうものか。インタビュアーは、事前にある程度の準備をしてからインタビューに臨みます。質問内容であったり、その質問に対する相手の答えの予測であったり。予測に基づいて、インタビュー後に自分が書くであろう記事を、既に想定しておかなくてはなりません。そしてこの想定に沿った形に会話を流していけば、その時点で記事の完成形は見えてきます。楽勝です。

 しかしコトはそう楽には運びません。インタビュイーが想定に外れた突拍子もない答えを返すこともあるし、会話が予期せぬ方向に流れることもあります。さあ大変、インタビュアーはあたふたです。……かと思いきや、この「想定外」のハプニングも、実は「想定のうち」だったりするのです。いやむしろ、想定外のことが起きた方が記事としては面白くなっていくわけで、インタビュアーはあたふたどころかニヤリとするところとなるでしょう。ハプニングを味方につけるインタビュアー。これはもう一人前です。

 ……で、僕の話に戻ります。一人前でも何でもない、加えて喋りベタな僕は、インタビューがしこたま苦手です。過去の数少ないインタビュー経験を振り返ってみるに、相手の話の腰を折ったり、突っ込むべきところで突っ込み切れなかったり、ほんとにもう失敗の連続です。会話を円滑に進行させる話術が欲しい、とは切に願うところであります。でも仕事は仕事です。今日も今日とて、取材に行ってきましたとも。

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 今回のインタビューもまた、僕自身はしどろもどろになりながらも、辛うじて相手の饒舌さに救われながら進行していきました。無作法ながらもどうにかある程度の話は引き出せ、やれやれ、といった感じでインタビューを収束させようとしていたそのときです。インタビュイーがこんな言葉を発しました。

 インタビュイー(以下、I):野球も終わっちゃって、さみしいねえ。

 なぬ。

 野球ですと?

 キラーン(目が光りました)。

 僕のエンジンが、再始動しました。

 R:おっ、野球、お好きですか?

 I:あ、はい、好きですよ。

 R:おおおっ、どこか贔屓にしているチームはありますか?

 I:うん、やっぱり地元だから、ライオンズを応援してるよ(この日取材で訪れたのは埼玉の秩父でした)。

 R:!!!!!(目が覚めました)。

 R:マ、マ、マ、マジですか? いやあ、僕も好きなんですよお、ライオンズ。こちらはいいですよねー、西武線沿線だけあってあちこちにポスターが貼ってあって。うらやましいですよお。僕も将来西武線沿線に住みたいなー、なんて思いますもん。

 I:は、はあ、そうですか(やや引き気味に)。

 R:日本シリーズ、楽しみですよね(インタビュアーとしての理性を保ちつつ)。

 I:そうですね。

 R:それにしてもカブレラは残念でしたね。昨日の最終打席、見ました?

 I:見ました。残念でしたね。

 R:やはり残り5試合は、カブレラ本来の振りじゃなかったですよね。昨シーズンの悪い時期のカブレラに戻っちゃった。今シーズン中盤、優勝をめざしてた頃の好球必打の姿勢でバッターボックスに入っていればよかったんですけどねー。優勝が早めに決まっちゃったのが災いしましたねー。難しいものですねー。

 I:そうですね。難しいですね。

 R:でも、カブレラ、実はホームランを1本損してるんですよね。5月の東京ドームでのファイターズ戦。天井にあたって単打になっちゃったのがあったじゃないですか? あれがホームランと認定されていればねえ、と思いますよ。でもこの1本が加算されていたらおそらくバッファローズ戦の55号はなかったわけで、それを考えると不思議ですよね。

 I:そうですね。不思議ですね。

 ……
(以下延々と続く)

 ……えー、このインタビュー、落第点です
(でも自分では大満足です)

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021014 ライオンズの秘密兵器。


 キャッチボールをね、したんですよ。



 腕が痛い。

 腰が痛い。

 足が痛い。

 三重苦。

 なっ、なんでだ? たしかにグローブをはめたのは1年と2ヵ月ぶり(010729)とはいえ、投げたボールはいずれも山なり、せいぜい数十球。全力で投げた球なんて一球もなかったのにっ
(ノーコンで、どこに飛んでいくかわかんないからね)

 特に腰痛。これには少なからぬ衝撃が。筋肉痛の箇所として、今までに腰は経験したことがない。なんだこの痛みは。なんだこの違和感は。痛みを緩和させるために座椅子に目いっぱい寄りかかりキーボードを叩いている自分。哀愁でいと。

 それに加えて動かないカラダ。思い通りに腕が振れないし、足が回らない。投げるたびにフォームがバラバラ、崩れるバランス。僕のイメージではスワローズの藤井秀悟なのにっ。こんなんじゃスパローズにも入れやしない
(ファミスタネタです)。ヒザも笑うね。大笑いさね。あっはっは(人面疽)

 日本シリーズまであと12日。急ピッチで肩を仕上げます。


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021005 物騒な単語が乱発します。


 東京スポーツ、略して東スポは、その見出しがアホなことで有名です。

 過去の名作としては、

 開幕戦君が代 巨人ナイン抗議 音痴中居になぜ独唱させる (000331)
 三沢 猪木なんか大嫌い (010131)
 猪木さんひどい 涙の橋本 (010829)
 爆弾暴露星野監督 私を裸で追放した中日 (020214)
 これは凄い 淫乱逆エビ (020220)

 なかなかのラインナップです。野球とプロレスと芸能が絶妙の配合でブレンドされ、荒っぽさとわけわかんなさと腰砕け感がミックスされています。全国紙の一面に、これらの言葉を臆面もなく晒すその精神。素敵です。淫乱逆エビってなんなんでしょう。気になります。

 勝った桜庭 新庄6号 小泉64議席 田村5連覇 (010731)

 これなんかも芸こそないものの、なんでもつめこんじゃえ感が如実に表れています。無節操です。象徴的な見出しと言えるでしょう。僕は東スポが大好きです。



 その東スポが、またやってくれました。

 小池栄子恋人殺す (021005)

 衝撃的な見出しです。一体何事でしょうか。キオスクでこの広告を見たとき、僕には次の2通りの解釈が生まれました。

1.小池栄子がフった恋人が、そのショックのために自殺してしまった。
2.小池栄子が、恋人を何らかの手段で殺した。

 どちらにしても大ニュースです。今をときめくグラビアアイドル、妖怪人間ベラこと小池栄子が、色恋の末にスキャンダルに巻き込まれたか、あるいは自らの手によって刑事事件を起こしてしまったのです。これは芸能活動どころの騒ぎではありません。詳細が気になった僕は、タケノコ差しされた東スポの頂上を手に取りました(この時点で東スポに負けています)



 違いました。

 小池栄子恋人殺す
 ↓
 小池栄子恋人殺す

 ではなかったのです。

 明らかになったところの真実を述べる前に、周辺状況の解説をします。この小池栄子、つい先日に格闘家・坂田亘(29)との熱愛が発覚しました。小池栄子が一目惚れし猛烈にアタック、末に坂田の告白を呼んだという微笑ましい恋愛です。イエローキャブの野田社長も公認で、温かく見守っております。まあこれはいいとしましょう。しかし黙っていなかった者がいます。

 登場するのが極真小笠原道場を創設したこちらも格闘家・小笠原和彦(42)。彼が小池栄子のファンなのか否かは定かではありませんが(いや多分、ファンだったのでしょう)、「坂田てめえふざけんじゃねえ、ぶっ殺してやる」と息巻き、対戦を要請したのだそうです。今年2月にはあの破壊王・橋本真也にケンカを売った猛者です。その語気たるや、凄まじいものがあったと推測されます。東スポ記者の取材にも怒気を含んだ声で応じたことでしょう。つまり、

 小池栄子恋人殺す
 ↓
 小池栄子恋人である坂田亘を、リング上で(誇張的表現として)殺すと小笠原和彦が言った

 のでした。なんのこっちゃです。省略するにもほどがあります。そもそも主語述語目的語の関係がめちゃくちゃです。「小池栄子恋人殺す」ときたら、誰しもが「小池栄子(=S)」「恋人(=O)」「殺す(=V)」と思うじゃないですか。"Miss Eiko Koike killed her lover" です。それがなんですか、この乱暴な省略。文法の破壊。東スポ記者は中学校国語教育を経てきていないのでしょうか。まったくもう、してやられました。こうして術中にハマって東スポを手に取ってしまったからには、ダマされた悔しさよりもむしろ爽快があります。いや、でもやっぱり悔しい。だけど東スポ、そこが好き。



こんなん。

 『Rana's HOME PAGE』は、東京スポーツを応援しています。

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