■ 2003年4月,5月,6月
宇野と佐野。この、実に個性的な2人のプロ野球選手に、今日はスポットを当ててみようと思います。そもそも僕が彼らを初めてブラウン管で見たのは……。 あれ? (なんか変だぞ) ……。 あっ! まちがえました! ごめんなさい。
↑こっちについて語りたかったんです。 前フリはさておき。 本題です(宇野と佐野の画像を探した自分が好きだ)。 ◆
一昔前、「右脳型人間」「左脳型人間」という言葉が流行りました(と、思います)。 これはすなわち、「感情直感型」か「論理思考型」か? ということなのですが、実際にどちらか一方に偏向しているような人は稀で、大抵の人は両脳を適宜使い分けて、バランスを取りつつ日常生活を営んでいることと思われます。 また、利き手との関係性もよく言われます。右利きの人の左右両脳の役割分担はほぼ上に挙げたとおりですが、左利きの人の場合、右脳も言語の機能を受け持っているらしいのです。ほおお、そうだったのか(参考:>>>■、■、■)。 脳の役割分担ということで言いますと、以前興味深い話を聞きました。とある舞台制作スタッフの方にインタビューした時のことです。その方は、最近は舞台制作、すなわち裏方的な仕事に専従しているのですが、過去に脚本を何本か執筆していたこともあります。そのことを知っていた僕は、こう質問しました。 「再び筆を執るおつもりは、ありますか?」 その舞台制作氏は、こう答えました。 「あります。けれど、今は難しいですね。制作の仕事をずーっとやっていると、頭が文章を書く、という行為に働かないんです。それだけ、制作の方に頭が向いているってことでしょうか。使っている脳が違うんですかね」 僕は、「ほほお」と思ったわけです。ここで言う「文章を書く」という行為は、論理的な範疇における書く行為ではなく、「物語を創造する」という意味で芸術的な領域、すなわち「右脳的」でしょう。対して「舞台を制作する」という行為には、理詰めな思考が要求されます。興行を企画し、収益を予測し、会場を手配し、広告を打ち、人を動かす。概して「右脳型人間」が多い集団の中にあって、「左脳的」な立場であることが求められます。「使っている脳が違う」ことを感覚として得ている氏の言葉が、とても印象的でした。 その「感覚」が、僕も最近わかってきました。 仕事で記事を書きまくった後というのは、しばし放心します。「記事を書く」となるとこれはもう、「伝わるように」文章を書かなければなりませんから、勢い思考は論理的になります。そも論理的思考が苦手だった僕が、理詰めの文章構成を考える必要に迫られるのです。これは疲れます。と、家に帰ってから日記を書こうとしても、頭が働かないのです。好き勝手に書ける日記は、感覚にまかせてしまう部分大ですから、同じ「文章を書く」という行為でも、質が違うようです。これは以前の自分には想像できないことでした(さりげなく更新が滞る理由を強調)。 とは言え「日記を書く」行為はまだ幾分「左脳的」であるようで、日記を書いてしまうと空間的な思考を要請される「ミステリを読む」のチラシ制作ができなくなってしまいます。逆にチラシを制作した日にはとてもじゃないけど日記は書けない、といった感じで。チラシ制作は「右脳的」な行為であるようです。頭がすぐには切り替えられない、つまりは「使っている脳が違う」んだなあ、と思います。 趣味の分野はいいとして、仕事では「使っている脳が違う」からといって放棄することはできません。根を詰めて記事を書いていたところに、デザイナから誌面が仕上がってきたらそっちに目を通し、レイアウトを検討しなければなりません。あるいは自分で誌面を組みながら文章も書いて、それと平行して作図もして……ということもしなければなりません。目が回る、というか、脳が回っている感覚があります。「あっ、今、脳のこのへん使ってるっぽい。おっ、今度はこっち」と、いう風に(多分錯覚ですが)。 こうして「両脳を使った」と感じる日は、なんだかとても疲労困憊しています。家に帰ってから2時間も3時間もボーッとして過ごしたり、たちまち寝てしまったり。流れていく時間の量を考えると、実にもったいない。 ですがこの時間を経ないと、翌日使いモンにならないのです。なんせ頭も体も脆弱ですから、こうでもして休ませないと、復活しないんですね。もうちょっとタフになりたいとも思うのですが、この疲労感自体はそう悪い感じのものでもないので、まあ、よしとしましょう。 |
夏です。 夏がやってきました。 中華料理店に貼られた「冷やし中華はじめました」の涼やかな張り紙が、この季節の到来を知らせてくれます。この、「冷やし中華はじめました」という文句はもはや定型句として一人歩きし、半ばネタになっているほどです。コントグループの名前にもなっていますし(爆笑問題の後輩ですね)。 しかし私は、あえて言いたい。言っちゃいたい。 「はじめました」って、言われっぱなしでいいのかい? と。 言われっぱなしじゃ、悔しくないかい? と。 たまには、自分ではじめてみても、いいじゃないか! と。 私は、自他ともに認める冷やし中華好き(他って誰)。毎年、ゴールデンウィークの声を聞くか聞かないかという時期から、マルちゃんの3食150円の冷やし中華を買っては食い買っては食い。はじめているのです、冷やし中華を。 卵を、ハムを(鶏肉ササミでも可)、きゅうりを、トマトを用意して。 卵を薄く焼き、ハムときゅうりを細く細く切り、トマトは湯剥きしてスライスし。 3分ゆでた麺をすばやく湯切りし水をかけて、じゃばじゃばじゃば。水を切る! 切る! 切る! 氷を入れた皿に盛って、麺を山盛り。卵ハムきゅうりトマトをキレイに盛り付け。 タレをぶっかけて、わしわし混ぜて、食う! 食う! 食う! しょうゆダレでもゴマダレでも、どっちでもかかってきやがれ。 麺1玉と、卵1個と、ハム2枚と、きゅうり1本と、トマト1個で得られる幸せ。そのコストパフォーマンスのよさ。 かように、冷やし中華は、魅力的な食べ物なのです。 ゆえに、「はじめました」って言われて、店で食ってるばかりじゃもったいないのです。そんな受動的なことじゃ、だめなのです。もっと能動的にあるべきなのです。じゃなきゃ、冷やし中華はやってこないのです、あなたのもとへ。時には起こせよムーヴメント。 もっと、アグレッシブに生きようじゃないか。「はじめました」と言われる前に、はじめてみようじゃないか、冷やし中華を。 つくろうじゃないか、冷やし中華を。冷やし中華で飾ろうじゃないか、夏の食卓を。 もうすぐ春ですね。→恋をしてみませんか。 というアクロバティックな論法が通用するのならば、 もうすぐ夏ですね。→冷やし中華はじめてみませんか。 という論法もまた、通用するはずじゃないか。 たとえ山岡士郎に、 「冷やし中華なんて興味ないぜ。あれは中華料理でもなんでもない。冷やし中華なんか食えたもんじゃないことを証明してやるぜ」 って言われたって、気にすることはない。 たとえ海原雄山に、 「冷やし中華のことをこの海原雄山に尋ねるとは無礼千万。そんなクズ料理のことはこの与太者に聞け」 って言われたって、くじけない。 冷やし中華は、夏の風物詩。夏の象徴。だから私は、今日も冷やし中華をつくる。だから私は、冷やし中華をみんなに勧める。ここに提言したい。これからは「冷やし中華はじめませんか」の時代だと。自分で「冷やし中華はじめてみちゃった」と吼える時代だと。そしてこれからがまさしく、冷やし中華の季節の本番だと。 私は、もう一言だけ、言いたい。 金曜日の夜に独りで食べてみてもいいじゃないか! と。
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自分にできないことを考えるよりは 自分にできることを考えるほうが楽しい できることがほとんどないと嘆くよりは できることがひとつでもあることに感謝したい できることがなんにもないときは できることを探す時間を大切にする できないということは できるようになる可能性があるということで できるということは できることがもっとあるかもしれないという希望があること そう考えていきたい できれば |
学生時代、それなりに種々のバイトをしてきた僕ですが、販売員、すなわち商品を間に挟んでの金銭の授受に携わる仕事はしたことがありませんでした。 それは半ば意図的なもので、元来アガリ性で人前に出ることが苦手な僕は、人とのダイレクトな接点がある仕事を忌避してきた部分があります。僕ってテレ屋さん。 今の仕事は、人と会わなければ始まりませんから、否応なしに人と接していかなければなりません。ですがこれは「仕事」で「経験」と割り切ってしまえば、存外乗り切れるものです。 そう、仕事は仕事なのです。人前が苦手という僕の本性は依然元のままですから、仕事以外の場で好き好んで人前に出るようなことはありません。オフ会の幹事なんてやっちゃうのは、規格外のものとお考えください。僕にそんな、「人前に出る」なんて機能は搭載されてはいないのです。 しかし、そうも言っていられない事態が。 昨日15日、新宿の小劇場「THEATER/TOPS」にて、『原田宗典アワーvol.5』が催されました。これは、僕が制作に関わっているサイト、『はらだしき村』の主催で、日頃サイトに来ていただいているみなさんを原田宗典氏のトークショーにご招待、との主旨で開かれたものです。 会場となる「THEATER/TOPS」では、ただ今壱組印のお芝居、『小林秀雄先生来る。』が上演中。その空いた時間を縫って会場をお借りしての特別イベントですから、その進行、受付、会場整理等を、僕ら制作スタッフが分担しなければなりません。 会場入りする前、僕はこう目論んでいました。「チケットのもぎりか、会場整理あたりをお手伝いしよう」と。これらならば、過去にイベントスタッフのバイトをやった時に経験があります。お客さんとの接点は無論ありますが、言葉を交わす機会は少ないものと思われます。実に消極的に意気込んでいます。 会場に着くと、早くも打ち合わせが始まっていました。どうやら少し遅れてしまったようです。「おはようございまーす」と、エセ業界風の挨拶を発しつつその輪に加わる僕。「あらいらっしゃい、よろしくねー」と、原田さんの奥様、美保子さんが出迎えてくれました。 R:よろしくお願いします。えーと、僕、何しましょうか。 今にして思えば、この申し出が素直すぎたのです。 美保子さん:じゃ、らなさんは、本、売ってね。 はぐふぅ。 ピンポイントで売り子ですか。しまった、こんなことなら事前に、「僕、会場整理担当しますね」と、アピールしておけばよかった。もはや後の祭り。ご指名いただいてから辞退するのは、失礼な話です。「あ、わかりましたー」と、平静を装って返事をして、説明を聞きます。売りますか、僕が。本、売りますか。そんな殺生な。と、心の中では泣きが入っています。 それも売るのは、ほかでもない原田宗典氏の著作群。目の前には、『十九、二十』が。『こんなものを買った』が。『劇場の神様』が。『河童』が。その昔買い漁った文庫本と、つい最近購入した近作とが、ニラミをきかせています。緊張するなってのが、無理というもの。ああああ、落としたらどうしよう。汚したらどうしよう。おつりを渡す時に、女の子と手が触れたらどうしよう(どうもしない)。 つべこべ言う間もなく、開場です。にわかに会場入り口は慌しくなって、次から次へといらっしゃるお客さんへの対応に追われます。僕も腹をくくって、任を果たすべく声を出します。 いらっしゃいませえぇぇえぇ〜。 声、裏返ってます。 こっ、こっ、こここっ、小林秀雄全集のパンフレットは無料ですので、でっ、ぜっ、ぜひお持ちくださーい。 カミまくりです。 あ、『劇場の神様』ですね。ありがとうございます。本体価格1400円ですから、えーとえーと……(しばし間)……せっ、1470円になりまーす。 暗算、できません。 なかなかブザマです。だから言わんこっちゃない。しばしの間、僕はしゃにむに格闘しました。額にヤな汗をかきながら。 ◆
そんな時間もあっという間に経過。あたわたと忙しかったおかげで、長くは感じませんでした。開演間際となり、お客さんの波も一段落。開演直前に会場に入り、今度は観客として、『アワー』を堪能したのでした。 ――実は、売り子さんをしていた間の記憶があいまいなんです。よほど気が張っていたんでしょうね。「ああ、ここにいるみなさんが、サイトを観てくださっているんだなあ……」などと、殊勝な感慨にふける余裕も、ないくらいに。「3年前は一観客として観ていた『アワー』を、今は手伝っているんだなあ……」などと、ピュアな感動に身を震わせている余裕も、ないくらいに。 なるほど、観客としていらっしゃっていた沙羅さんに、終演後、 > そういえば今日会場入る時、らなさんに声かけようとしたらめちゃめちゃ他人行儀な対応されたので「え!?」と思っちゃいました(笑) と言われてしまうはずです。どれだけ余裕なかったんだ、自分。 ともあれ、本当によい経験をさせていただいたと思います。自分が編集に携わったパンフレットを、自分の手で売ることもできましたし。本を制作する立場の者として、実際に手で売る経験ができたこと。これは得がたいものですね。
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数日前、掲示板でのことです。kanakoさんが、僕の故郷である宮崎県延岡市について、このように発言しました。 -5 Jun 2003 (Thu) 00:28:26- kanako wrote: > 延岡は東北地方の地名だと思ってました。 なぬう。 憤怒にかられた僕は、次のようにレスしました。 -5 Jun 2003 (Thu) 22:40:36- Rana wrote: > 罰として、「私と宮崎」という題でレポート提出。原稿用紙5枚。 > たとえ行ったことなくても、「私と宮崎」で。よろしく。 この >>> 「私と宮崎」 ――kanako すげえ。 なんて優秀な学生なんでしょう。提出が早かっただけでなく、きっちり2000字、レポートそのものの完成度も高く、もお先生、迷うことなく「秀」をあげちゃいます。半分以上がプロ野球ネタという、先生のツボを心得た構成も見事です。さすが最後の清純派、との呼び声が高いのもうなずけます。高知と言えば広末かkanakoか、と言われているのも故なきことではないでしょう。 しかし、誉めすぎてはいけません。kanakoさんを調子に乗せてはならないのです。ダテに4年にわたって、僕をイジり続けてませんからね、スキを見せることは禁物です。ここは、鬼教官としての面目を保つためにも、厳しい目での批評を加えていくこととしましょう。 以下、kanakoさんによるレポートからの抜粋と、Rana先生からのコメント。 > シーガイアといえば、ひたすらどでかいプールです。 ―― みもふたもないことを。 > それほどまでに嫌いなチームがキャンプを張っている地になど、これといって興味が湧くはずなどありません。 ―― いや、それは巨人が悪いのであって、宮崎に非のひとつもあるわけではなく! それにキャンプを張っているのは巨人だけじゃなくて、広島もヤクルトも近鉄も張ってたわけで! > 以上のことからも、私が宮崎に対してあまりよいイメージを持っていないことが解ります。 ―― この段落において怨むべきはダイエーだし! 宮崎、いい子だし! > 「霧島」も宮崎県だとは思っていませんでした。 ―― さらなる罪状発覚。いやしかし、これは無理からぬことでして、「霧島山」は、宮崎と鹿児島の県境にまたがっているのですよ(こんなふうに)。地図上、宮崎県小林市にあることになってはいるのですが、これはもう、「頂上が宮崎寄りにある」ってことだからだと思います。宮崎県人も鹿児島県人も、両者「うちの県の山」という認識なのではないかと。 > 思わずエビ反りになって爆笑してしまいました。 ―― 僕は、この表現に爆笑しました。 > らなさんが宮崎までの旅費を出してくださるとのことなので、長期休みが楽しみです。 ―― 僕の預貯金の額を見てからだと、そんなことは言えないと思います(言ってて哀しい)。 > 私の実家がある村が周辺の2町村と合併することになりました。今年の夏に新しい町名を全国に公募するそうです。(中略)らなさんならHPのトップでいつも笑わせてもらっているので、何かセンスある町名をきっと考えてくれることでしょう。 ―― HPのトップと、合併町名との間の因果関係はどこに。合併市区町村名の案だなんて、そんな無理難題を。それでなくても昨今、「四国中央市」とか「ひらなみ市」とか、「それはどうか」という名前が乱発しているというのに。間違っても、ひらがな町名になってしまわないことを祈ります。 > 岡山の実家にお帰りの際はぜひご連絡ください。岡山まで頑張って足を伸ばして生らなさんにお会いしたいものです。 ―― あっ、それはぜひ。それにしても「生らなさん」って言いづらいですね。 批評終わり。 ……先生としての威厳、微塵もなし(むしろ防戦一方で)。 Special thanks to kanako.
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先日会社の飲みで、「宮崎出身なんすよ」と言ったら、「……え、えっと、ジャイアンツとシーガイア?」と、過不足なく表現されてしまい、一種の爽快をおぼえました。返す言葉もございません。まさしくその通り。 後日。会社帰りに立ち寄った本屋で、ふと目に留まった本を手に取り、ぱらぱらめくってみると、こんな文章が。 延岡に「よだき」という言葉があり、万事におっくうがることを意味するそうだ。これは、物事に対処するに際し、「みずから行動を起こす、仕掛ける」のではなく、「なるようにしかならない」という心構えで臨むことをいい、宮崎県人の気質を実に的確に表現しているようである。 岩中祥史 『出身県でわかる人の性格――県民性の研究』 あっ、それ、自分。 ずばり宮崎県は延岡市で13年間過ごした僕は、「宮崎県人の気質」に、随分と染まっているようです。「めんどくさがりぃ」で、「おっくうがりぃ」。延岡弁で、「よだきがりぃ」。僕の気質を、見事なまでに指し示している言葉です。 また、以前takkaさんやまるまさんのサイトでも取り上げられたここでは、こんなことも言われています。 > のんびりとして人がよく、争いごとを好まない県民性 だからそれ、自分。 他のサイトで「宮崎県人の県民性」を調べてみても、「のんびり」「おっとり」「温和」「温厚」「楽天的」といった単語が並んでいるんですね。ますますもって僕のことです。まあこれらは、比較的いい意味でも用いられる単語ですから、よしとしましょう。問題は、次のような表現です。 「九州にしては珍しく弱気」「消極的」「怠惰」「向上心がない」「お人よし」 えらい言われようだ。 しかしながらこれら全部をひっくるめて、自分のことをズバズバ言われてる感があることは否めません。県民性を、まんま色濃く反映している僕。マン・オブ・ザ・ミヤザキの称号を授けたいと思います(いらん)。けど、まんま県民性のステレオタイプな性格っていうのもどうかと。 みなさんの出身都道府県と、性格との関係性はいかがなものでしょうか。 冒頭に挙げた『出身県でわかる人の性格――県民性の研究』という本は、宮崎県と岡山県の項を立ち読みしただけですが、なかなか面白そうでした。発行元の草思社は、『平気でうそをつく人たち』『他人をほめる人、けなす人』『声に出して読みたい日本語』と、「売れる」本を多数出してきた出版社。これもスマッシュヒットするかもしれません(でも買ってない)。 [付録] 前掲のここで、宮崎県人チェック! ●最大の自慢だった「シーガイア」の倒産が、無念で無念でたまらない。 ―― オープニングには、あのスティングが招かれてたんですけどね。 ●とは言うものの、地元民はほとんどいったことがなかったので「ま、いっか」とも思っている。 ―― 結局一度も行ってません。まあ、海のそばに人工の海をつくっても。 ●『土曜ワイド劇場』が『月曜ワイド劇場』になったり、雑誌の発売日が2日遅れる事実に田舎度を認識せずにはおれない。 ―― 2日どころか、3〜4日遅れてた気が。『週刊少年ジャンプ』は火曜発売だったけど(通常月曜)。 ●黒板消しのことを「ラーフル」と呼ぶ。 ―― 岡山に越して、「ラーフル」が通用しないことに驚愕。 ●リニアモーターカーを山梨に取られたことは大失敗だったと思う。 ―― 今となっては、リニアモーターカーの開発そのものの最前線を中国に譲ったので、よしとしましょう。 ●宅習と宿題の違いがわかる。 ―― 「宅習」って、「自宅学習」のことです。宿題以外に、家でする勉強のこと。この言葉が流通してるってことは、教育県なのでしょうか。「たくしゅう」って打って、一発変換されないのはなぜですか。IMEめ。 ●『めざましテレビ』に高橋巨典が出るときは必ず見る。 ―― 必ずは見ませんが、出てると妙にうれしかったです。最近『めざましテレビ』自体見てないですが、今も出ているんでしょうか。ちなみに高橋巨典さんは、CX系テレビ宮崎のアナウンサーです。 ●今井美紀はなんとなく応援している。 ―― ほんとになんとなく応援してます。あと、鬼束ちひろやコブクロも応援します。 ●ロッテのジョニー黒木の宮崎なまりが好き。 ―― 厳密には延岡なまりですね。もちろん大好きです。復活祈願。ダイエー寺原の宮崎ヤンキーっぽさも好きです。 ●きゅうりの入ってない冷汁は、冷汁と認めない。 ―― 冷汁には、宮崎県人も疑問符だとは思うのですが。 ……ああ、懐かしい。 |
以前の日記(030130)で、SMAPの『世界に一つだけの花』という歌をヒット寸前に嗅ぎつけ、僕は自身の先見の明を証明することに成功しました(やや歪曲)。 そう、僕には先見の明があります。同じSMAPを引き合いに出しますが、あれは今から10年前、デビュー間もないSMAPが、『姫ちゃんのリボン』の主題歌を歌っていた頃のことです。当時SMAPは、満を持してのデビューを果たし、世代を越えたスターダムへと登りつめようとしていた時期でした。僕(中3)と、妹(小2)との間で、次のような会話がなされました。 妹:なーなーにーちゃん、SMAP、どんくらいもつじゃろか? 兄:うーん、ま、もってあと2年くらいじゃね? 妹:そんなもん? 兄:おお。あと2年も経てば失速するがな。光GENJIより早えぞ。 妹:そうかのう……。 ……かように、僕には先見の明があります(このネタで妹には今でもバカにされています)。 そんなわけで、ここ10年のSMAPの活躍を見るにつけ、微妙な心持になる僕ですが、『世界に一つだけの花』のロングセラーぶりには無条件で脱帽です。そこで、このヒットの要因を考えてみましょう。 第一に、この歌を待望する土壌があったということでしょう。歌が週間単位で消費されてきたここ十数年、各世代限定でのヒットは多数あるものの、世代を貫いて心に残る歌には恵まれてきませんでした。別にそういった広範な層へのアピールの成功が、歌自体の付加価値となり得るわけではないんでしょうが、ともかく大衆がこういった共通言語としての歌を渇望していたことは事実です。 次に、歌い手がSMAPだったということ。彼らが歌ったからこそ、この歌はこの上もない説得力を持ちました。10年以上の活動によって獲得してきた信頼感が、歌詞を支えました。アイドルという存在の意味、立場の強みが、歌との相乗効果をもたらしたわけです。この効果を半ば見越しての、歌詞の提供ではあったのだと思いますが。 そして、その歌詞。槇原敬之の手によるものです。「花」「僕ら」「一生懸命」「笑顔」「Only one」と、実にやわらかな単語が並びます。部分部分を切り出してみると実にありふれた、いやそれどころか「使うのが恥ずかしい」とまで思われるような単語、表現だったりします。加えて「人間」を「花」に喩える直喩も、その単純明快さゆえに、できそうでできない喩えです。 だけど詩として、全体を通して読むと、恥ずかしさは物語性の裏に隠匿されるんですね。実に単純な物語なんだけど、広がりがある。槇原敬之は過去に『No.1』という曲をつくり、恋人同士という2人の関係性の中での「No.1」を描きましたが、『世界に一つだけの花』に到って関係性は「世界」に広がりました。この極限まで広がった関係性にあっては、「No.1」ではなく「Only one」であらざるを得ません。 この、「Only one」という響きが、詩の中核であり、聴く人が救いを得るところでしょう。おそらくは誰しもが、「誰かに言ってもらいたい」言葉なのではないでしょうか。「一人一人違う種を持つ」ことも「一つとして同じものはない」こともまた、誰しもが知っていることなんだけれども、日々の生活の中で疑問を抱いたり、忘れかけたりしてしまいます。それを思い起こさせることで、共感を呼びました。「Only one」を含むフレーズがこの歌詞の掉尾を飾っているのは、あざとさを通り越して「これしかない」配置であったと言えるでしょう。 こうしてみると、この歌詞は実に危ういバランスの上に成立しているのだ、と言えます。それは、「恥ずかしさ」「クサさ」「説教臭さ」を、スレスレのところで回避している、という意味で。また、「単純」「自明」「必然」な歌詞が、安直安易に堕していない、という意味で。これは決して、槇原敬之のみの功績ではありません。時代が求めていたこと、SMAPが歌ったこと、これらとの協調なくしては成功はあり得ませんでした。 時代と、歌い手と、歌詞とが合わさって、歌を成す。ごく当たり前のことではありますが、これが本来のあるべき姿なのではないでしょうか。誰ですか僕は。 |
〆切に追われています。 ↑一度言ってみたかったんです。 けど、何回も言いたくありません(身体に悪いです)。 さて、なんだかんだで、就職して1年が経ちました。いやもう、あっというまでしたよ……、などと常套句を言いたいところですが、そうでもありませんでした。長かったです。ああ長かった、長かったよ、兄ちゃん。 よく、「3日、3週間、3ヵ月、3年」などと申しますが、初期の僕もこんな風に期間単位で区切り区切り仕事してましたね。入社早々初日、「うー、3日もつのか、おれ」と思い、3日経過したらば、「とりあえず3週間やってみっか」と思い、3ヵ月経ったらば、「え? 次は3年? それ、カンベン」と思い。1年目を迎えた今日もまた、「んーっと、辞める機をのがさないように要注意で」などと考えているわけです。そんな1周年。おめでとう。 あ、しまった、暗い。 いえその、こんな風に考えてしまうこともあるというわけで、まったく逆に、「よぉぉぉぉぉっしゃ! この職、天職!」などと思ったりもするわけですよ。僕だって、感情の起伏くらいあるわけですよ(振幅の幅は通常の人の10分の1くらいかと思われますが)。 こんな風に気分的にハイになるのってどんな時かというと、やはり「原稿が通った時」なんですね。たとえばインタビュー記事で、まず社長に通り、次にインタビュー相手に通り、完成原稿ができた時。それがほんの2000字、A4紙にして2枚程度の原稿であっても、ほおずりしたくなるくらい可愛く思えるのですな(誇張)。 そして冒頭に戻ります。最近、書かなければいけない原稿を抱え込んでいます。社にいる時間はずっとパソコンの前で唸りっぱなし。家に帰っても同じく唸りっぱなし。息をつく間がありません。記事が掲載される媒体の発行は待っちゃくれませんから、どうにかこうにか間に合わせるべく、書くことになります。しかし、僕には大きな弱点がありまして、ほれ、 文章書くの、遅いんですよ(みんな知ってます)。 1年間、あれこれと原稿を書きまくってきましたが、筆の遅さは相変わらずです。社長にも、「もっと早く上げてね」って直球で注意されてるし。さっき思わず増長して「天職!」なんて書いてしまいましたが、この僕の遅筆さ加減は、致命的かと思われるんですよね。天職なんて言ってねえで転職考えやがんなってね、あはははは。 オチませんでした。 |
さて、ぜんぜんゴールデンじゃなくて社会人および学生を泣かせているGWですが、それはそれ、祝日はゆっくり休んでリフレッシュをいたしましょう。 心のリフレッシュの前に、まずは部屋のリフレッシュ。敷きっぱなしで、うんざりするくらいにプレスされている敷き布団、および寝汗を十二分に浸透させている掛け布団を、日光にさらします。たまっていた洗濯物も、この機に処理。衣更えも兼ねて、お役御免の冬物衣類と、押入れにしまい込んでいたTシャツをすべて洗濯したので、都合5回、洗濯機が稼動することとなりました(多過ぎです)。 空晴れ渡り、気温も上昇した今日。洗濯物はすぐに乾きます。乾いた端からアイロンがけ。祝日の真昼間に、25歳男子が黙々とアイロンがけに勤しむという素敵風景のなかで、20枚以上ものTシャツがきれいにたたまれました(疲れました)。 気がつけば午後3時。横目で観ていたライオンズ―ホークス戦も終盤にさしかかっています。気温が下がる前に、乾していた布団を回収しなければなりません。今晩は、お日様のにおいがする、ふかふか布団を堪能できることでしょう。むふ。と、気持悪い笑みをたたえながらベランダを見やりました。 布団がありません。 あれ? 掛け布団は平和に乾されているのですが、大物であるところの敷き布団が、ベランダの手すりから消えています。風にあおられて、ベランダに落ちてしまったのでしょうか(これはよくあることです)。そんな予測をしつつ、慌ててベランダに出ます。 ベランダにもありません。 え。 アウチ、大変です。どうやら布団が、ベランダの外に落下してしまったようです。これは初めての出来事です。僕の部屋は3階で、たいした高さではありませんが、落ちた時に通行人にぶつかったりしなかったでしょうか。やれやれ、下まで取りにいかなきゃ……と思いつつ、ベランダから地上の道路を見下ろします。 落ちてません。 ? 消えた布団(ミステリー)。 僕は混乱しました。忽然と姿を消した布団。誰が盗んだのでしょうか(盗みません)。ともあれ現場検証ということで、部屋を出て、階段を下り、ベランダの真下まで行ってみました。 やっぱり布団はありません。 困惑です。これでは今晩、寝られません(いや、そういう問題では)。布団捜索の開始です。的外れかとは思いながらも、アパートの付近をうろうろうろと探索します。それでも見つからない布団。迷宮入りです(早いな)。途方にくれた僕は、空を見上げました。 あ、あった。 電線の上に。 それはシュールな光景でした。地上3メートルくらいでしょうか、僕の住むアパートの2階から出ていて、電柱へと続いている電線に、布団が引っかかっていたのです。布団の重みでたわむ電線。風に吹かれて揺れる布団。ナイスな乾し場所です(違う)。僕の部屋のベランダからは5メートルほどの距離があり、死角になっているところでした。お前、そんなに飛んでいたのか。 困りました。この高さでは捕獲不可能ですし、よしんば届いたとしても、電線に引っかかっているので危険です。どうしようかと、ちょっと思案した僕の脳裏に、でんこちゃんの顔がよぎりました。 東京電力に電話! 無難な選択肢です。しかし今日は祝日。はたして電話はつながるのでしょうか。 ともあれ、電話してみます。 (機械音で)ありがとうございます。東京電力です。停電など、緊急の場合を除き、ご用件の承りは、祝日を除く、月曜日から土曜日の、午前9時から午後8時までとなっております。おそれいりますが、あらためておかけ直しいただきますよう、お願いいたします。 ジャスト祝日、案の定。 絶望しかけましたが、メッセージには続きがありました。 ……なお、緊急のご用件のお客様は、係の者におつなぎいたしますので、そのまま3番をダイヤルしてください。 ここで、しばし考えます。 はたしてこれは、「緊急のご用件」なのか? 電線に引っかかった布団。僕にとっては緊急です。なにしろ今晩寝られません。しかしながらどうにも画的にオモロイ構図なので、緊迫感がありません。布団ときたら、呑気にゆらゆら揺れてやがるんですから。いやでも、画的にマヌケでも、やっぱりこれは緊急か……。 勇気を振りしぼって、3番をプッシュ。 でんこちゃん:はい、東京電力カスタマーセンターです。 R:あっ、こんにちは、祝日におそれいります(低姿勢)。あのですね、布団が飛んでですね、電線に引っかかってですね、ちょっと大変でですね、危険かなとも思われるのでですね、よろしければ取っていただけないかなー? なんてですね、思ったりしてですねあたふた。 でんこちゃん:はい、わかりましたー、すぐ伺いまーす。 でんこちゃん、素敵。 小1時間後、布団はめでたく僕の手元に戻ってきました。やっぱりプロは頼りになります。でんこちゃんありがとう。でんきをたいせつにね! リフレッシュどころか、えらく疲れました。 |
本日の日記は、同日のもろやんの日記をお読みになってからの方が、ほんのり愉快です。 やられました。 以下は、僕が本日公開しようと思って書き進めていた文章です。 ♪こーこーろやーさしー アニメ、『鉄腕アトム』の主題歌です。 JR高田馬場駅を最寄りとし、通勤にこの駅を利用している僕は、毎朝このメロディに送られて会社へ向かい、毎晩このメロディに迎えられて家に帰ります。 高田馬場は、故・手塚治虫氏が生み出したキャラクタ、「鉄腕アトム」が生誕した地。2003年4月7日に、アトムはここ高田馬場にある科学省で、産声を上げたのです(たぶん産声、上げてません)。 そして極めつけが高田馬場駅の発車ベルです。耳なじみのメロディから、冒頭に書いたようなアトムの主題歌に切り替えられたのは1ヵ月前のこと。朝夕のラッシュの喧騒のなか、「♪こーこーろやーさしー」と平和に響くメロディは、新鮮な驚きをもって迎えられました。足を忙しく動かしていた利用者も、ふと立ち止まってはこのメロディに耳を寄せます。「蒲田行進曲」を使用しているJR蒲田駅の二番煎じといえなくもないですが、毎日利用する者として、こうした遊び心は歓迎です。 しかし問題がありました。 ♪こーこーろやーさしー ららら……(プツッ) え? 終わり? この空振り感。 最後まで聞かせやがれ。 朝のラッシュ時など、発車が引きも切らない時間帯は、停車→降車→乗車→発車というスパンが、目まぐるしく回転するのですね。そうすると必然、こうしてメロディを突然ぶった切らなければならなくなるわけです。そうした事情はわかるのです。わかるのですが、メロディに合わせて口ずさもうとしていた矢先に(……プツッ)ですから、参っちゃいます(口ずさんでいる人発見)。これでは一日のスタートとして、出足につまずいた感が残ってしまいます。後味悪いことこの上なし。まれに、余裕でフルコーラスが流れることもあるので、途中までしか聴けなかった日は悔しくなります。 ……(以下省略)。 カブっています(もろやんの日記と)。もろカブりです(もろやんだけに)。 ここまでカブっていいものでしょうか。百歩譲って、アリだとしましょう。しかしながら僕ともろやんとでは、立脚点が違うのです。 高田馬場在住で、もはや1ヵ月も前から何度も何度も同じメロディを耳にしていた僕と、先日の上京で久方ぶりに高田馬場駅を利用し、一、二度耳にしただけのもろやん。この両名が、同じラインに立ってしまっていたのです。屈辱です。時間の猶予があったのならば、もっとネタを掘り下げなくてはなりませんでした。反省です。 僕の場合、仕込みネタの場合は1ヵ月くらい前から準備して日記を書きます。「準備」してる時点で「日記」じゃないですが、まあそんなこといいっこなしで。そして今回。僕はまさしく1ヵ月前、高田馬場駅にアトムのメロディが流れ始めたころから、この日記に着手していました。書き出しの部分やシメの部分は、あらかた形にしておきました。アトム誕生日の今日、会社から帰ってから残りを書き上げて、日付が変わる前に公開だ! と意気込んでいたのです。それがこのありさまです。もろやんめ。きー(筋違いな恨みです)。 ですが僕はくじけません。同じ発想で日記を書いてしまったというのも、赤い糸のなせる業だと考えることで、自分を慰めます。こうして、ネタかぶり自体をネタにすることで、お蔵入りの危機を回避しましたし。これからはお互い、日記を書く前にきちんとネタ合わせをして、公開に臨まなければなりませんね。爆笑オンエアバトルでオンエアされるのが目標です。と、ずらしてまとめてみました。もろやんには事後承諾で。読んで驚け。 フルコーラス流れることもありますよ。>もろやん |
1997年3月31日、月曜日。 その日、昼過ぎの新幹線に乗って僕は東京へ出てきた。 天気はあんまりよくなくて、ビニル傘を持っていた記憶がある。 出発前、駅ビルのうどん屋で母と妹と、親子3人向かい合い、食事をすませた。とくに感慨もなく、そのまま買物してバスで家に戻ってもよさそうな、実に自然な流れであった。ただ、大きな荷物を両手に持った僕が、ひとりで改札に向かったこと、それだけがいつもと違っていた。 「岡山駅まで見送りに行こうか」 と言うのを倉敷駅で制して、そこで「じゃあ、行ってくるね」と別れたのは、無論気恥ずかしさからによるものであった。 ひとり暮らしについては、中学生のころから「するものだ」というアタマがあったので、ようやくその時がきたかなあ、という程度の心構えであった。よもやその地が東京になろうとは思ってなかったけれども。 部屋は神田川沿いにあるアパートの3階で、築年数は結構経ているようだった。天井の板目を目立たせる染みが気になったし、多すぎる柱の傷も気になった。だけど変に新しく小奇麗なワンルームマンションなんかよりは、よっぽど自分に合っているように思われた。なにより、窓から神田川沿いの桜並木が見えて、そしてその桜がまさしく今、満開であったことが気に入っていた。これから毎年、この桜を見ることができるのである。 そもそも部屋を決めたのが、わずか5日前のことだった。大学の合格発表の日程の関係で、身の振り方がなかなか決まらなかったからだ。新学期が始まろうかというこんな時期にいい物件が残っているはずもない……と思っていたのだけれど、運よく学校から程近い、手ごろな値段の物件にありつくことができた。古いし汚い部屋だが、とくに不満でもなかった。けどもしも例えば関西に住むことになっていたならば、半分の値段で倍の広さの部屋に住めたのになあ、とは少しだけ思っていた。 東京に来て辟易したのが、電車の路線の多さだった。どこに行くのに、なにに乗るべきなのか、さっぱりわからない。当時はiモードなんてものは存在していなかった(そもそも携帯電話なんて持っていなかった)ので、頼りとするのはややっこしい路線図のみであった。歩いて大学に行ける部屋にして本当によかった、と思った。あとで気付いたのだが、この日を最後にJRの初乗り運賃は120円から130円に値上げされていたのであった。悔しい。そういえば当時は自動改札機への移行期だったので、駅員が手に持つハサミがカチカチカチカチ……と音を立てていた駅もまだ残っていた。リズミカルな、耳に心地よい音だった。その風景は今はない。 さして広くもない部屋に、さして多くもない荷物が運び込まれ、僕は真新しい畳の匂いが立ち込める部屋にひとりで座っていた。ともあれ入学祝に買ってもらったCDコンポを接続し、ラジオを流してみた。耳に入る言葉がことごとく関西弁ではないことに、違和感があった。僕はラジオ大阪OBCや、MBS毎日放送を常日頃聴いていたのだが、その周波数に合わせても雑音しか入らない。深夜になると電波状態がよくなるのか、少しはクリアに聴こえるようになるので(それでも雑音混じりだ)、それを聴くことで飢えをしのいだ。そして眠りについた。 翌朝。4月1日。吐き気とともに目が覚めた。しばらく嗚咽を漏らした。なにがなんだか、わからなかった。悶絶していた。数十分の後になんとか気分を取り戻し、どうにかこうにか入学式に出るための準備を整えた。あとで思うに、これはストレス性のものだったのであろうと。表面上は平静だったけれども、ひとり暮らしを始める、大学に入る、これらのことが知らずストレスになっていたのだろうと。僕の心はヤワだった。目覚めの吐き気は数日続いて、そしてパタリとなくなった。適応が進んだらしい。入学式、科目登録、大学初授業、歓迎オリエンテーション、サークル新歓コンパ……これらが押し寄せ、呑まれるままに時は流れた。それが僕の東京生活のスタートだった。 2003年4月1日、火曜日。 6年前の3月31日の明日が今日でも、 何も不思議ではないように思われる。 不安をごまかしながら出発した僕を 見送ってくれたのも、桜だった。 |
2003 :
01-03
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