■ 2003年10月,11月,12月
仕事が納まったわけですよ。 幸せな年末年始休暇の前に越えなければならないヤマ、それは年末進行。たとえば通常月末締め切りの原稿が20日締め切りになることで、前倒しになる10日分の仕事がどっさり山積みに。その仕事量の増大たるやもう。おかげで日記は書けないわ、用意しかけていたクリスマス用トップページは頓挫してお蔵入りになるわで、サイト更新は悲惨な状態になりました。まあ、仕事優先ですから仕方ありません(過去、卒業研究よりも更新を優先させたことのある僕ですが、さすがに今回はそんなことする勇気はありません)。そんな4週間ぶりの更新、こんにちは。 とはいえ年内に消化しきれず、年越し決定の原稿を何本か抱えたままになっているので、気分が完全に休暇モードにならないのが、つらいところです。今日は「正月に仕事するぞ」との圧力を自分自身に対してかけるべく、会社の重いノートパソコンを持って帰ってきましたが、はたしてこれを起動させることがあるのかどうか。多分しないと思う。しないんじゃないかな。 会社における今年1年の仕事上のトピックとしては、「生意気にもwebに手を出し始めやがった」ということになるでしょうか。紙媒体のみならずwebにも対応できなければという時代の要請は、うちのような小さな出版社にも影響を及ぼします。むしろ弱小だからこそ、そうしないと生き残れないというか。クライアントから、「ホームページ作ってよ」という依頼を受けることが多くなってきているようです。 で、僕もそのいくつかの進行を担当しているのですが。 ちょっと前に「webデザイン勉強したい、やりたい」とか考えていた僕が、翻って紙媒体の仕事に就いたかと思いきや、めぐりめぐってwebの仕事にもたずさわることになるというのも、何の因果でしょうか。それも畏れ多くも制作進行を担当するという、この一足飛ばし感。ポリシーであるところの行き当たりばったりが人生にも反映されていて、それはそれで素敵です。 さておき自分でこうしてwebサイトを制作していることや、プライベートでwebサイトの制作に(変則的ではあるけれども)関わらせていただいていることといった経験は生かされていて、webデザイナーとの打ち合わせも結構スムーズにいっています(と、少なくとも自分では思っています)。 3〜4年前、夜を徹しておこなっていた「ホームページ作り」。文字通り寝食を忘れてのめりこみ、それに付随して「お、文章書くのって面白い」と思っていたら、いつの間にか文章の周辺に身を置くことになりました。加えてweb制作までも仕事のひとつに。当時は何のためでもなく、むしろそのあまりのハマリぶりに、時間の浪費をしているように思われたときもあったのですが。何がどう転ぶかわかりません。この考えを適用するならば、今、何かのためというわけでなくやってること、打ち込んでること、励んでいることが、将来何かに結実するかもな、などと思っています。なんにもならなくても、それはそれで。そんな感じで、やってまいります。 今年もご来場ありがとうございました。もうすぐ5年目に突入します。よいお年を。
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その1はこちら。 ――スポーツをマンガで描く時に、経験者とそうでない人では違いは出るものですか? ちば やっていた人が描いた方が奥行きは出るでしょうね。ただ知らない人が描くと、ボールが消えたりするのを平気で描けるんですよ(笑)。分裂したり。面白そうだからって描けちゃうんですね。 ――ちばてつや「ジョーの読者は親子三代(聞き手 竹内哲夫)」 (『編集会議』2004年1月号) インタビューをおこなうときには、取材対象者について、事前にどれだけの予備知識を仕入れておくことができるかが、成否の分かれ目となります。 相手が著書を出していれば、当然読んでおかなければなりません。類似したテーマでの、過去のインタビュー記事が雑誌に掲載されていたならば、取り寄せるなり図書館でコピーするなりして、目を通しておくべきです。その数は多ければ多いほど安全で安心です。 そうして仕入れた予備知識を背景にして、インタビューの流れをある程度想定したうえで、本番に臨みます。多忙な人物を相手にして、与えられる時間は正味1時間。その間に、どれだけ話を膨らますことができるかは、ひとえに事前に仕入れた予備知識の多寡にかかっています。話の引き出しは、多いに越したことはありません。 ですが、そこに落とし穴があります。 ただ詰め込んだ知識だけに頼って、寄せ集めた情報だけに寄りかかって質問していると、話が予定調和に終始してしまうことが、往々にしてあります。そんなインタビュー記事は、まとまってはいるけれども読んでいて面白くない、という出来に仕上がることが多いようです。 そんな結果を回避する手段のひとつが、「あえて、知らないでいること」です。 言い換えると、「相手について、知りすぎないこと」となるでしょうか。著書や過去の記事を、読みすぎないこと、憶えすぎないこと。「知らない」という状態でインタビューに臨むことが、意外な効果を生むことがあるからです。 「知らない」と、ある意味においては「こわいもの知らず」になることができます。知らないと恥ずかしいと思われるくらいに基本的で当たり前なことでも、質問せざるを得ない状況下に置かれます。相手は、知らぬ者に教え諭す口調で、回答してくれることでしょう。「そんなことも知らないのか」と怪訝な表情をされたとて、そこで怯んではなりません。 得てしてこうした、「当たり前の質問に対する回答」が話を面白くし、新しい方向に導き、本人すらも意識することのなかった深層の心理を吐露させる突破口となるものです。そこを逃すことなく衝けば、記事を面白くする要素を拾い集めることができます。「知らぬ者の強み」です。知りすぎていると、「これは知ってるから、質問しなくていいや」と、質問事項に無自覚な制限をかけてしまうのです。 反面この手段は、「そんなことも知らないで話を聞きに来たのか」という、相手の怒りを呼ぶ危険性も孕んでいるので、注意を要します。相手を見て、流れを読んでの適用が吉です。本当に熟達したインタビュアーならばおそらく、知識を目一杯仕入れておきながらも「知らないフリ」に徹して、的確な質問を投げ続けることができるのでしょうが。 仕事として、多くの人々にインタビューをするようになってまだ日の浅い僕が、「知らないフリ」をする域に達するには、どのくらいの時間を要するのだろう、と考えます。といって「あえて、知らないでいる」という手段を採るのは、こわいのです。だから僕は、せいぜい情報収集に励み、たとえ付け焼刃でも予備知識を詰め込めるだけ詰め込んでから、インタビューに臨んでいます。 今の僕が武器とすべきは、経験の浅さという意味での、「知らぬ者の強み」なのでしょう。ちばてつや氏は、野球を知らなかったがゆえに、「消える魔球」を描くことができました。 |
ミステリー読みには、おおざっぱに言って、2つの人種があるらしい。 推理しながら読む人。 推理しないで読む人。 本当に乱暴な2分割だけれど、僕の周りにいる多くの「ミステリー読み」の人々の話を聞いていると、実際このように分けられる。 「推理しながら読む人」曰く、 「推理しないで読むなんて冒涜だ」 「それで面白いの?」 「醍醐味わかってなーい」 「推理しないで読む人」曰く、 「だって、推理しようとしたってわかんないし」 「いや、面白いってば!」 「わかってないと申されましても。しくしく」 で、僕は後者なのだった。 そも、僕は本を読むときに、頭を使っていないように見受けられる。目は文字を拾い、物語を追い、顛末にハラハラしたり手に汗握ったり泣いたり笑ったりするのだけれど、読み終えた端から忘れてしまう(以前にも書きました)。そんな僕だからミステリーを読むときにも、「推理しよう、見破ろう、作者に挑戦しよう」なんて気概は露ほども持ち合わせない。 この性質は、「ミステリー」およびそれに類するジャンルの小説を読み始めた当初からのものであるらしい。小学校中学年の頃はポプラ社版の「乱歩」「ルパン」「ホームズ」、高学年になると赤川次郎や西村京太郎や山村美紗、中学生になるとアガサ・クリスティと、比較的早いうちから読んできたように思うけれど、「推理しながら」読んでいた記憶はない。 推理しなくても、楽しんで読めていた。このスタイルは今後も変わることはないだろう。けれど最近、「はたしてそれでいいのか?」と思うようにもなってきた。 「推理しながら読む人」の話を聞くたびに、僕は羨ましく思うのだ。それは、僕にはできないミステリーの味わい方であるから。作者の散りばめた手がかりに気づき、伏線を看破し、トリックを推理する。その推理が当たっていようが外れていようが、結末に至って得られる、してやったりの喜びとか、裏をかかれた悔しさとかっていう感情は、僕には起こり得ないものである。 さらにトリックを評価する、分類する、その上で作品を評論するとかいう行為にまで至られると、もはや「いやあ、そんなに奥深いものだったんだなあ」と、嘆息するほかない。「そんな読み方があったんだねえ」「作家ってすごいねえ」「ミステリーって、面白いねえ」と、気づかせてくれる。 そして僕も、「少しは考えながら読んでみるかなあ」と思うのだった。 ◆
――と思わせてくれるサイトが、もろやんによる『ぐうたら雑記館』である。僕は読みたい本があった場合に、もしも彼の書いた評論なり感想なりがあるならば、まずはそれに目を通してから読み始めるようにしている。「深く読むためのポイント」を教えてくれるからだ。僕が独力で読んでいたのでは見逃してしまうであろうポイントを。 しかしこんなサイトを制作しているのが、僕の学生時代からの友人だもんだから、羨望が倍になるとともに嫉妬の感情も若干交ざってきてしまうという、困ったサイトではある。 少し前に、僕のサイトは [Links] のコーナーを停止しました(紹介文を更新できない、きちんと定期的に訪問できない、等の理由によります)。その替わりに今後は、不定期ではありますがこういった形で日記とからめながら、お気に入りサイトを紹介していきたいと思います。トップバッター(兼やり玉)に、もろやんのサイトを挙げてみた次第。次なる標的を物色中。覚悟せよ。 |
苦しかったです。 何が苦しかったって、原稿が書けなかったのが。 取材記事3本(2,000字×3)を、ずっと抱えていたのです。この2週間。元来書くのが遅い僕ではありますが、通常ならば1日か2日でまとめ上げなければならない仕事量です。それが、1週間経っても、2週間経っても、ちっとも筆が進まない。「筆が進まない」なんて慣用表現を避けるならば、キーボードが叩けない(風情なし)。本当に苦しかったです。 深夜に3時間も4時間もディスプレイの前に座っていても、書くべきことの輪郭すらも見えてこない状態。取材自体はうまくいったにもかかわらず。現実からエスケープするためにWebサイトを徘徊するも、内容は全然頭に入ってきません。顔から生気が抜け、視線は虚ろになり、いつの間にか午前5時。徹夜してしまうとそれこそ翌日(?)使いものにならなくなるのでそれは避けるべく、書き上げることのできない悔しさを胸に抱えつつ床に就きます。 そんな、焦燥が8割方を占めた僕の精神状態では、長時間パソコンの前に座しているにもかかわらず原稿執筆以外のことには頭が回りません。 メールの返信が滞るし(いつものことです)。 掲示板のレスが滞るし(いつものことです)。 サイトの更新が滞るし(いつものことです)。 あれ? いつもと変わってないではないですか。 まあ、それはさておき(スルー)。 そんな蓄積原稿を、今日やっと書き上げ、すべてを荷下ろすことができたのです。すっきり。 ……とした心境で、明日から佐賀出張です。渋い。 |
昨年6月はじめのこと。 『はらだしき村』の制作会議で、都内某所に“助役”こと制作スタッフが集まり、“村長”こと原田さんを中心に、車座になってあれやこれやと話し合いをしていた。 5月半ばから小出版社で働きはじめた僕は、この席ではじめて、スタッフのみんなに、そして原田さんに、「就職できました報告」をすることができたのだった。 入社まもない頃で、もらった名刺をまだ1枚も減らすことができないでいた僕は、ここぞとばかりに、名刺を渡した。原田さんに。そして持参してきた『十九、二十』の単行本に、「記念に」ということでサインをいただいた。「節目に」ふさわしい気がしたからだった。『十九、二十』は、そういう本だった。 その日の会議は、新企画の検討などもあって長丁場となった。午後1時にはじまったと思いきや、あっという間に6時を回っていた。「会議」といっても緊張感あるピリピリとしたものではなく、「雑談の中から面白いことが生まれる」といったスタンスで、談笑しながらのゆるやかなものであるので、さほど疲弊するものではない。 日が長い季節とはいえ少しずつ暗くなりかけてきていて、さて散会か、という雰囲気が漂い出した頃に、原田さんが言った。 「こんな物語が、できたんだけどね」 取り出されたのは、原稿用紙の束。いちばん上の用紙には、こう書かれてあった。 『醜い花』 それは、間近に迫った世田谷文学館での朗読用に、書き下ろされたものであるらしかった。「一晩で書き上げることができたんだ」と原田さんは言う。その言葉には、書き上げた時の高揚がまだ鎮まらぬ、といった色があった。 「読んでみない?」 元をただせば一ファンのスタッフにとってみれば、願ってもないことだ。一も二もなくうなずいた。「じゃ、ひとりずつね」と、会議の席からは隔離された別所が指定され、ひとりずつ、その場所で読むように、との仰せがあった。スタッフは順番に、やや緊張の面持ちで、席を辞し、『醜い花』を読みに行く。 何番目かに僕が呼ばれて、原稿用紙の束の前に座る。ちょっとだけ緊張しながら、用紙をめくった。読みはじめた。 短い物語なので、読むにはものの10分もかからない。その物語は、なんだか哀しい物語だった。けれども文章のリズムがよかったので、読み終えた時には、爽快感すらあった。不思議な読後感だった。だからそのままの感想を、原田さんに伝えた。「ほおお」といった顔で、原田さんはうなずいた。 それが、僕と『醜い花』との出会いで。 その後、この物語が成長していく姿を、僕は見続けることになる。 朗読会で、役者や、著者本人が朗読するたびに、好評を博す。 「『絵本にしたい』と手を挙げてくれた編集者がいたんだよ」という原田さんの話。 「こんな挿絵を描いてくれてね」と見せていただいたイラスト。 「こんな曲をつけてくれてね」と聴かせていただいた曲。 原研哉さんの手による装丁を最初に見ることができたのも、会議の席であった。 いろんな人が集まり、才能を集結させ、1冊の本ができ上がっていくまでの、その間近にいることができた僕は、幸せだった。 「背表紙を見るだけで安心できるような、そんな本に育ってほしい」と、原田さんは言っていた。 そんな本が、今日、発売されたのだった。 1年半を過ぎ、慣れと飽きと格闘しながら働いている会社からの帰りに寄った本屋で、僕は『醜い花』を買ったのだ。 |
通常どおりの更新をしようとすると、いつまで経っても更新できそうにないので(妙に時間をかけてしまうため)、オーソドックスな日記を書いてみることにします。 031115 Reading Company vol.2 光が丘のIMAホールで催された、『大沢在昌・京極夏彦・宮部みゆき 自作朗読会』へ行ってきました。「大沢オフィス」に所属する3人の人気作家による、チャリティーイベントです。予想を越えた3人の芸達者ぶりに、大いに楽しませていただきました。自身では「朗読は素人」などと言っていましたが、それは謙遜というものでしょう。最後には「vol.1ではやらなかった」という、3人のフリートークも展開され、お得感。 いつも通りの和装で『嗤う伊右衛門』を読んだ京極夏彦。なぜか燕尾服で『自画像』を読んだ大沢在昌。そして会場全体が度肝を抜かれた格好で、書き下ろし短篇『チヨ子』を読んだ宮部みゆき。3人それぞれがいい声で、かつ三者三様の魅力を振りまいていました。とりあえず京極さんはカッコよく、大沢さんはシブく、ミヤベさんはかわいかったです。特に京極さん、髪がストレートになっていて好感度アップです。 このイベントのチケットは、「チケットぴあ」にて9月26日の金曜日に販売が開始されたものなのですが、即日完売必至のため電話予約が必須であろうと思われました。しかし平日ということで、仕事のある僕には電話は不可能。そこで学生のもろやんに頼み込んでチケットを押さえておいてもらったのです。 実はこの日は、十勝沖地震のあった日。彼の住む札幌でも震度4を計測し、彼の部屋ではシャア専用ザクとガンダムが倒れました。寝不足も相まって悠長にチケット取りしている場合ではなかったはずの状況下で、よくぞ約束を果たしてくれたと思います。大感謝。 この感謝の意を示すために、僕は開場直前に携帯電話から、「いってきます。京極とミヤベに会いに」という、心憎いばかりの自慢メールを送っておきました。彼からの返信は、「いきやがれ(涙)」というもの。涙を流して送り出してくれたんですね。熱い友情です。 朗読会には、最近足を運ぶ機会が増えました。文章を目で追うのとはまた違った味があるので、結構やみつきになりそうな気配。 031116 ゴッホと花 ひまわりをめぐって 新宿の損保ジャパン東郷青児美術館で開催中の、『ゴッホと花 ひまわりをめぐって』展を観てきました。10月には上野の国立西洋美術館で『レンブラントとレンブラント派』展を観てきたのですが、その時に2館共通券を買っておいたのです。この共通券、「オランダの二大巨匠」というくくりで、抱き合わせ的にセット販売されていたものなのですが、どの道僕は両方行くだろうと思われたので、これ幸いと購入しました。 『ゴッホ展』といえば前回、99年に渋谷Bunkamuraで開催されていたものにも行きました。今回の展覧会の目玉は『ルーラン夫人(揺り籠を揺する女)』という作品なのですが、僕は、「これ、渋谷でも観たことあるよなー」という思いがずっと頭にありました。で、当時のチラシを引っ張り出してきて確認してみたのですが、やはりありました、『ルーラン夫人』。2回目の来日なんでしょうか? だけどよく見ると、細部や筆のタッチが少しずつ違っている。 その謎は、今回の展覧会で解明されました。ゴッホ、この『ルーラン夫人』を、5回にわたって描いていたのですね。4年前に日本にやってきたのが5番目、今回のは2番目に描かれたものであるということです。写真で紹介されていた他の3作品とも見比べてみると、それぞれに夫人の表情や、全体の与える印象が異なっていたのが面白かったです。 日本でやたらと人気があり、バブル期には投資の対象の象徴ともなっていた彼の絵画。僕も多分に漏れず好きなんですが、今回はやや物足りなさがありました。テーマ展ということで、単純にゴッホの作品の出展数が少ないということもあったのでしょうが。4年前のはよかったなあ。 あと、思いがけずミュシャの作品も観ることができたのは収穫でした。 文化的な連休を満喫したかのように思わせる作戦。 |
年賀状、もらってください(直球)。 この企画も、回を重ねて3回目(011101, 021101)。もう、要らぬ前向上を述べるのはやめにします。誰か、僕の年賀状をもらってください。手を挙げてください。 みなさんが手を挙げやすいように、 どうです、この親切設計、低姿勢。メーラーを立ち上げる時間も手間も不要です。このフォームに必要事項をご記入の上、いざ送信。「リセット」を押さないように気をつけて。すると元日に僕からの年賀状があなたの元に届き、幸先のよい1年のスタートを切れるって寸法です。下記の要項をご確認の上、よろしくご検討のほどを。いやもう気楽に。気軽に。よろしくお願いします。 ※環境によっては、このフォームによる送信が不可能な場合もあるようです。その場合、お手数ですがメールにてご連絡ください。 ※過去2回ご参加いただいた方には、問答無用で送りつけますので覚悟してください。 ※基本的に、自己の「年賀状送りたい願望」をかなえるための企画ですので、「交換」を求めるものではありません。返信の要はお気になさらず。 ■企画要項 □手順 1.上記フォームにて、必要事項をチェック・ご記入の上、送信する。あるいはRanaさんに「年賀状送りやがれこのやろうメール」を送る。 >>> 2.Ranaさんから「ご参加ありがとうございますメール」が届く。(交換してくださる場合)このメールにRanaさんの住所氏名を添付します。 3.Ranaさんにあなたの住所氏名をお知らせする(フォームで応募の場合この手順は不要)。 4.(交換してくださる場合)年賀状を買いましょう。 5.(交換してくださる場合)年賀状を書きましょう。 6.(交換してくださる場合)年賀状を投函しましょう。 7.元旦にご家庭に年賀状が届きます。郵便事故がない限りは。 8.Ranaさん幸せ。 9.Ranaさんから届いた年賀状は、お年玉くじ抽選結果発表までは保存しておいてください。あとは煮るなり焼くなり。 10.めでたしめでたし。 □補記 1.とりあえず、Ranaさんが信用に足る人物と認識されているのかどうかが問われている企画であるような気もします。 2.古き風習が廃れつつあるのを憂いているわけではないみたいです。 3.本企画を通じて知り得た個人情報は本企画の遂行(つまり年賀状送付)以外の目的には使用しません。漏洩しません。 4.この企画のために、プリンタのインクを補充しました。 5.反響がなかったらこの企画自体こっそりとなかったことにして、Ranaさんは旅に出ます。 以上。
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日本シリーズが、佳境を迎えています。 10月26日現在、タイガース3勝、ホークス2勝。1点差、サヨナラ試合が続き、事前の予想通りの好勝負となっています。 金曜日の夜に新宿を歩いていたら、街頭テレビの前に試合を観戦する人だかりができていました。僕もしばし足を止め、試合経過を確認。通行に支障は出ていましたが、おかまいなしです。いいですね、こうして野球が人を惹き付けている風景というのは。願わくば日本シリーズのみならずペナントレースにおいても、これだけの魅力を取り戻してほしいところなのですが、今の流れだと土台無理な話に思えてなりません。 個人的な予想では、4勝2敗でホークスと踏んでいました。ライオンズファンとして、今年のホークスの強さをイヤというほど、うんざりするほど、呆れるほどに見せ付けられてきましたから。ですがタイガースが甲子園で3連勝したことにより、先に王手を。この勢いで今晩、タイガースが覇権を握るのか地元に帰ったホークスが巻き返すのか、今から試合が楽しみです。 さて、僕はこの日本シリーズ期間中、毎朝スポーツ新聞を買っているのですが、ちょっと気になったことが。 ■試合翌日のニッカンスポーツの一面の見出し。 サヨナラ1勝 王ダイエー(031019) 王ダイエー 星野阪神打ちのめした(031020) 星野監督耳打ち サヨナラ(031023) シリーズ初 サヨナラ!!サヨナラ!! 金本弾(031024) 有終王手 星野監督(031025) もうちょっと選手たちの名前を売ってあげてくださいよ。 わかります、わかります。両チームで一番ネームバリューを持っているのは、「タイガース星野監督」「ホークス王監督」であることは。関東ではあまり知られていないタイガースの選手たちの名前や、関東はおろか福岡以外の日本中であまり知られていないパ・リーグのホークスの選手たちの名前を一面にしたのでは、部数が稼げないという目算があるのだろうということもわかります。しかし、 ズレータや、城島や、藤本や、桧山の名前を、この機に全国区にしてあげてほしい。鳥越の殊勲打、杉内の力投、吉野の好救援、下柳の好投は、十分一面に値すると思う。 なんですか、金本クラスの選手がサヨナラ本塁打級の仕事をしでかさないと、一面は無理なのですか。 アメリカには、日本における「スポーツ新聞」的なものがなく、それに類するのが「地元紙」ということになるでしょうが、たとえば現在同じ進度で開催されているワールドシリーズで、「ヤンキース ジョー・トーリ監督」「マーリンズ ジャック・マッキーン監督」が、一面で扱われることを想像してみたときの違和感。この違和感が、日本においては希薄になるところが問題なのですね。監督の扱われ方、変。選手たちに光を。 まあ、こんなことをうだうだ言っていても、今夜タイガースが勝てば「星野・星野・星野」、明日までもつれ込んでホークスが逆転すれば「王・王・王」の大合唱になって、狂騒のうちにまぎれて消えてしまうのでしょう。その意味では、今日の日記はとても賞味期限が短いと言えます。夜の観戦にそなえて、昼寝でもしとこうかな。そんな休日の過ごし方。素敵。 ※その夜の第6戦は、ホークスが完勝で逆王手。決戦は月曜日。早く仕事を終わらせて家に帰って観戦したい。帰りたい。帰らせて。 |
ところが神の愛を説く聖書、仏の慈悲を説く経典、あるいはコンピューターのマニュアル、哲学書、詩歌、文学、全部同じ書体、明朝体なんです。世界の先進国の中でこんな異常な状態は日本だけです。 ――片塩二朗「なぜ明朝体がイヤなのか」 (『編集会議』2003年10月号) 書体が、脚光を浴びています。 京極夏彦は、みずから書体を選んで『陰摩羅鬼の瑕』を出版しましたし、文芸誌『ファウスト』では、文体と書体の融合という新しい試みがなされました。 文庫なら文庫、ノベルスならノベルスのフォーマットに入れ込むのみ、あるいは単行本ならばブックデザイナーの選択に委ねるのみであった書体の世界に、作家や編集者が積極的に踏み込んでいっているこの流れは、とても面白いものだと思っています。 素人の立場からしても、この「書体を選ぶ」という過程は楽しいし、悩むし、時間を費やすところです。たとえば現在のトップページには「Eurostile Extended」という書体(フォント)を使用していますが、これにたどりつくまでには、自分のパソコンに入っている実に300弱のフォントの中から、行きつ戻りつ、あれでもないこれでもないと、試行錯誤する時間を必要としました。イメージに合致するフォントに出会った時は何とも言えぬ安堵感があります。 ――例えば『陰摩羅鬼の瑕』ですと、「ヒラギノ明朝w3+游築五号+ヒラギノ行書w4」と書体指定が明記してありますね。 京極 僕らはそれで飯を喰ってるわけで、フォント制作者にはもっと敬意をはらうべきです。これはノベルスにする時にヒラギノだとどうも硬いし、他のノベルスと印象が違っちゃうので、平仮名だけ游築という書体にしたんですね。 ――京極夏彦「推敲作業とは何か(聞き手 千街晶之)」 (『ポンツーン』2003年10月号) 「書体を選ぶ」過程は、「ミステリを読む」のチラシを制作する時にも訪れます(「ミステリを読む」については、011019, 021019の日記を参照としてください)。特に直近に手がけた『頼子のために』(法月綸太郎)という作品をテーマとしたチラシ制作の際には、頭を悩ませました。 何が難しかったのかというと、 『頼子のために』 まず、タイトルが強いのです。成功しているかどうかはともかくとして、インパクトはあります。下手にアクの強いフォントでこのタイトルを装飾してしまうと、とんでもなく野暮ったくなってしまうでしょう。かと言って、おとなしいフォントではタイトル負けしてしまいます。 そして、中身。『ぐうたら雑記館』の掲示板で、くらさんが言っている(1447-01)ように、「読後感が嫌〜、な作品」なのです。こりゃもう、読んでいただければわかります。チラシ制作のためとはいえ、僕をこの本に引き合わせたもろやんを恨んだものです。ヤな気分になっちまったじゃないかちくしょう(『頼子のために』については、そのもろやんの読書メモも、ご参照ください。>>>■)。 そこで僕は、「このヤな読後感を何とか浄化する、すっきりとしたデザイン」のチラシを作りたいと思いました。かつ、「タイトルと相殺してしまったり、あるいは負けたりしてしまわないようなデザイン」にしなければなりません。 デザインを簡素にするということは、フォントにかかる負荷が大きくなってくるということです。先述したように下手な選択は禁物ですから、慎重を期しながら探しました。惜しむらくは、所持している和文フォントが決して多くはなく、選択肢がそれほどなかった、ということです。 行き着いたフォントは、「HG正楷書体-PRO」でした。>>>■ 完成させたはいいものの、おそらくは最善の選択というわけではないのだろう、と思っています。ふさわしいフォントは、僕の知らぬところで眠っているように思われ、そこがもどかしいところです。自著を表現する書体に出会い、出版することがかなった京極夏彦の快心はいかばかりか、と想像します。 舞城さんの文章は心を強くかき乱される、まるでジャングルの中を駆け回っているようなスピード感のある不安な感じがあります。その感覚を漢字とかなの組み合わせ、そしてウェイト(文字の太さ)を変えることによって表現しました。 ――紺野慎一「『ファウスト』版面の秘密!?」 (『ファウスト』2003年10月号) 僕のような素人までもが惹き込まれる、書体探しの旅。文芸誌『ファウスト』は、「文体と書体の融合」という方向性をさらに徹底していくと聞いています。それが読者にどう受け止められるのか、吉と出るか凶と出るかも含めて、今後の展開を楽しみにしています。 ※文中、「書体」と「フォント」という単語を便宜的に使い分けていますが、私的な線引きで非常にあいまいなので、特に気にせず同一のものと受け取ってください。 |
学生時代、毎日のように顔をつき合わせていた友人たちとも卒業以後はめっきり疎遠になり、それこそ結婚式級のイベントでもない限りは連絡を取ることもなくなってしまっている。 ただ、そんな彼らの近況を知ることができる場所が、僕にはある。行きつけていた定食屋がそれだ。たとえば7限目のゼミが終わって辺りはとっぷり日も暮れて、家に帰ってひとり食事の支度をするのも侘しいと感じたようなとき。そんなときに4、5人で誘い合って、 「メシ食って帰るか」 「おー、そうすんべ」 ということで学校からほどない距離にある定食屋の暖簾をくぐり、カウンター席に座るのであった。 「おー、おめーらか」 と、店の主人が言う。そして、 「大盛りだろ?」 これが二の句であった。いつも同じ定食を注文する僕らは、もはや「いつもの?」とすらも聞かれることがない。「大盛りか、普通盛りか」これが唯一の選択肢だった。 時が経って。 依然学生時代と同じところに住んでいる僕は、会社帰りにその定食屋の前を通って、家に帰る。夜遅く、僕が家路につく時間帯には大概店は閉まっているのだけれど、たまさか仕事が早く終わると、昔と同じく学生たちで混み合っているその店の前を通ることになる。 たいていは横目でちらりと店の中を覗いて、十年一日のごとく中華鍋を振っている主人の姿を確認して通り過ぎるのだが、気まぐれに店の中に誘い込まれることがある。数ヵ月に1回程度のことだけど。 「おー、ひさしぶり」 決して愛想のよいわけではない主人に、そう言って迎えられる。そしてやっぱり、 「大盛りだろ?」 と、こう言われるのだった。食欲のさかりを過ぎ、正直大盛りを平らげることは少々苦しいことが予想されるのだけれども、それでも、 「あ、大盛りで」 勢いに押されてこう言ってしまう。 友人たちの近況を知ることができるのは、カウンターを挟んで調理中の主人と雑談を交わしている間のことである。 「アイツは、T大の大学院行ったってなあ」 「こないだ引っ越した彼、おととい食いに来たよ」 「ああ、そいつは、なんだか会社辞めちまったらしいなあ」 「おめえさんと同じように、仕事帰りに来るヤツもいんだよな」 「で、そのおめえさんは何やってんだっけ。ああ、出版社だっけな」 こうして、とくに聞きもしないのに、友人たちが、今どこで、何をやってるのかという、こと細かな情報が耳に入ってくるのだった。裏を返せば、僕と同じく、いや、僕と違って引っ越しして離れたところに住んでいるのにもかかわらず、みんなちょくちょくこの店に顔を出しているということだ。 僕たちはこの店で交差する。 予想通りに苦しくなりながらも、僕は大盛りの定食を平らげる。 「味噌汁おかわり、いるか? 閉店まぎわだから、サービスな」 「あ、いただきます」 「吉野家や松屋じゃ、これ50円で出してんだろ? 暴利だよな」 と言って主人は、目を伏せながら笑う。見た目の豪快さに反して、実に照れ屋なのである。年中鍋を振っているその右手は火に焼かれ、二の腕にかけてうぶ毛すらも生えていない。 「ごちそうさま」 「おう、ありがとな。また来いよ」 勘定をして、店を出る。僕は、隣の古本屋を冷やかしてから家に帰る。 |
某友人が、某出版社の某賞の佳作を受賞したので、そのお祝いをした。 学生時代からの馴染みの街の、学生の頃に行きつけた店々よりは洒落た落ち着いた小粋な居酒屋で。 集まったのは彼の文学部の友人たちが多勢で、学部の違う僕はその中でちょっとだけ異端だった。 学部が違うし学年も違う彼と僕とが知り合ったのは共通の友人を介してのことであり、普通ならば接点などあり得なかった2人であるのに、縁とは本当に異なものだ。 受賞の知らせは、本人からの携帯メールだった。前の年に惜しいところで選に漏れていたのを知っていたので、素直に「おめでとう!」という返信を出した。 けど同時に、「ちっくしょう、なんだかくやしい」という思いもあって、その感情は隠しながらの言祝ぎではあった。そんな男心。 受賞作をはじめとする、彼のフィールドにおける文章は僕には絶対に真似のできない類のものなので、嫉妬というよりは嘆息だけなのだけれども。 逆に軽いタッチの文章で不覚にも「くすっ」とさせられたときには「ちょこざいな」と、対抗心を駆り立てられる、そんな相手。 祝いの席は実によいムードで、僕も久方ぶりに酒が進んだし、喋ったし、おおいに笑った。席を辞すのが惜しかった。僕にとってこんなことも珍しい。 おめでとう。 |
とある女優さんのインタビュー取材を終えた。女優さんはマネージャとともに帰り、現場にはカメラマンと僕の2人が残った。 C:Ranaくんって、緊張しないよねえ。 R:えええっ? そそ、そうですか? それは初耳。僕、えらい緊張しぃなのに。 インタビューはもとより、人に会う仕事のときはいつだって緊張する。前の晩の寝つきは悪いし、始終資料に目を通してないと落ち着かないし、会う直前にはイヤな汗が出てくるというものだ。今日インタビューした女優さんだって、子どもの頃からテレビで見てきた人で、子ども心に「キレイやのう」なんて思ってきた人で、今だってCMでよく目にする人で、そんな人が目の前に座って自分に視線を向けながら話しかけてくるのだから、緊張しない方がおかしい。質問する声は上ずるしカミまくるしで、しどろもどろになりながらもなんとか乗り切ったインタビューだった。そしてそれが僕のいつものインタビューだった。 そんな僕をしてカメラマンは、「緊張しないよねえ」と言う。このカメラマンはインタビュー取材のときに決まって組むパートナーなので、これまでにも俳優、アナウンサー、作家といった歴々、いわゆる「著名人」にインタビューする際にはいつも同行し、僕が話を聞いている一部始終を目撃している。だから今回のみにおける評価ではなく、現場での僕のふるまいのいくつかを総合して導き出された評価であるらしかった。 これはなんだろう、僕がそういった術(すべ)を、すなわち不安を取り繕い、臆病を誤魔化し、緊張を隠す術を、身につけたということなんだろうか、と思った。 そも、人と話すことが苦手でしょうがない僕が、仕事の場ではどうにかこうにか喋ることができているというのも、この「取り繕う術」の発達に拠るところが大きいと思っている。逃避が許されない状況(すなわち仕事)において、人と話すという「いちばん苦手な場」をやり過ごすためには、「さっさと、うまいこと、無難に、片付ける」ことが得策だという意識によるものだ。決してポジティブな成長ではない。「仕事をこなせるようになった」という意味ではポジティブな結果をもたらしているとはいえ。 あともうひとつ思い当たる理由があってそれは、「緊張に対する免疫系の構築」というものである。ここで言う「緊張」とは、「人に会う際に当然もたらされるであろう緊張」と限定してみる。 どういうことか。僕は縁あって、昔々から愛読していた小説・エッセイの書き手と、一緒に仕事をする機会を持てた。最初のうちは、ただただ圧倒されるのみだったけれども、次第次第に自分から言葉を発し、意見を述べ、アイデアを提案できるようになった。臆することなく。「いちばん緊張するであろう人物」と定期的に会っていくうちに、耐性を獲得したのである。緊張ばかりしていたのでは仕事にならない。なにを話せばよいのやらわからず、ずっと押し黙ったままだった頃が懐かしい。 「その緊張に比べれば」 と思うのである。今、どんなに著名な人、高名な先生、大勢の人々に会う段になっても。これ以上ない荒療治で、「人に会う際にもたらされる緊張」の処し方を学んだのであった。 冒頭のカメラマンの発言に戻る。こうして僕は、「緊張しないよねえ」なんて言われるまでに、緊張の隠し方を身につけたし、内面での緊張の処理の仕方も会得したのであった。そう分析する。 ただ。 これが、本当に「緊張しない」ようになってしまったら、ちとマズイのだろうなあ、とも思う。隠すも処理するも、あくまで「緊張する」ことを前提としての話である。適当な緊張が心地よいと、そう思える境地はまだ遠いけれども。下手な「慣れ」が、緊張の芽を摘まぬことを願う。緊張のない仕事は多分、人を打たない。 |
2003 :
01-03
04-06
07-09
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